第5話 二人の舞踏会

 物語の終焉を飾るに相応しい古城で、青年と少女は静かに並び佇んでいた。窓から見える景色は一面の森を照らす満月。それ以外は何もなく、ただただ世界から隔絶された場所に二人は居る。

古城には、二人以外に誰もいない。車を運転していた初老の男性も、古城近くの宿舎に寝泊まりしているので、二人を邪魔するものはない。


 青年は所在なさげに立っていたが、少女に促されて豪奢なロッキングチェアに座った。揺蕩う動きに身を任し、その感覚を楽しんでいる青年を尻目に少女は自室に戻る。

いつか読んだシンデレラのように、今にも時間が来て消え入りそうな……そんな淡く脆い、触れれば壊れそうな繊細さで盛装された少女のドレス姿に、青年は思わず息をのんだ。

少女の頬に恥ずかしさから来る朱の色が差し込むと、青年もつられ赤くなった。


 今日が二人の初めてなのだ。期待に高鳴る胸の鼓動と相反して、静かに積もる異性の恐怖。少女の胸に去来する二つの矛盾。青年もそれを察したが、どうする事も出来なかった。少女の多感な精神性に、青年の常識は通じない。裸の心を、再び投げ出すしかなかった。


 だがいざという時ほど、男は弱いものである。少女以上の狼狽振りに、かえって少女の方が落ち着きを取り戻す体たらく。

挙動不審の青年に、何か飲み物を勧める少女に従って、地下のワインセラーに足を運んだ。その空洞は適切な空調管理により、ひやりと涼しい温度、湿度が保たれていた。


 この少女は未成年でも酒を飲む、不良娘なのかと訝る青年に、少女はあっけらかんとした笑顔で否定した。このワインセラーは年に一度帰るかも分からない両親の所有であって、少女は関係ないという。

両親のものなら尚の事、勝手に飲んではまずいと思った青年だが、どうせ減っても解りはしないと半ば強引に、一生飲む機会もなかった高級酒を持って会場へと戻っていった。


 いつも飲んでいるチリ産の、安いワインと違うのか?

青年の認識ではコルク=高級なので、古城構える少女の両親が秘蔵する酒だけに、いったいどれだけの値打ちがこのワインにつくのか、想像だに出来なかった。

グラスに注がれる、美しいワインレッドの液体。鼻腔をくすぐる華やかな香りが、青年の期待を一気呵成に煽る。香りを楽しみ、口腔に広がる豊穣な甘露の至福を楽しみながら――思った事はたいして美味くないだった。

酒には申し訳ないが、青年に今必要なのは味ではなくアルコールによる勢いである。生まれ落ちて初めて味わう高級酒は、格別の感慨も残さないまま青年の胃袋へと押し流されていった。

下戸という訳でもないが、さりとて上戸という訳でもない。酔う事が第一義と化した青年には、ワイン一本は十分過ぎる量であった。


 必死に嚥下する青年の喉元を見つめる少女、その胸に去来する気持ちはいかなるものか。少女以外に知る由もない。


 酒は男を磨く水である。時に勇気を、時に大胆さを、そして時に失敗を。男の歴史は、そのまま酒の歴史と見ても良い。酒あるところ人間在り、人間在るところ歴史在り。

今宵、青年に力を授けた酒の偉大よ。誰に感謝すべきであろうか。神か、少女か、いいや、ここは酒の所有者たる少女の両親に感謝すべきであろう。


 青年は立ち上がった。少女に眠る女の魔性に慄く、卑小な自分はもういない。青年の覚悟に応えるように、少女もか細く華奢な足で立つ。

青年は息を呑んだ。ただ立ち上がるだけの動作が、かくも美しい。少女の所作振る舞いは、漆黒のドレスに身を包んだその瞬間から一変していたのだ。

立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、なんて言葉にある通り、少女に漂う気品というものは、成程、花に例えるより他にない。


 青年の手を取ると少女は笑った。その笑みは、何に対する笑みなのか。

青年か、少女自身か、それとも、彼女を取り巻く雑多な環境に対しての諦念の笑みか。


 青年は笑わなかった。心は嬉しんでいた。人生最大の苦境に舞い降りた救いの主。

少女がいなければ、自我を保つ事すら難しかっただろう。青年の心を支配しているのは、ひたすら献上の精神である。

滅私奉公なんてものは前時代主義の遺産のように思われがちだが、人外ならざる感謝の念に晒された時に――人の心に無私の精神が宿る。


 だから、青年は笑えなかった。少女の笑みに愁いを感じたからこそ……今度は青年の力強さで、か弱き少女を包んであげたかったのだ。

滅私と助けたいと思うおこがましさは両立せぬもの?

いいや、人の心は零か百かでは計れない。


 気まぐれだった。少女にとって、誰でもよかった人生初めてのお節介。幸か不幸か、少女の気まぐれが青年の人生を救ったのだ。

人間万事塞翁が馬の言葉通り、何が起こるか予期出来ぬ――だからこそ人生は時に厳しく、時に無常で、そして逆境ある故の幸福が、つかの間の至福となって人生に価値を付加していくのだ。


 少女の流麗な踊りの前に、青年の踊りはまるでちぐはぐな滑稽さではあったが――それが可笑しかった。

心底くだらない、それでも確かに、可笑しかったんだ。


 少女の笑みに先ほどの愁いは消えていた。表情からは、ただ無邪気なあどけなさだけが、幸せの表出となって迸る。


 少女の無垢なる笑みに触れた時に――青年は再び泣いた。少女の喜びが、自分自身にとっての無上の喜び。青年の心は少女の慈愛なる母性に触れた為に、再び赤子の精神となって投げ出されたのだ。


 青年は弱い人間だから、誰か寄り添う相手が必要だった。


 少女は強い人間だから、強い故の孤独に打ち克つ寄り添う相手が必要だった。


 十万億土の彼方で踊る、神々さえも振り返る二人の純潔を見よ。

一つになる事で互いを補完する、片割れの鍵。

死せる古城に息吹く、生命のワルツ。


 踊った。踊り続けた。時間も忘れた。時計の針も、没する月も、妖光煌めく恒星たちも、誰も二人の踊りを阻む事は出来ない。

涙止まぬ青年も、その足を止める事はない。ぎこちなかった足取りが、少女のエスコートも手伝って、徐々にある種の紳士ささえ垣間見えたところで、少女は青年を抱きしめた。


 青年の胸に顔を埋める少女は、一体どんな表情であったろうか。


 少女の抱擁に始めて足を止めた青年も、一体どんな表情であったろうか。


 抱きしめた。互いの温かさを忘れないように。

 抱きしめた。互いの鼓動を心に刻むように。

 抱きしめた。二人を割く運命から抗うように。


 力強い、愛に溢れた抱擁も、過ぎれば多少息苦しい。青年の胸に顔を埋めていた少女が、月輪の笑みで青年を見上げると、初めてのキスを求めるように――目を閉じ青年の返事を待った。

求め与えられる青年は――少女のオデコにキスすると、気恥ずかしさを紛らわすように、再び少女を伴って踊り始めた。

酒の力が、少しばかり足りなかった。


 でも少女は嬉しかった。

 でも青年は嬉しかった。


 今夜は踊り明かす。二人だけの饗宴を。邪魔する者は、今はいない。

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