7.妹、高嶺千秋の追及

 目に映るものだけが真実とは限らない。言外の意味を読み取らないとな。

 かつて推理小説を読み解くことができなくて、かんしゃくを起こしていた私に兄が言った言葉だった。

 私には推理小説は無理と放棄して久しいが、こんなところで兄の言葉が身に沁みるとは思わなかった。

 私は兄の勤めていた会社にいた。

 今日は私物を返してもらう予定でこちらに訪れた。ついでに一連の手続きの説明も含めて。

 少しは緊張するかと思いきや、既に疲労の限界も超えたのか、疲れたと感じることもない。

 目に映るものだけが真実とは限らない。

 それはそのまま兄のことを現しているようで、兄の死以来よく思い出す言葉。

 あれは自分のことを言っていたんじゃないの?

 心の中でそんなふうに兄に語りかけることが最近多い。

「お待たせしました」

 軽くドアをノックする音とともに、片方に大きめの紙袋、もう片方に書類を持って女性が入ってきた。

 私は背筋を伸ばして軽く会釈をした。

 その辺りは親の躾のせいで、条件反射となっている。

「いえ。こちらこそ。ご迷惑をおかけしております。お式の時にはわざわざ足を運んでいただきましてありがとうございました」

 既に慣れきってしまった言葉。

 決まりきったこの文句は空々しくさえ感じて本当は好きではない。

 しかしそれが礼儀。

 腰を下ろすように促されて、私は改めて顔を確認した。

 式には参列してくれていたはずだ。ネームプレートには長谷川との表記。確かそんな名前も記帳されていたはず。

 ただ、顔は覚えていない。

 あのとき参列者の顔はほとんど目に入っていなかった。

 長谷川さんの存在をきちんと認識したのはここ2、3日のことだ。兄の一件に関して簡素に的確に。でもいろいろな面で配慮して手続きを済ませてくれた。

 今日の私物の引き取りも外で待ち合わせましょうかと気を使ってくれたほどだ。

 それでも私自身が一度兄の職場を目にしておきたかったから、あえて会社にうかがう旨を伝えた。

 社内を通されて、時々感じる好奇と同情の目は少しばかり辛く、つい節目がちになってしまう自分が情けなかった。

 もっと堂々とすればよかったと応接室に入ってから思った。

 それで先ほどから少々気を張っていたのだが、そんなものは必要ないような長谷川さんの自然な態度にほっとする。

「突然のことでしたので荷物の選別に時間がかかっていまして、最後のチェックをしてもらっています。まだお返しするものがあるかと思いますが、とりあえずこちらの分だけ確かめていただけますか?」

 確かめるも何も。

 それが兄の私物なのかどうかなんて殆どわからないだろう。

 兄が実家に戻らなくなって久しい。

 私が高校生のころまでは気を使って頻繁に会ってくれたが、最近では年に1,2回、それも外で会うくらいしかなかった。一度だけ兄の自宅に行ったが、昔から変わらない几帳面な生活をしていたということしか印象がない。

 だからといって私と兄との仲が悪かったわけではない。

 どちらかというと一般的な兄妹よりも仲がよかったと思う。独立しても兄は私を気にかけてくれて、ちょくちょく電話のやり取りはしていた。

 兄が避けていたのは父であり、父を象徴するような厳粛な実家には殊更近づきたくなかったのだろう。

 兄は父とすこぶる仲が悪かった。

 もともと性格的に合わない点があったのだろう。兄もああいう人間だから表立って父と言い争いをしているような場面にお目にかかったことはないが、二人の間には相容れない雰囲気が常に漂っていた。

 兄は曲がったことが嫌いだった。

 父は自分の欲求に素直な人間だったから、父の行なってきた数々の行為が許せなかったのではないだろうかと私は思っている。

 兄としては母を泣かせる原因となった女性関係が一番許せなかったようだった。

 まるでドラマの典型のように父には常に愛人がいる。

 大抵は相手も自立した女性で、父が女性に貢ぐようなことはほとんどない。相手の女性も割り切っているらしく、家に嫌がらせの電話がかかってきたことは一度もない。そもそも特定の女性と長く続くことはほとんどなく、その点に関してだけが、母にとっては唯一の救いだったのかもしれない。

