9.異母妹、三條蓉子の憂鬱


 携帯は好きではない。

 メールも面倒。電話も面倒。SNSでの発言も閲覧も皆無。

 そもそも携帯なんてモノは緊急時の連絡に使うもので、常習するものではない。

 それゆえに私の通話記録は1分を超えたことはないし、メールも絵文字などが使われることはない。

 だからこの間の電話は私の通話時間最長記録を生み出したことになる。

 電話の相手はどうやって会いたいという意志を伝えようかと苦慮していて、そのこと自体がまた私を苛立たせる原因の一つとなっていた。

 それがすべての始まり。

 そんな状態で昨晩から苛立っていたというのに、出勤して早々ロッカー室で女子社員の井戸端会議に捕まり、振り切るのに時間がかかった。

 さながら春先の雀のようにうるさい。

 いまだ雀たちは営業一課の出世頭の話題に事欠かない。あれから1ヶ月にもなるというのに、彼の死の憶測は絶えない。

 その部署に先日までヘルプに入っていた私は、ネタを引き出すのに最高の存在だと思われているらしい。

 大抵はいつもの調子でいつものように『知らない』と応えれば、伸ばした手を引っ込める。なのに今日はそうはいかなかった。やたらとしつこくされて、振り切るのに手間がかかった。

 朝からの一件で調子を狂わされたせいか、仕事はなかなかはかどらなかった。それでなくてもようやく通常業務に戻り、溜まっていた書類の整理に奔走していたというのに、業務開始から1時間、突然呼び出しを食らった。

 お噂の転落事件について、参考までに話が聞きたいという。

 ただし私を呼び出した相手は会社の監査部でもなく、噂好きの社員たちでもなく、警察だった。

 私が営業一課のヘルプに入っていたときに、何度か連絡をしてきた同年代の刑事からだった。      

 陽気で常に笑っていながら、抜け目なく状況を観察している、なかなか侮れない印象の刑事だった。実際、あの年で巡査部長という肩書きはなかなか順調なコースをたどっていることを表すらしい。

