8.父、高嶺寛史の心裏
居間の電気をつけると、ソファに娘が座っていた。
手にはA4版の書類。虚空を見つめる姿は異様といってもいい。
「何だ、いたのか」
私は上着を脱ぎ、水をコップいっぱいに注いで喉に流し込んだ。
昔のように無茶な飲み方をする必要はなくなったが、酒席に参加すれば幾分はアルコールを口にする。
飲み干して空になったコップをシンクに置くと同時に押し殺した声が耳に響いた。
「三條蓉子って、誰です」
声は震え、怒りのあまり怒鳴りださないようにとこらえている姿に、私はまじまじと視線を送る。
私に対する不平不満は多々あっただろうが、それを表に出すことは一切なかった娘だった。だから今ある状況は初めて目にする。
そんな娘の様子には大きな興味を抱いたが、『三條蓉子』の名前が出てきたことに対しては何の感情も湧くことはなかった。
逆に千秋は今まで何も知らなかったのかということに驚いたくらいだった。
だが考えてみれば聡史が蓉子について千秋に語るはずはないと思いたつ。
聡史は早い段階で蓉子の存在を把握していたようだが、そのことに関して妻にも誰にも明かすことはなかったようだった。もっとも、妻が本当に何も知らずに死んだのかは今となってはわからないが。
とりあえず怒りの収まらないといったふうの娘に視線を投げ返した。
昔、やはり聡史と蓉子のことでやりあったとき、同じようなきつい、侮蔑をこめた視線を投げてきたことがある。
やはり兄妹ということか。ひいては母親の影響。
もともと倫理観に関しては厳しいところのある女だった。世間知らずゆえの潔癖さも持ち合わせていた。
それをそのままこどもに引き継いだか。
聡史のときのように面倒なことになる予感がして、私はうんざりとした溜息をついた。
そのことが千秋の神経を逆なでしたらしい。
千秋は手にしていた書類をテーブルの上に差し出して立ち上がった。
怒りを内包させて唇をかみ締めている。
「聞きたいことは何だ」
やたらと冷静な私の声に反応して、千秋はまつげを震わせた。
蓉子の名前を出されてもまったく動じない私の態度が、千秋の常識からは考えられないことなのだろう。
しかし私にしてみれば、そんな余計な時間は無駄なことにしか感じられなかった。
三條蓉子、という名前を出した時点で千秋はある程度の情報を得ているということだろう。すでに知っていることを私の口から告げて何になるというのか。単なる徒労に過ぎない。
「お前が知っている情報を何も繰り返すことはないだろう。何が聞きたいのかはっきり言え。面倒なことをするな」
千秋は唇をかみ締めて先ほどまで握り締めていた書類をさらに私のほうへと押しやってきた。
興信所の名前の入った封筒に、数枚のレポート用紙。
どうせそこに書かれているのは三條蓉子の経歴と、私の実の娘だということだろう。
見る必要はない気がしたが、成り行き上仕方なく手を伸ばす。
簡素にまとめられたそれを私はさしたる興味もなさそうにめくる。実際大した情報はなかった。
「この人は、本当に私の異母姉なの?」
「ああ」
あっさり肯定したことに対し、千秋は少々戸惑っているようだった。
何をどう聞いていいのかわからないといった風情で千秋は視線を泳がせている。
仕方なしに私のほうから声をかけた。
「いつ『三條蓉子』の名前を知った? 聡史は最後まで言わなかっただろう?」
あれはそういう性格だ。
生きているときも蓉子と自分の接点を極力目立たないものにしていたはずだ。千秋は意外と勘がよく、細心の注意を払っていないと蓉子の存在がばれる可能性が高い。
聡史がそんな失敗を起こすわけがない。
「兄さんの携帯のデータを復元してもらったの。そうしたらメモリの『身内』の欄にこの名前があったわ」
聡史らしいといえば聡史らしい。
完璧に蓉子の存在を隠していても、そんなところで血のつながりを明確にさせるとは。律儀というか、莫迦正直というか、まっすぐというか。
