第2話 機械少女は何を思う
かの偉大な彫刻家ミケランジェロの名言に、こういうものがある。
「私は大理石の中に天使を見た。そして天使を自由にする為に彫ったのだ」
だとすると、ボクの前に現れた彼女は神々の与えた完成の影とも言うべき『美』そのものであり、傾国一の美女などという表現では到底追いつかぬ威容を、文芸部という密室には不釣り合いな存在感でもって満たしていた。
彼女を前に、ボクは心底恐怖した。ボクの今までの人生は何だったんだ?まるで無価値ではないか。まるで無意味ではないか。
馬鹿への怨恨に固執して、いったいボクに何が残ったのか。
彼女の神的美貌を前にボクの原動力であった怨は強風の前に吹かれる砂粒であって、瞬く間に雲散霧消し、歪に凍てついた劣等感という名の氷山も、この燦燦と輝く太陽を前にして摩擦程の抵抗すら敵わず氷解してしまった。
彼女は部室に入ってきたボクを一瞥する事もなく、ページをめくっては文字を追っていた。立ち尽くすしかなかった。
神聖にして不可侵な『美』を前に、ボク如きが何を出来たというのだろうか。この時ばかりは、世界中の誰もボクを非難する事は出来まい。5分は立ち尽くしたと思う。
章の区切りがついたのか、栞を挟むと彼女は機械的にこちらを見て、パイプ椅子を指さした。
座れという事なのだろうか。指示に従い、パイプ椅子を用意すると、部室の真ん中を占拠する長机の片隅に移動して座った。
部室には彼女とボク以外に誰もいない。他の部員はいないのだろうか。
それはそれで嬉しいが、この沈黙は――全然苦じゃないな!これを至上の愉悦と言わず、なんと言おう?彼女と同じ部室で、同じ空気を共有する。
それだけで、ボクの沈下していた全細胞が一気に鼓舞される。男って、ホント馬鹿だ。
邪(よこしま)な夢想に耽るボクを他所に、彼女は文机の引き出しから入部の為の書類を取り出すと、ボクに差し出した。
情けない話だが、彼女の何気ない所作全てに付きまとう高貴さに中てられて動けずにいた。
今まで感じた事のない神性に対して、同様の緊張を強いられるのは、臆病者のボクでなくとも起こりうる筈だ。というより、彼女を前に平素を装えるとしたらそれは人間ではない。
動揺に動けないボクを前にして表情を変えないまま訝るように首を傾げると、彼女は書類だけを机に置いて読書に戻ってしまった。
時間の流れが穏やかだ。こんなに平穏に包まれた瞬間が、これまであっただろうか。
学校とは苦痛を伴い、いかに達観して世間を俯瞰し、皮肉を込めて冷笑し醜い自我を誤魔化すかではなかったのか。
あぁ、そんな矮小夾雑な観念は今日限り捨て去ろう。ボクの全てを捨て去ろうとも、彼女の足元にも及ぶまい。
ボク如きが、彼女に近づきたいと願う事すらおこがましい、ともするとバベルの塔を築いて神々の不興を買うような愚行であれど、ボクは全身全霊を以て、彼女と一緒に居たいと思ってしまったんだ。
入部届へ即座にサインすると、彼女の方へ向き直った。気配を察したのか、読書途中ではあったけれど、彼女は読書を中断し、震えるボクの手から入部届を受け取ると、何も言わずに席に戻り読書を再開していた。
これは、入部が認められたという事なのだろう、こんなに嬉しい事はない。生れ落ちて15年。ボクは遂に、人生を投げ打っても良いと思える楽園に足を踏み入れたのだ。
さて、この楽園においてボクは一体何をすべきか。無論本でも読んでいればよいのだろうが、ボクは本より断然彼女に興味がある。
だが部室は心地よい静寂に包まれているも、その静けさを、ボクと言う不協和音でかき乱したくないのも事実。
美しい物語の中に、知らず迷い込んだゴミ。それがこの部室におけるボクだ。ゴミが分別弁えず、天上の美に近寄るなど許されるものではない。
だから、所在なく茫然と、ただ彼女から発せられる後光を一身に浴び、穢れと共にかき消されかねない精神を、やっとの思いで現世に留まらせる事しかボクには出来なかった。
そんなボクの塵芥に等しい思いにさえ、彼女は優しいから気を使ってくれたのだろう、本棚から一冊取り出すと、ボクに手渡してくれた。
実に神々しい限りである。せっかく下賜された宝の本、早速拝読させて頂こうと表紙に目を落とすと、
『筋トレは最高の哲学である!いま最も読まれている男の自己啓発』
「……何ですか、これ」
思わず吐いて出た本音。それに対し、彼女はつと鋭い眦(まなじり)を一瞬釣り上げて答えた。
「……マッチョ」
彼女の真意は解らない。
深すぎる。
ボク如きに彼女の深淵を推し量るべくもないが、おそらくマッチョが好きなのだろう。であれば、ボクの取りうる行動は一つしかない。
翌日、ボクは学校近くのジムに入会した。チビでモヤシなボクだけど、彼女が所望するならば、何十年かかろうともボディビルダーになってみせよう。
なんならステロイドの使用も辞さない覚悟が、ボクにはある!とはいえ、いきなりステロイドでは飛躍のし過ぎも良いところで、小学生のプール教室にいきなり競泳水着を着ていくような、初めての自転車に競輪で使う競技用バイクを使うような無謀であるから、初心者は初心者の段を上るとして、先ずはプロテインから始めようと思う。
ひと月もしないで、気持ち筋肉が付いた気がする。少なくとも、入会時は持ち上がらなかった重量が、今では上がる。
おぉ、何か男としての全能感が、どことなく湧いてきた気がするぞ。
根拠不明な自信が徐々に、ボクへ大胆さを授けてくれたのだろう。眉目秀麗な彼女を前にしても、何とか自我を保ち話しかける事が出来るようになっていた。
これはある日の暮れ下がり。下校時刻も間近というタイミングで、彼女が読了した隙をついて交わした会話である。
「なぜ、あの時ボクに筋トレの本を渡してくれたのか、今になって解るような気がします。貴方はボクに、自信を授けてくれたのですね」
彼女は少し――これはひと月も一緒に時間を共有し、かつ尋常ならざる熱量で彼女を観察した者のみにしか解らない微細な兆候だが、確かに驚いた顔をして言った。
「……そうなの?」
拝啓貴女様。ボクの一か月は、一体何だったんでしょうか。でも、そんなチャーミングな貴女が、世界で一番大好きです。
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