 その刑事が話を聞きたいという。

 あくまでも『参考までに』とのことだったので拒否することも可能だったが、私はその求めに応じた。

 相手が公僕だったからという理由ではない。

 なんとなく、この苛立ちを払拭したかったからだ。

 朝からついていなかった。それでなくても今晩の約束を思い出すと憂鬱だった。

 ああいう難攻不落そうな人間との駆け引きは、心の中に渦巻く嫌な思いを忘れさせてくれる。

 実際体のいいはけ口として軽く翻弄し、戸惑う顔を見て少々気持ちが晴れやかになったことは否定しない。

 そのせいか、午後の仕事は実に順調に進んだ。

 相変わらず残業にはなってしまったが、それでも待ち合わせの時間15分前には席につき、ゆったりと赤ワインを口に含んでいた。

 ワインは好きだった。特に赤ワインは。

 これの味がまったくわからない人間もいたけれど、正直わからないという感覚のほうが私にはわからなかった。

 その人物とはまったく共通項が見つからず、ワインに限らずことごとく相反する嗜好をもっていた。

 それでも楽しい時間をすごしていたと思う。

 グラスと、その中に広がる赤い液体をただひたすらに眺めていたところで、見られている気配を感じて私は顔を上げた。

 店の入り口で黙って私を見つめる女の姿。

 それが本日の主役、私を呼び出した張本人であることは間違いなかった。

 声をかけるなり近寄るなりすればいいものの、彼女は黙って立ち尽くしている。席に通そうとしているウェイターの声も耳に入らないらしい。

 彼女は足を止めたまま動かない。

 私の顔がわからないというわけではないだろう。

 一度会っているし、なにより私を呼び出した時点でそれなりの予備知識はつけているはずだ。

 彼女が躊躇し、一歩踏み出せずにいることは目に見えて明らかだったので、私は軽く会釈をした。

 その途端スイッチが入ったかのように入り口から近づいてきた。

 ただでさえ色白な顔はほとんど顔面蒼白状態で、ぎこちない態度は見ていて痛々しくもある。しかし同時に苛立ちも感じる。

 そもそも呼び出してきたのは彼女のほうだ。用件はあらかた想像がつくけど、これではまるで私のほうが悪者ではないか。

 悪い魔女に立ち向かう、勇敢な姫君。

 そんなさまが浮かんでなおさらうんざりした。

 そう思わせるほど目の前の女性は清楚でかわいらしく、誰もが守ってあげたくなるような雰囲気をふりまいていた。

 清廉な様は彼女の兄をそのまま思い出させる。

 姿かたちはともかくとして、同じ雰囲気を持っている。

 明るく、真っ直ぐに、正しく育ってきたにおい。

 あの父親の元、よくもこんなに綺麗に育ったなとある意味感心してしまった。

 それは本来持っていた気質のせいか、それとも彼らの母親の賜物か。

 彼女らの母親は常に正しくあろうとしていた、と父が言っていたことがある。

 だからこそ私たちの存在は絶対に認めなかっただろうし──それどころか、全くないものとして扱われていた──自分の子どもたちにも『正しく』あることを第一としていたと。

 それが幸せなことかどうかは別として、母の思う通りの育ち方をした彼らは、親孝行な子どもたちなのだろう。

 本当に私とは真逆な人たちだ。

 それに比べたら、私は何と親不孝か。

 私の母はできた人だった。

 父のことで愚痴を言うこともなく、私には何不自由ない暮らしを与え、そして深い愛情を注いでくれた。

 それでも私はこんな人間に育ってしまっている。

 よりにもよって父にそっくりな人間に。

「お待たせしました。高嶺、千秋です」

 真向かいに腰を下ろし、震えながらもしっかりとした声音でいった。

 時計の針は丁度待ち合わせ時間。7時30分。

 時間に正確なところも兄妹そろってそっくり。

 所々に見える類似性に私は微かに笑った。

 その笑いに彼女は不快を覚えたらしい。眉根を寄せて私を睨む。

 そんな眉の寄せ方さえもそっくりで、私はますます口元が三日月をかたどるのを止められなかった。 

「何かおかしいですか」

「いいえ。ただ、やはり似ているなと思って」

「誰と」

「あなたのお兄さんと」

 そこで彼女は言葉を探しているかのように目を泳がせ、口を閉ざした。

 まるでタイミングを見計らったかのようにウェイターがやってきて、注文をとっていった。

 私はすでに空になっていたワインをもう一杯。彼女はソフトドリンクをたのんだ。

 オーダーをしている間、私たちは一言も言葉を交わすことなく、そしてウェイターが恭しく下がった後も、その沈黙は続いていた。

「あなたの、ではなくて、わたしたちの、でしょう?」

 先に口を開いたのは彼女のほうだった。

 可憐な容貌とは裏腹に意思の強さを感じさせる声音だった。

 これはこれは。可憐で守ってあげなければならないようなお嬢さんなんかではない。

 妹はナーバスだから。

 そんなことを言っていたくせに。

 兄の死をうけて性格に変化がもたらされたのかもしれないが、多かれ少なかれ、気の強さは内に秘めていたのだろう。

 本当に、あの人は見る目がない。

 何となく気分が高揚してきて、私は幾分臨戦態勢に入った。

「聡史さんは私の兄ではありませんよ。当然千秋さん、あなたも私の妹ではないわ」

 それは決して愛人の子という卑屈な思考からではない。私はありのまま、事実を述べているだけ。

 私は戸籍上、認知などの処理は一切されていない。むこうの妻が亡くなっても、こうして身内の全員が事実を知ったあとでも、あの父が私を認知することはない。私たちが公式に兄妹となることは絶対にない。それは私だけでなく、彼も気がついていただろう。