「最初は兄さんの彼女かと思ったわ。でも何だかおかしい気がした。だから調べてもらった。そしたら」
そこで千秋は再びきつい目で私を見つめた。
「そうしたら、三條蓉子は私の異母姉で、しかも兄と同じ職場に勤めているって」
そう。何をどう思ったのか、聡史は蓉子と同じ会社に入社した。
そこにどんな意図があったのか、私は知らない。
ただ、聡史が蓉子と何らかの接触を持っていたことは事実だ。しかも私の知らないところで。
「これを偶然と思うほど私は愚かではないわ」
千秋の顔に浮かんだのは、強い口惜しさ。
はっきりと口にはしないが、自分だけ疎外されたような気持ちでいるのかもしれない。
それでも千秋はそんな不平を口にすることはなく、努めて平静を装っている。
「兄さんは、いつから知っていたんですか」
「さあ。私も正確にはわからない。だが、ずいぶん前から知っていたようだ」
私の答えに千秋は嫌悪の色をますます強く浮かべた。
「聡史が以前から蓉子と連絡を取っていたのかどうか、なぜ同じ会社に勤めていたのかは今となってはわからない。蓉子に聞けばわかるだろうが、お前にその覚悟があるのか?」
そこで一息ついて千秋を見つめると、先ほどの勢いとはうって変わって目を泳がせた。
正直言って千秋に蓉子と対峙するだけの覚悟があるとは思えない。
万が一、二人が対面したとしても千秋が圧倒されるだけの話だろう。
蓉子は他人に対して気遣いをするような娘ではない。そういう点で私と一番似ているのが蓉子だ。
蓉子とはじめて顔をあわせた聡史はどんな態度をとったのだろうか。
私にしていたのと同じように、まるで対決するかのような態度をとっていたのだろうか。
聡史が蓉子とその母のことをいつから知っていたのか具体的には聞いていない。
大学入学と同時に家を出たあたりには、すでに二人の存在は知っていたようだった。そもそも聡史ならばいずれは二人の存在に気がつくだろうことは予測していた。
しかしそれを知って聡史がどんな行動にでるのかまでは予想できずにいた。
正義感の塊である聡史にとって私の不貞は許せるものではなかったはずだ。
しかし同時に高い適応能力をもつ聡史の思考はここで私を責めることを由と判断はしなかっただろう。
聡史が私の不貞を公然と責めるということは、何も知らないだろう母と妹に秘密を暴露することに他ならない。
そんなことを聡史が選択するはずもなかった。
現に聡史は母を大切にしてくれ、千秋に対してもう少し気にかけてくれと、やたらと口うるさく進言はしても、それ以上のことは口出ししてこなかった。
結局聡史は自分の正義感と状況判断とにはさまれて耐え切れなくなり、自らが私から離れるという選択をした。
このまま一緒に住み続けていれば耐えられなくてすべてをぶつけてしまうと思ったのか。同じ家で同じ空気を吸うことさえも我慢がならないと思ったか。自宅からも十分通学圏内の大学だというのに、独り暮らしを決めてそれ以来実家には近寄らなくなった。
そんなところ一つとっても私との違いを感じる。
私を責めたてたいという欲求を抱えていながら、それを制して唇をかむ。よくそんな我慢がきくものだと感心していた。
聡史は蓉子に関しては全く口に出さなかった。
だからこそ。
鈴子が亡くなったときの聡史の烈火のごとき怒りは意外性を孕んでいた。
蓉子の母、鈴子が死んだのは聡史が大学一年になったとき。蓉子は高校三年で、短大受験の直前のことだった。
鈴子の死は本当に突然だった。出会い頭の事故。即死。
知らせは蓉子から直接入ってきた。
鈴子の身内といえば蓉子しかいなかった。そうなると未成年が様々な手続きにあたることは非常に面倒であるという理由から、やむなく私が呼ばれた、そんなところだった。
蓉子とはそれほど顔をあわせたことはなかった。
鈴子はいわゆる愛人という存在だったが、私が鈴子に求めていたものは家庭でも安らぎでもない。