 母は父に常に女性の影があることを知っていた。知っていながら何もいえず、黙って耐え、黙って死んでいった。

 母にしてみれば、30代のころから患っていた病気のせいで父の相手をすることができない負い目もあったようだ。

 兄はそんな母に同情し、そんな母の思いに胡坐をかいているような父を許せなかったのだろう。

 私だって父の傲慢さは時々不快に思う。

 でも私は兄のようにそれを表現し、行動することができない。

 高圧的な父の態度に口を噤むだけだ。

 母が父に口答えひとつしなかった理由はそこにもあると思う。

 父には逆らえない何かがあるのだ。

 その点では私は母に似ているといえるだろう。

 事実私は父を侮蔑する一方で、父の庇護に甘んじていたりもする。

 だから、はっきりと父にものを言い、対抗する兄が頼もしくもあった。

「千秋さん、大丈夫ですか?」

 荷物を前にして一点を凝視しているような私の態度を不審に思ったのだろう。長谷川さんが覗き込みながら私に声をかけてきた。

「ええ。大丈夫です」

 私は機械的に紙袋に手を伸ばした。

 綺麗に整然と並べて入れてある。

 いちいち出さなくても中身がわかりやすくなっているのは長谷川さんのおかげだろう。

「なんだかお疲れのところを申し訳ありませんでした。やっぱり私がそちらに荷物を持ってお伺いすればよかった」

「いいえ。とんでもないです。一度兄がどんなところに勤めているのか見てみたかったし。私のほうこそ申し訳ありませんわ」

 そういうものの、笑顔を向けることまではできなかった。

 長谷川さんは同情だけではなく、深い悲しみに満ちていて、それは私の心をわずかながらも救った。

 同情を向けられることは苦痛になりつつあった。

 そこには必ずほんのわずかでも好奇の感情が含まれており、それにどう対処していいのかわからなかったのだ。

 先ほどのように目を伏せて、その場をやり過ごすくらいしか私には術がない。

 長谷川さんもある意味私と同じような喪失感をもっているのかもしれない。

 2人の間に妙な沈黙が落ちたときだった。

 まるでタイミングを見計らったようにお茶が運ばれてきた。

 ノックとともに滑り込んできた女性は、私と長谷川さんの間に流れる奇妙な雰囲気にも臆することなく淡々とお茶出しに専念していた。

 笑み一つ向けるでもなく、本当にただお茶だしするためだけにきたかのような無機質な態度に私は視線をむける。

 同情と、そして盗み見るような好奇の目をことあるごとに感じていた。それはここ数日で当たり前のものとなり、不愉快さもすっかり麻痺していた。

 だからこそ、この女性の態度は新鮮だった。

 そしてかえってこんな態度のほうが、気が楽だったりするものだ。

 でもなぜか、冷たさを感じるその瞳に私は好奇の目以上の嫌悪を感じた。

 同情を向けられると嫌がるというのに、完全に関心がない態度をとられるとそれはそれで腹が立つものなのだろうか。

 だとしたら嫌な女だわ、私って。

 そんなことを考えながらもその女性を観察してしまう。

 美人というわけではないが、独特の雰囲気を持った女性だった。

 意志の強そうな目。

 そして冷たく、他人にまったく関心のない目。

 そこまで考え、ようやく彼女に嫌悪を感じる理由がわかった気がした。

 父の目と似ているのだ。

 他人に関心のない、どうでもいいと思っている目に。

 それは私の主観だから、目の前の女性が本当に父と同種の人間なのかはわからない。ただ、父を思い起こさせる目が私の嫌悪を誘っていることに気がついた。

 感情の見せない人間なんてたくさんいる。

 ただ兄を亡くした今、そういった人々に過敏に反応しているらしい。

 しかし彼女は私のそんな態度にも淡々としたまま、義務的に行動し、お茶を出し終わると視線を上げて私に目礼した。

それから長谷川さんに対して袋を差し出した。

「先ほど机を片付けていたら奥から出てきました。高嶺さんの私物はこれで最後になります」

「ありがとう、三條さん」

 私はその『三條さん』なる女性が立ち去るまで黙って見つめていた。

「彼女と、以前面識でもありました?」

 さすがにああまであからさまな視線を、しかも厳しい視線を投げたなら気にするものだろう。

 長谷川さんは三條さんが立ち去ると同時に何気なく聞いてきた。

「いいえ。そういうわけではないんですが。今の方は兄と同じ課でお勤めですか?」

 だとしたらお焼香にもきていたはずだ。しかし『三條』という名前はなかったように記憶をしている。

「いえ。元は総務の方なんです。今回はちょっとの間だけお手伝いに来てもらっていまして」

 長谷川さんはそれ以上語らなかったが、手伝いの主なところは兄の事後処理であろうことは簡単に想像できる。

 なんとなく漂った気まずい雰囲気を打破しようと、私は兄の私物へと手を伸ばした。

 ディスク。雑誌。カメラに靴、スーツ。電子辞書に手帳。おそらく通勤に使っていたバッグ。そして、何で小六法が?