 だからこそ、『兄妹』などという白々しい会話を私は嫌った。

 そのことは彼の生前にも散々口にしていた。

 そうする度に彼は笑いながら言った。

『じゃあ言い方を変えよう。我々は高嶺寛史のこどもたちだ。これなら正しいだろう』

 彼は私がいくら邪険に扱おうともいつも笑って陽気に接し、そして隣にいるのが当たり前のように私と席を共にしていた。

 最初は認められていない子への憐憫かと思った。

 でもそういった雰囲気もそぶりも全くない。実際そんな憐憫などという感覚は持ち合わせていなかったのだろう。

 彼は常に『正しい選択』のために動いている。

 そう理解したのは随分経ってからのことだった。

 それでは千秋さんはどうだろうか。

 強い好奇心をもって、私は彼女の言葉を待った。

 千秋さんは言葉を失い、それから忌々しそうに私を見つめた。

「でも兄さんはあなたのことを妹だと思っていたわ」

 はっきりと口にしないが、千秋さんがかもし出す態度には私に対する拒否が込められていた。

 いや、彼女の目を見る限り私に対するというよりも、私の中にいる父の姿にといったほうがいいだろう。

 皮肉にも私は父の気質を一番強く受け継いだらしい。

 彼から千秋さんが父親のことを苦手にしていることは聞いていた。トラウマ的なものもあるのかもしれない。あの父は人に命令し、威圧感を与えることに慣れているから。普通の人間ならば素直に従ってしまうような不思議な雰囲気があるのだ。

「少なくともあなたのことを家族と思っていた」

「私は家族と呼ばれるほど、連絡を取り合っていたわけではないわ」

 そもそも連絡を取り合って約束して会うなんてことはほとんどなかった。初めて彼が私を訪ねてきたとき。母の葬式のとき。私の就職が決まったとき。そして彼の母が亡くなったとき。片手で足りるほどの連絡数だ。

ただ。

 約束はなかったが、ともに社会人になってからはこのお店でよく会った。

 一度だけ私とここで偶然会った。その一瞬でわかったのだろうか。私はこの店を気に入っていて、定期的に通っていた。

 それ以来彼は月に数回、この店にくるようになった。

 私もいつもこの店に入り浸っているわけではないから、ここで会うことは月に一、二度あればいいほうだった。時には半年も顔を合わせることなく、すれ違ったこともある。

 しかし、顔をあわせれば大抵席をともにした。

 たわいもない話をし、時には父の話もした。

 私たちは同じ父を持っていながら他人で、同僚で、店の客どうしという立場だった。

 だから私たちの席は周囲と少々雰囲気が異なっていたことは否めない。はっきりしない、曖昧な関係だった。

 はっきりしていたのは、私と彼との直接的接点はここだけと暗黙の了解のように決められていたということだ。

「関係ないって、そういいたいんですか」

 彼女は怒りを押し殺して私に立ち向かってきた。

「兄さんがあなたのことを妹として気にかけていたことは事実だわ。だから弁護士になることも諦め、少しでもあなたのそばにいることを選択し、あなたのために奔走して、あなたのために何か手はないかといつも考えていた。会社でも家でも。その痕跡ははっきりと残っている。あなたを認知させようとしていたのよ? 少しでもあなたの力になろうと思っていたのよ? なのにあなたは兄に対してなんとも思わないの? どうでもいいってこと?」

 息を少々荒くして、そうまくしたててきた。

 妹、妹、妹。

 その言葉をわずらわしく思っていることを彼女は気がついていないらしい。

 私は千秋さんの様子を黙って見つめていた。

 彼女が熱くなればなるほど、私は冷静になっていく。

 私たちの間に気まずい雰囲気が流れたときだった。

「失礼致します」

 顔色一つ変えず、ウェイターがグラスを二つ置いた。

 彼女の前にソフトドリンクが、私の前に赤ワインが。

 ここのウェイターは何があっても大抵動じることはない。詮索するそぶりも見せない。それはカウンターに入っているマスターの方針と教育の賜物なのか、とにかく私にとってはとても居心地のいい場所だった。それがここに通う要因の一つだった。

 赤ワインで少しだけ喉を潤してはっきりと言い放つ。

「私が高嶺家とつながりを持ちたいと言ったことは一度もないわ。思ったこともない。あなたのお兄さんにどうにかしてほしいと頼んだこともない。当然私のために弁護士を諦めてくれといったこともないわ。それなのに、私はあなたのお兄さんに感謝しなきゃいけないのかしら?」