安らぐ家庭などを求めれば、その安らぎを得るための時間と労力が必要となってくる。
そんなことは本末転倒だった。
抱きたいと思ったときに鈴子に会い、無心に眠りたいと思ったときに眠りに行く。鈴子はできた女で、身体においても心においても私に順応していた。
私の欲求を満たすために鈴子はあった。
そこに蓉子が介入する必要はない。
とはいえ自分の遺伝子をまちがいなく引き継いでいるであろう人間を粗末に扱うほど私も情けがないわけではない。
認知はしていなかったが自分が蓉子の実父であることは伝えてあったし、金銭的な援助も惜しまなかった。連絡をもらえば助力を惜しまない。
私は私なりに責務を全うしていた。
しかし聡史はそうとらえなかったらしい。
どこで聞きつけたのか鈴子の死を知り、わざわざ焼香にたずねてきた聡史は、そこで初めて私が蓉子を認知していないこと、蓉子ともほとんど顔をあわせたことがないことを知ったらしい。
火葬の間、広い待合室には私らを含めて5、6人程度しかおらず、その数少ない参列者に蓉子が丁寧に礼を重ねていた。
その間聡史は静かに、でも激情を目に浮かべて私を責めたててきた。
一つの家庭を壊し、己の身勝手さのために一人の女性の人生を破壊したことをなんとも思っていないのかと。
その結果生まれたこどもに対しても、なんら責任を取っている節はない。認知もせず、滅多に会うこともないなんて、許されることではないと。
この時点でなかなか侮れないなと冷静に己の息子を判断していた。
いったいどこでどうやってそこまで調べ上げたのかと逆に問いただしたくなったくらいだ。
私にぶつけてきた聡史の言葉で、聡史がほぼ完全に私と鈴子の成り行きを把握していることは想像できた。
その事実を知っていたとするならば、聡史が私のことを快く思わないのは当然のことだった。
聡史はモラルから反することにひどく拒否反応を示していた。
モラルを重んじ、正義を重んじる聡史にとって、私のしたことは理解できない事柄だっただろう。
私は同僚を陥れるために、鈴子を手に入れた。
同期で、非常に優秀だったその同僚は、同期の中でも仲の良いほうだったが、私が会社での盤石の地位を手に入れるためには正直邪魔だった。
だから、鈴子を利用して、同僚を追い詰めた。
鈴子自身も手元に置くには魅力的だった、ということもある。
だからこそ鈴子を誘惑し、同僚を追いやり、そしてすべてを手中にした。
親友を失ってでも手に入れたいものが目の前にあった。だから思うままに行動したに過ぎない。会社での地位を手に入れるために鈴子が必要であり、鈴子を手に入れる手段として蓉子が生まれた。それだけだ。
聡史はそんな私を責め立てる。
適当な言葉でかわすことも考えたが、聡史にはそれが通じないだろうことは承知していたので、正直に告げた。
私が必要としていたのは鈴子であって蓉子ではないと。
次の瞬間、聡史は私の胸元をつかみ上げていた。
聡史がそんな暴挙に出るとは思いもよらなかった。
軽い驚きと共に、さあこの振り上げた手を聡史はどうするつもりだろうかと冷静に観察する自分がいた。
そんな私たちの間に割って入ってきたのは蓉子だった。
蓉子は無言で私たちの前に正座をし、深々と頭を下げた。
「本日はわざわざ足を運んでいただきまして、ありがとうございました」
実に淡々として、あまりの淡々とした様に聡史の勢いもそがれてしまったようだった。
そのまま私から手を離し、目をそらした。
蓉子は私たちの前に腰を下ろしたまま交互に見つめた。
席を立つつもりはないらしく、私たち3人の間にしばらく沈黙が落ちた。
それはまるで我慢くらべでも行っているかのように、実に重苦しい雰囲気に満ちていた。現に周囲の人間は誰もが遠巻きに私たちを窺い、どう扱ったものか戸惑っているようだった。
「短大だけは出たいと思っています。母の生命保険などもありますし、それなりに生活はしていけると思いますが、経済的な援助は少々お願いすることになるかもしれません」