 思わず取り出して、まじまじとそれを見た。

 兄が勤めているのは法律関係の会社ではなく、IT系だ。こんなものを会社においているなんてあまりにも不釣合いだった。

「ああそれ」

 長谷川さんが弾かれたようにつぶやいた。

「これ、兄は会社に持ち込んでいたんですか?」

 長谷川さんは懐かしそうに小六法を見た。

「ええ。結構面白いんだよなんて言って、たまに見ていましたね。私たちにはわからない感覚だと、みんなでよく笑っていました」

 確かに小六法を置いておくなんて不自然だ。

 しかも会社に。

 自宅にはあっただろうか? 古い六法全書はあったような気がする。兄がかつて使っていたものが。

 あまりに熱心に見ている私を不思議に思ったのか、長谷川さんは声をかけてきた。

「高嶺さんは法学部出身、でしたよね?」

「ええ。学生時代に司法試験も合格していました」

「え?」

 意外な返答だったらしく、長谷川さんは一瞬絶句した。

「そうなんですか?」

「はい。大学3年のときに」

「じゃあなんでうちに就職なんて」

 思わず出てしまった言葉に長谷川さんはばつの悪そうな顔をした。

 私は気にしないでくださいと、ちょっと目元を緩めた。

「私も父も何故と思いました。てっきり法曹界に身をおくつもりだと思っていたのに、いきなりIT企業に就職なんて、本当、驚きましたわ」

 驚きすぎて何もいえなかった。

 法学部に行き、早々に司法試験に合格し、てっきりそちらのほうへと進むと思っていた。兄は正義感が強かったし、学生時代に今の段階では弁護士希望だと言っていたことも覚えている。

 ところが何を思ったのか、まったく畑違いのIT系企業へ就職してしまった。しかももとからこの会社一本に絞っていたらしい。

 いきなりの方向転換の理由を聞いても、兄はまったく答えなかった。ただ、興味がこちらに移っただけとしか言わない。

それが本当の理由だと信じるほど愚かではない。

 しかし兄の口の堅さは父の強引さと同じくらい強いものだったから、本当の理由は聞けずじまいだった。

 兄はたまにそうやって理解不能な行動に出る。

 今回もそうだ。

自分の最期さえも謎を残したままにしてしまうなんて。

 私は再び小六法に視線を落とした。

 もし、この会社に来ることを選択しなければ、兄は死ぬことはなかっただろうか。司法研修を受け、今頃は弁護士として活躍していただろうか。

 だが、もし、なんて言葉は不確かな未来予測でしかない。

 そんな仮定だけを虚しく想像する自分に笑ってしまいそうになる。

 私はそのまま紙袋に小六法を戻した。そしてその横にあるデジカメに手を伸ばす。

「これ、持ち込んでいたんですか?」

 会社においておくには不似合いだなと思って私は素朴な疑問を投げる。

「現場で作業状況を写真にとっておいたりすることがあるので、ご自身のカメラを使っていたんだと思います。その、申し訳ないですが、中身の社内データのほうは私どものほうで回収させていただきました」