 私は彼の行動について、なんら感慨を覚えない。

 そもそも彼は私に感謝されることを望んでそんなことをしていたわけじゃないはずだ。

 それが、正しい行動だから。

 理由はそんなところだろう。

 しかし私と彼とのそんな相互理解は千秋さんの理解の範疇外だったらしい。

「そんな」

 そこまでを口にするのがやっとで、それ以上彼女は言葉を失った。

 また沈黙。

 正直私は困っていた。

 彼女の目的がはっきりとしないからだ。

 自分の家庭に影を指した愛人の子に恨み言を言いたいのならば、そうすればいい。

 自分の存在を悪いと思ったことなど微塵もない私へ憎悪をぶつけたいなら、そうすればいい。

 自分の兄と私とがひそかに連絡を取っていたことが不服ならば、それを罵ればいい。 

 なんでもいい。

 いずれにせよ、これ以上付き合っているのはばかばかしくなってきた。

「あなたは何がしたいの?」

 私は感情を抑制しながらも、かなり高圧的に彼女に詰め寄った。

 受身だった私が一変して責める立場に変わったことに彼女は戸惑っていた。

 少しばかり好戦的になっているのは、ワインのせいか、それとも昼間の刑事とのやり取りの余波か。

「私を罵りたいならばすればいいし、もう高嶺とは縁を切れという話ならそれでもいいわ。なんでもいいけれど、私をわざわざここに呼び出した理由は何?」

 なんと冷たい女か。

 自分で自分をそう評価していた。

 でもこうしたほうが相手も話に乗りやすい。

 そう思っていたら案の定だった。

 はじめは戸惑い、押され気味だったというのに、おどおどしたところは一瞬にして消え去り、意思をはっきりとたたえて私と対面した。

 この瞬間、彼女は判断したのかもしれない。

 はじめは私に同胞としての何かを求めていたのだろう。それはまさに『高嶺寛史のこども』としての不運の共有。でも私はあの父親のこどもとして産まれてきたことに何も思うところはない。感傷もない。嫌悪もない。単なる、『父』という個体としての、高嶺寛史。

 私には彼女と同じような感傷を持つことができない。だから共感はできない。

 そんなふうに考えてしまう私の本質をようやく理解したのだろう。

 この女に人間らしい感傷を求めること自体が愚かだった。

 彼女の目はそう語っていた。

 彼女は落胆とほんのわずかな嫌悪を見せて、静かに口を開いた。

「罵りたいわけでも、うちに近づくなと言いたいわけでもありません」

 それにうちにはもう『家』と呼べるような形は残っていないから。

 彼女は寂しそうにそう付け加えて、それからしっかりと決意を込めて私を見つめた。

「兄に送った最後のメールは、どんな内容だったのですか?」

 なんだか聞いたことのある台詞だった。

 ニュアンスは若干違うものの、昼間訪ねてきた刑事が同じような事を聞いてきた。

 妙な偶然に苦笑し、そして刑事と結託しているのではないだろうかとちょっとした疑念を持つ。

 しかしながらあの刑事がそんなことをするはずがないとすぐに自分の疑念を否定する。

 私はあの刑事に望むだけの答えを与えた。この子を使って再び接触してくるような画策は必要ない。

「中身、知らないの?」

「携帯は壊れていました。データの復元ができたのはアドレスの登録内容と着信履歴と受信履歴だけでした。中身まではわからなかった」

 そのあたりも刑事が言っていることとまったく同じ。

 しかしここで刑事の話がまったく出てこないということは、おそらく彼女独自でデータの復旧に手を回したのだろう。

 刑事と接点があれば今の会話の中でそれらしいニュアンスが出てきていいはず。

 刑事とは別行動。

 ということはまた昼間のあれと同じような説明をすることになるのだろうか。

 それを考えると少しばかり複雑な思いにとらわれた。

 私がどんなメールを送ったのか、説明するのはかまわない。要は彼女が何を聞き、どう納得できるかということだった。

 もし自分の思った収穫がなかったら、彼女はどんな態度をとるのだろうか。

 私はまるで分析をしている科学者のような面持ちで彼女を見つめていた。

 しかし彼女は私のそんな視線を頓着せずに続ける。気持ちが高ぶっているのか、周囲の様子やら私の変化にはまったく気が回らないらしい。

「あなたからのメールの数分後に兄は死にました。そこに何かの関係があると思ってもおかしくないでしょう?」

 確かに。

 私が彼へどんなメールを送ったのか、彼女は知る権利がある。

『本当に、私と兄妹になって後悔しないのかしら?』

 しばらくの間、黙って思案して、それからワインを楽しんでいた私のいきなりの言葉に、彼女は最初いったいそれが何を意味するのか理解できていなかったようだ。

 自分に向けられた言葉かと思ったのだろう。

 キョウダイ?