そういって話題を切り出したのは蓉子だった。
蓉子の顔には母の死を嘆いているようなそぶりは全くなかった。
そんな蓉子を聡史は黙って見つめ、私は私で当然のこととばかりに頷いた。
金銭的な援助は今までと何も変わりなかったし、そのことに文句はない。
「それと、未成年なのでいろいろと後見人を立てないと手続きができないことが多いんです。そちらの役目だけお願いできれば助かります」
そのことに関しても特段の不満はなかった。
しかし、私と蓉子のそんなやりとりに聡史は納得がいかなかったらしい。
今こそ蓉子を認知するべきではないかと主張してきた。
しかしそのことに頷くつもりはなかった。
そして実に聡史らしくない、冷静さを欠いた提案だとも思った。
認知をすれば戸籍上、蓉子の名前が表立つこととなる。
蓉子の存在に気がついていない玉枝と千秋にこの事実を知られてしまう可能性が高くなる。
家庭が壊れることを恐れて、というわけではない。
家庭というものに私は特段執着しなかったが、会社を大きくするための道具として利用してきたその形態をわざわざ破壊するつもりもなかった。
そのあたりは蓉子のほうがしっかりと考えていたらしい。
「そのことだけ確約していただければあとはかまいません。愛人の子がいきなり顔を出したら面倒でしょう? 私も争いごとは避けたいので、認知とかといった点は気にしてもらわなくていいです」
蓉子の発言に、聡史も引くしかなかった。
私は蓉子の冷たい容貌を黙って見つめていた。
突発的に母親が死んだというのに、泣きもしない。
正直にいうならばあまりにも私に酷似している蓉子を疎ましく思うことさえある。同属嫌悪とはこういうことをいうのかと実感してしまう。
この娘が少しでも鈴子に似ていたならば、私はもっと違った接し方をしていただろうかと考える。
私と酷似していなければ。
少しでも鈴子に似たところがあれば。
そう思わせるほどに蓉子は私にそっくりだった。
そしてそんな蓉子に対して寛容である聡史自身が理解できなかった。
聡史が忌み嫌う私に瓜二つの娘。そして聡史が重んじる正義とモラルとは相反する形で生まれ出てきた娘。聡史にしてみれば蓉子は不義の象徴ではないのか。ならば嫌悪してもおかしくないのではないか。それなのに過剰とも言えるほど、蓉子を気にかけていた。
聡史の線引きが理解不能だった。
鈴子の葬儀の席で私はそんなことをずっと考えていた。
いずれにせよ、そのときを境に聡史と私の仲は完全に決裂した。
いつかは起こりうる状況だっただろう。
聡史は私という人間にこれ以上の期待をしても無駄と切り捨て、そして私はそう判断されることに頓着していなかった。
「蓉子さんってどんな方なんですか」
長い沈黙のあと、千秋はやっとのことで口を開いた。
どんな人間か。
そんなものは簡単だ。一言で表現できる。
「蓉子は私と同じ性質を持った娘だ」
簡素な表現に、千秋は顔を歪めた。
私の言外の意味をとらえてか、ほんの少しだけ苦々しい表情を浮かべた。
千秋は私に口答えをしてきたことなんて一度もない。私に逆らうことなど考えたこともないだろう。
そんな千秋が私と同じような人間にあえて挑むとは思えなかった。
「だから会うなどとは思わないほうがいい」
場合によっては私よりも感情の起伏の乏しい娘だ。それだけとらえようがなく、それだけ扱いの難しい人間だ。
しかしこのときの千秋ははっきりと首を振ってみせた。
その反応に私は素直に驚いた。
千秋がこんなふうに自己主張をすることがあっただろうか? 私の言葉に否と述べることなんて記憶している中では一度としてない。
聡史の死を経験して千秋の性格に少々の変化が生まれていることを知った。
「私は蓉子さんに会ってどうしても確かめたいことがあるんです」
そのためには少しの不快感などは気にしない、ということらしい。
千秋がそこまで強固に主張するとはいったいどういうことだ?