 それも実に申し訳なさそうに長谷川さんは伝えてきたので、私ははっきりと首を振った。

「大丈夫ですよ。会社の資料ならば当然のことですもの」

 私物と会社の所有物の線引きは非常に難しい。

 しかし会社で使用していたのならば、それは当然の行動だろう。

「でも何枚か、ご自身で撮っていた写真があったようですね。そのデータはメモリに残っておりますので」

 その言葉に誘われるように私はデジカメの電源を入れてメモリを確認した。

 小さなディスプレイに映った画像に私は目元が潤んでしまった。

 ああこれは。

「それ、いいお顔なさっていますよね。私たちは会社での高嶺さんの顔しか知らなかったから皆で思わず見とれてしまいました」

 それは昨日兄の友人がくれた写真と同じものだった。

 もとはここにあったのね。

 こうして兄の知り合いに会ったり、遺品を手にしたりするたび、私の知らない兄が見えてくる。

 私の知らない兄を知りたいと思い、それに逢うたびに兄のことをより近く感じることができて嬉しい。

 しかし同時にそれは、己があまりに兄に関して無知であったと突きつけられるようで、とても淋しい。

 なんとも矛盾した感情だと自分でも苦笑してしまう。

「なんだか不思議ですね。こうして兄の荷物を受け取ったり、生前親しくしてくださった方たちのお話を聞いたりすると、自分の知らない兄がたくさん出てくるんですもの」

 独り言とも、囁きとも取れるような私の言葉に、長谷川さんはどう反応していいのか迷っているようだった。

「兄がこんなふうに、こどものように笑う姿なんて見たことなかったし、どれほど慕われていたのかも知らなかった」

「高嶺さんはいつも課の中心人物でしたわ」

 長谷川さんは自信を持って断言する。

 そのまま長谷川さんは会社での兄の様子を事細かに説明してくれた。

 兄はとても仕事ができたこと。課のムードメーカーで皆が慕っていたこと。上司からの覚えもよく、また、とても女子社員にもてたこと。

 そんなことを努めて明るく私に教えてくれる。

 入社してからずっと兄のアシスタントをしていたというだけあって、兄のことに関してはとても詳しかった。

 そしてなにより長谷川さんの言葉の端々に兄に対する敬意が見えて、私は好感をもった。

「だから、高嶺さんが突然いなくなって、なんだか課内もぽっかり穴が開いたみたいになっています」

 勢いで言ってしまった言葉だったのだろう。

 身内の前でそんなことを言ってはいけなかったといわんばかりに、すぐさま長谷川さんは目を伏せた。

 そんなこと、いいのに。

 私は兄がどんな人間だったか知ることができただけで幸せなのに。

 それでも。

 そんな長谷川さんの申し訳なさそうな態度に私は付け込んだ。

「とても申し訳ないことをお聞きしますが」

 一応の前置きに、長谷川さんは表情を引き締める。

 私の前置きに、何を聞かれるのか察知したようだ。

 さすがは優秀なアシスタント。

「兄は、その、屋上へ向かう直前はどんな様子だったんでしょうか?」

 長谷川さんはお茶を口にして少し考え込み、それから慎重に言葉を発してきた。

「いつもと変わりませんでした」

 そのことをきっと長谷川さんは何度も問われ、何度も同じ回答をしているのだろう。

 私も兄の式のとき同じだったからわかる。

 まるで自分の中にテープが仕込んであるかのように、すらすらと言葉が出てくるのだ。

 それでも身内からの問いに気を使ったのか、長谷川さんは一生懸命に自分の感じていることを伝えようと努力していた。

「来週の会議資料を作っていて、それが一区切りついたので一服してくるとフロアを出ていきました。そのときはいつものように笑顔だったし、一服できるとほっとした顔をしていらっしゃいました」

 今日、こちらによる前に行った自宅は、煙草の吸殻が山のように積まれていた。

 実家や私の前ではそんなヘビースモーカーな姿を見せることはなかっただけに、少々驚いた。どうやら会社でも同じように煙草は離せなかったらしい。

 そのこともとても意外だった。

 そして同時に徐々に兄の印象が定まらなくなってきていた。

 私の知らない兄が多すぎる。

 兄は、本当はどんな人間だったのだろうか。

 自分があまりに兄について無知だったと突きつけられて動揺するものの、何とか冷静さを保ってなおも質問を続ける。

 判断しなければ。そのためにわざわざ来たんでしょう? 