 と口の中でつぶやき、それからそれが私の最後のメッセージだったと気がついたらしかった。

「千秋さん、先ほど言っていたでしょう? 私を認知させようとしていた、って。実際に私はその話を彼から聞いていたわ」

 ここ1年のことだった。押し付けがましい調子はまったくなかった。ただ、そうする権利があると主張は続けていた。

 実際に手続きも進めていたようだった。

 あとは千秋に説明をし、父に切り出せばいいとも。

 私はその話を耳にするたびに冷めた調子で彼を見ていた。

 本当に彼はそれでいいのだろうかと、そのことばかりが頭をめぐった。

 その後に起こることを何も予測していないのだろうか。うまくいくと本当に思っているのだろうか。

 うまくなんて、いくはずがないでしょう。

 私が忠告しても彼は時間をかければ解決できない問題ではないといった。

 莫迦ね。

 時間をかければもっとこじれるに決まっているじゃない。

 でも彼はわかっていなかった。

「あまり熱心に認知の話を勧めるものだから、そうメッセージを送ったの」

 想像していた内容とは異なっていたのだろう。彼女は拍子抜けしたような顔をして、それから明らかに動揺して目を泳がせた。

「それだけ?」

「メールはね」

 千秋さんは少々考え込み、それからなおも続ける。

「そのあと、すこしだけ通話していますよね。それは」

 メールを送った数分後、彼は私に直接電話をかけてきた。

「後悔しない、ときっぱり言うから『本当に、あなたはいいの? あなたが思っているのと同じように、私も思っているのに』と続けたわ」

 きっともっと重い言葉を期待していたに違いない。彼を傷つけるような罵声か、心無い一言か。でも私のメールと、最後の通話は彼女の期待を裏切ったようだった。千秋さんにとってはなんてことはない、実に私らしいメールと思ったことだろう。