その好奇心は純粋に私を襲ってきた。
「なぜ」
一言だけ千秋にそう聞く。
威圧感を持ったたった一言に、千秋は唇をかみ締めて抵抗しようとする。
しかしそんなことを私が許すはずもなかった。
幾分強い意志を押し出すことが出来るようになったとはいえ、長年培ってきた私への従順さを簡単に忘れるものではない。
事実、その一言を発したのち、じっと千秋を見つめていた私に根負けした形で口を開いた。
「兄さんが落ちる数分前に、蓉子さんからメールが来ていました。そして落ちる直前に数秒だけ話をしています」
棒読みのそれを私は吟味して頭の中に埋め込んでいく。
千秋は淡々と説明を始めていた。
「携帯内のデータ復元をすべて行うことは無理でした。メールの詳細は消えてしまっているし、兄さんの交友関係を確認できるのは、登録していた電話帳と着信履歴だけ」
私は聡史の私物にあまり目を通していない。
今更聡史の死を調査したところで、聡史が生き返るわけでもない。
しかし、よくもあの遺品を確認しようなどと思ったものだと感心してしまう。
警察から返された遺留品はあまりにも生々しかった。血まみれのスーツはもとより、聡の無残な遺体も千秋はきちんと目にしている。そこかしこに残る聡史の死の痕跡は見ていて決して気持ちのいいものではなかった。
携帯もかなりひどい状態で破損していたはずだ。
落ちる寸前、先に手元から落ちたのか、遺体からは少々離れた位置に落ちていたそれは、聡史の血を吸うことはなかった。しかしその壊れ方は聡史の遺体を象徴しているかのようで痛ましくもあった。
そんな携帯を調べてもらおうなんてこの千秋がよくも考えついたと思う。
「蓉子さんとはあまり連絡を取るようなことはなかったみたいです。それなのによりにもよって蓉子さんとやり取りした直後に亡くなっているなんて、おかしいと思って当然じゃありませんか?」
千秋の言っていることはもっともらしかったが、同時に違和感は否めなかった。
個人的な見解を述べれば、どう考えても聡史が自ら死を選ぶとは思えない。死を選ぶことは自分に負けることではないのか。そんなことを聡史が自分に許すはずがない。
千秋や玉枝にはとても甘かったが、自分自身にはとにかく厳しい男だった。
「たかがメール一つで聡史が死を選ぶような弱い人間だと思っているのか? 蓉子のたった1通のメールが聡史を死に追いやったと思っているのか?」
とことんかみ合うことのなかった息子だったが、聡史のもつ意思の強さは認めているところだった。
私の強い詰問に千秋は少々躊躇したが、それでも言い返してくる。
「そうですね。兄さんは強い人間だった。どんな困難なことでも打開策を見つけ、道を切り開いてきた」
私に口答えをしているという自覚はあるのだろう。
その行為自体が千秋にとっては未知の世界で、だからこそわずかに声が震えているのかもしれない。
「蓉子さんのことだっていろいろと考えたのかもしれない。どうすれば皆にとって最良の対処ができるのか。兄さんのことだからずっと考えて、いずれは皆が幸せになる方法が見つかると信じていたのかもしれない。でも」
そこで千秋はいびつな視線を私に向けてきた。
悲しみと諦めを含んだ視線を。
「でも、どうにもならないこともある」
この時点で私は千秋が何を言いたいのかわからなかった。
たとえ、蓉子との関係が現状維持で聡史の望む方法で解決が出来なかったとしても、その現実を受け入れて回避し、前に進めばいいことではないか。
そんな私の思考が素直に出ていたのだろう。
千秋はなおさら顔をゆがませる。
そこにはわかっていないのね、とはっきりと描かれていた。
「私は『どうにもならない』と言ったのよ? これはもう無理だと諦めて回避できたら、それは『どうにもならない』ということではないでしょう?」
それは回避、諦めるといった選択をした、ということになる。
では、聡史は?