「私は事実を確認し、意見を述べただけよ」

 私の言葉に彼女はますます困惑した。そのメールが兄の意思を折るほどのメールになるのか、懸命に判断しようとしているようだった。

 だが彼ほどの人間がその程度の拒否で死を選ぶとは考えにくいと彼女は判断したらしい。

「兄は、自分が心の奥底ではあなたを妹として迎え入れることに抵抗を感じている、と思ったのかしら」

 先ほどまでの勢いはなりを潜め、慎重そうな様子で彼女はつぶやいた。

 私を高嶺家に迎え入れることに奔走しながら、本当はそれを拒否する自分に気がついたのかと、彼女はそう考えているようだった。

「そういう千秋さんはどう? 彼の生前にその話を聞いて冷静に対処できたかしら。私の存在を受け入れたかしら」

 常に質問をされる立場にあることに対して業を煮やした私は、質問を返すことで彼女の問いから回避しようとした。

 私のそんなずるい手段に彼女は不満だったようだが、それでも真剣に考えていた。

 こんなところも彼そっくりだった。常に真摯であろうとする。本来ならこんな些細なやり取りなんて適当でかまわない。感情に任せて発言してしまってもかまわない。

 でもそれをしようとしないのだ。

 本当に真面目な兄妹だ。

「あなたに対していい感情を持ったかどうかは、わかりません。でも、父を恨むことはあってもあなたやあなたのお母様を恨むことはなかったと思います」

 憎悪の対象はあくまでも父。

 そのあたりも彼そっくり。

 そこで私は少々意地の悪い感情がこみ上げてきていた。

 彼に似ている彼女をやり込めたいという私のよからぬ感情。そして私は自分の中に沸き起こった感情には素直に従うことにしている。

 私は私らしくもなく、実に意地の悪い笑みを浮かべてみせた。

 自分でも滅多に感情が表に出ることはないと自覚している。それなりに感情は動くものの、それをストレートに表現することが苦手だった。

 だからこそ、こうしてわざとらしいほどに感情を表現するときは限られている。

 大抵はこんなふうに相手を追い詰めるとき。

 私のいきなりの変化に彼女は身体を強張らせていた。

「私が、あなたの大切なものを奪い、すべてを奪い、結果高嶺家を含むすべてを破壊しても、同じことが言えるかしら」

 その途端、彼女は目を見張り、顔さえもこわばらせた。

 彼女は今、兄の死を、壊れてしまった家庭を思い、考え、困惑していることだろう。

 私は一瞬にして感情に蓋をし、一切の感情を見せることなくいつのものように淡々とした態度に戻った。

「冗談よ」

 さらりと言った答えに彼女は弱々しく応える。

「笑えない、冗談です」

 しかも兄が死んだ今、その冗談はひどすぎる。

 彼女はその言葉を飲み込んでいたが、実際にはそうして責め立てたかったことだろう。

 だが今の彼女にはそこまでの余力はなかった。泣き出さないようにするだけで、精一杯のようだった。

「だから、私は無理なのよ」

「え」

「私は、こういう人間なの。多分一生変わることはない。だから極力接点は持たないほうがいい」

 私は私の目的のために、すべてを破壊してしまうことをためらわない人間だから。

 彼女はとても疲労しているようだった。

 実際疲れていたのだろう。彼女は張りのない声で呟いた。

「兄は、自分の無力さに絶望したのかもしれないですね」

 まるで本当に彼が呟いたかのような錯覚にとらわれた。

 それは彼女の実感であり、その実感から得た彼の死の仮定の一つだったことは明らかだった。

 だからといって結局、彼の死に答はない。仮定は所詮仮定にすぎない。

 事故なのか、自殺なのか。

 自殺だとしたら理由は何か。

 彼女は一生その答えを見つけることなく、その心に抱えていくのだろう。

 仮定だけが山積みになり、状況に応じてその中から一つを選択し、次の時にはまた別な仮定を選択する。

 結局は誰にもわからないのだ。

 彼が何を思ったのか。

 死の瞬間、彼が何を望んだのか。

 私にもわからない。

 私たちは暫くその沈黙の中にいた。

 まるで深淵に落ちていくような彼女を私はただ見守っていた。

「お呼びだてして申し訳ありませんでした」

 彼女が顔を上げたのは私が頼んだワインがちょうど空になるころだった。

 その間私たちは何も話さず黙ってテーブルの上を見つめていた。

 彼女は自由の利かない身体を引きずるようにゆっくりと立ち上がり、バッグから財布を取り出そうとした。

「ここは私が払うわ」

 彼女の手を押しとどめ、そう告げると彼女は首を振った。

「いいえ。私がお呼びだてしたのですから」

 私は彼女の言葉を遮るかのように、手を重ねた。

「いいの。払わせて。あなたのお兄様に敬意を表して」

 なぜそんなことを言ったのか、なぜ彼女の手を強く握ったのか、私にもよくわからなかった。

 私なりの決別の意味もあったのかもしれない。

 それとも私らしくもない、感傷からか。

 こうして自分の気持ちさえもよくわからないのに、他人の思考などを推し量ろうとすることこそ、無理があるのだ。

 私の視線に負けて、彼女はそのままバッグから手を離した。

「ではお言葉に甘えさえていただきます」

 深々と頭を下げて顔を上げた彼女は空虚な表情をしていた。

 少々気の毒にも思ったが、私がしてあげられることは何もない。せいぜい彼女を見送ることぐらいだ。

「お元気で」

 感情のこもらない私の言葉を受けて、彼女はちょっとだけ笑った。

「ええ。蓉子さんも」

 振り向きざまにそう言って彼女は出て行った。

 それ以降一度も振り返ることはなかった。

 私も彼女もわかっている。

 もう生きている間に私たちが会うことはないだろう。

 私は高嶺の家をはっきり拒否したし、彼女自身が私と会うことをよしとしないだろう。

 それでいい。

 私がほしいものはあの家にはない。

 だから、この別れに異論はなかった。

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