「自分の望む形を取れなかった。皆が幸せになれなかった。自分は無力だったと自覚したら、兄さんはそんな自分を許さない」
千秋の頬を涙が伝う。
声の出ないそれは、まるで雨のしずくが零れ落ちるかのように静かだった。
「それは、すべてお前の想像に過ぎないだろう」
私は冷たく切り捨てた。
こんな想像をする千秋を疎ましく思った。
想像ほど厄介なものはない。事実を精査することなく推測をするなど、愚かな行為に他ならない。
しかし千秋は嘲るような調子で私を責めたてた。
「お父さんは兄さんの遺品を何も見ていないものね」
確かに私はある程度の手持ちの私物に目を通しただけだ。
そこにあるのは、営業として忙しく働く聡史の姿だけだった。聡史の個人的感情は何も含まれていなかったはずだ。
「私は全部見たわ。兄さんの手帳も読んでいた本も携帯もパソコンも」
「遺書でもあったとでもいうのか」
それに対して千秋は首を振る。
「いいえ。でも兄さんが何を考えていたのか推測することは出来る」
「推測は」
事実とは異なる。
しかし私の言葉は発せられることはなかった。
「何も残してくれなかったのよ? 残していった断片から兄さんが何を思っていたのか推測するしか方法がないじゃない」
私の言葉を奪い去り、千秋は怒鳴り返してきた。
千秋の形相が徐々に変わるのを私は黙って見つめていた。
そのとき初めて気がついた。
聡史の死が千秋を侵食している。
それでも私は特段の変化を見せることなく千秋を見下ろしていた。
千秋はというと声を荒げた自分にようやく気がついて、気まずい顔をして背筋を伸ばした。
「兄さんは自分の感情を言葉で残すことはなかったけれど、とても悩んでいたんだと思う。主に相続関係に関する本をやたらと読んでいたし、特定の人物と何度も連絡を取ろうとしてとれずにいることを手帳に書き記している。パソコンの履歴には相続に関する内容、お父さんの会社関連の記事に関してのチェック、それに兄さんらしくなく、ワインに関するサイトのチェックが」
そこで千秋は言葉をとめた。
どうしてワインに関するサイトをチェックすることがすなわち聡史らしくないのか私には理解できずにいた。
そんな私を見て千秋は仕方ないなといった顔をする。
「兄さんはワイン、苦手だったの。どれも同じ味がするといっていたくらいだから」
そういえば聡史と飲んだことはなかったと今更のように気がつく。
ワイン。
そうだ。鈴子はワインが好きで、小さなワイン用の保管庫さえ持っているほどだった。もし蓉子がその影響を受けているとしたら、蓉子も結構なワイン好きなのかもしれない。
そうなれば聡史が蓉子と親しくなるきっかけを作ろうとしていた努力の跡と考えてもおかしくはないかもしれない。
「そして最近、弁護士さんと連絡を取っていたわ」
意外な言葉に私は困惑した。
今更弁護士を立てて何をしようとしていたのか。
「兄さん、認知の手続きについて相談していたみたい。主に相続関係とかも含めてね」
もしこのまま何もしなければ蓉子は私が死んだときに何も権利を得ることはない。
それを懸念してのことだろう。
玉枝も2年前に亡くなった。千秋ももう大人になったことだし説得すれば何とかなると踏んでのことだったのかもしれない。
「私がわかるのはここまで。そこから先に何があったのかわからない。わかっているのは蓉子さんのメールの直後に兄さんが死んだこと。だから私は蓉子さんに確かめたい」
だから蓉子に会うことに固執していたわけだ。
千秋は蓉子のメールがどんなものか想像がついているわけではないだろう。
純粋に知りたいのだ。それによって聡史が自分の無力さを痛感し、死を選ぶほどの衝撃を与えるようなメールだったのか、それともまったく関係のないものなのか。
「お前は、どう思っているんだ」
どうとでも取れるような質問だった。
蓉子のメールをどういうものと想像しているのか。またはそれを知ってどうしようというのか。もしくは蓉子のメールというパンドラの箱を開けることは怖くないのか。
それはまさにパンドラの箱。
もしかしたら聡史が自殺したと裏付けるような内容かもしれない。まったく関係ない内容かもしれない。
「何も」
答えはとても乾いたものだった。
「何も考えていません。ただ、その答えを受け止めるだけ」
あえて感情を麻痺させているような態度の裏には、激しいほどの思いが詰まっているような気がした。
これ以上千秋と話すことはない。
そう判断して立ち上がりかけたときだった。
「お父さんは、どう思っているの?」
逆に質問されるとは思わなかった私は問いただす千秋をまじまじと見つめた。
「何も」
先ほどの千秋の返答に呼応するかのように、簡素に答えた。
何も思ってはいない。
私の答えはもう出ている。
いくら考えても,推測しても、聡史は戻らない。ならばそんな無駄なことはしない。
私の回答は予想通りだったのか、千秋はうっすらと笑みさえ浮かべて私の答えを吟味する。
「そうね。お父さんは兄さんの死の責任が自分にあるとは絶対に考えないでしょうよ」
その言葉に反応して私は立ち止まった。
「どういう意味だ」
しかし私の問いに千秋は答えることはなかった。
「私はある意味お父さんがうらやましいわ。そこまで強くなれれば、恐れるものは何もない」
千秋は座ったまま、私を見上げている。責めた感情がないわけではないだろう。しかしそれ以上に哀れみの視線を向けられて、私はひどく不愉快な気分になった。
そんな目で見られることに私はなれていない。
「泣いてわめいて聡史にすがりつかなければ、満足しないのか」
まさにそんなかたちで千秋が悲しんでいる間、私は黙ってその様子を見、粛々と手続きをとっていた。
それ以来、聡史のことを口にしない私を不満に思っているのだろう。
だがそんなことをしたところで何になる?
それで聡史が戻ってくるならいくらでも泣き喚くが、戻ってくるわけではない。
そんなこと、不毛にすぎない。
千秋は私の返答が不満だったらしい。
「蓉子さんのお母様が亡くなったときも、そうだったの?」
突然鈴子の名前を出された。
「鈴子さんのこと、愛していたんでしょう? ああ、愛していたという表現はお父さん、好きじゃないものね。でも執着していたことは間違いないでしょう? そのためにどんなことをしてきたのかも私、知っているわ。興信所で事細かに調べてくれたもの」
しかし鈴子のことを持ち出されても、私は一切顔色を変えることはなかった。
わかっていない。
そんな揺さぶりは私には無意味だ。
私は冷たく千秋を見下ろし、大きく溜息をついた。
「お父さん」
そのあとは千秋の言葉に耳を貸すことはなかった。
そのまま自室に向かい、スーツの上着を投げ捨てた。
聡史の死も、鈴子の死も、それこそ玉枝が死んだときも悲しくなかったわけではない。ただ無意味だと思うだけだ。
人は死んでしまったらそれで終わり。
嘆いて自分の感情を乱しても、何も生まれない。終わりにもならない。
しかしそんなことをいくら告げても、理解してはもらえないだろう。
理解してもらおうとも思わない。
私はそうやって生きてきた。これからもそうして生きていくだけだ。
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