「兄はいつも長く席を離れて、屋上に行っていたんでしょうか?」

「屋上かどうかはわからないですけど、大抵は30分ほどで戻っていらっしゃいました。ただ今回は1時間たっても戻っていらっしゃらなくて、遅いねと皆で言っていたところに連絡が」

 そのときのことを思い出してか、長谷川さんは寂しそうな顔をした。

「じゃあ、いつもと変わらなかったということでしょうか」

「ええ」

 長谷川さんの自信に満ちた返答は、長谷川さん自身が兄の死を自殺と思っていないことを示している。

 私は考え込む。

 応接室には重苦しい雰囲気が立ち込めていた。

 ひどいわ、兄さん。

 こんないい人たちを苦しめて。

「千秋さん。今度は私が不躾なことをお聞きしますが」

 先ほどの私の物言いを繰り返す形で聞いてくる。

「千秋さんは高嶺さん、いえ、お兄様の死をどのようにお考えなのですか?」

 切り替えされた格好で、私は少々考え込んだ。

 とても難しい問題だわ。

 兄はなんと罪作りな人だろうとは思う。

 その死が自殺か事故か、その原因以前に、兄は同僚や友人や私を置いて死ぬべきではなかった。

 まだ、早すぎる。

 そして準備のない死ほど、周囲を困惑させることはない。

 皆が多かれ少なかれ罪悪感を抱えてしまうものだ。

 もしかしたら高嶺聡史の死をとめることができたのではないか。

 どこかで自分が高嶺聡史を追い詰めたのではないか。

 死のサインを見逃したのではないか。

 そんなことを考える。

 私も、考える。

 苦しくて、悲しくて、どうしていいのかわからない。

 その辛さは、きっと私も長谷川さんたちも同じ。

 長いこと沈黙していた私の様子を返答に窮しているととったらしい。

「ごめんなさい。私つい、失礼なことを」

 見ると、長谷川さんは本当に罪悪感いっぱいの顔をして私を見つめていた。

 誤解させている。

「いえ、違うんです。失礼だなんてそんな」

 だって長谷川さんは私と同じ感覚を共有している。

 これが興味本位の質問だったのなら、私も不快な表情を浮かべて拒否しただろうが、長谷川さんは違う。

 私は慌てて否定した。

「ただ、死んでしまうには早すぎるとそう思っていました」

 その言葉は長谷川さん自身も思っていたことなのだろう。軽く頷いてきた。

「正直言うと、兄の死が自殺なのか事故なのか、深く考えるところまでいっていないんです」

 あまりに突然で、自分でもよくわからないうちに初七日を迎えてしまったような感じだった。

 初めに兄の死の連絡が入ったのは、父のところだった。

 父の秘書から私へ。

 いったい何の冗談だろうと思考が全く働いていない状態で病院にいったら、すでに父は到着していて、そして兄が横たわっていた。

 そこでようやく兄がビルから転落死したということを聞いた。

 不思議と悲しいとか辛いとかといった感情は浮かばなかった。

 無残な兄の遺体を前にしても、である。

 包帯でぐるぐる巻きにされ、右半身はほとんど原形をとどめず、かろうじて綺麗な左の目元から頬にかけて私はじっと見つめていた。

 そのまぶたが開き、私を見つめることは二度とない。

 語りかけることもない。

 私のたわいもないおしゃべりに耳を傾けてくれることもない。

 ただ。いなくなったのだと、その現実だけがひたひたと近づいてくるようだった。

 簡素な式の用意をし、骨を拾い、位牌を用意し、兄の遺品をうけとっても、私は号泣することはなかった。

 ああ兄はいないのだと。麻痺したような感情にその事実だけが灯る。

「兄とはもう会えないなと思うでしょう? そうするとどうして死んでしまったの? と思うんです。で。どうして死んでしまったのかと考えると、そこで思考が止まってしまう」

 淡々と言葉を発する私に、長谷川さんは辛抱強く付き合ってくれる。

「兄が何故死んだのか、それを想像したり推理したりするだけの情報が私にはないことに気がついてしまって」

 何が辛いといわれれば、それだった。

 兄のことを何も知らない自分を突きつけられること。それが辛かった。

 兄の死を探す手がかりがない、とか、そんなことが辛いわけじゃない。

 私がさめざめと泣きたい理由は、私が兄のことを何も知らなかったこと。知らされていなかったこと。

「だから。とりあえずは兄について少しずつ知っていこうと思っているんです。遺品とか、ひとつひとつ確認をしていこうと思っています」

 長谷川さんは優しく私を見つめていた。

「そちらの、後からお渡ししたほうの手帳とかには多分高嶺さんのプライベートな書き込みが多いと思います。昔一緒に飲みにいったときに、その日にあったことを簡単にメモしているとか仰っていました」

 ああそれはいい。兄の率直な様子が見て取れる。

「助かりますわ。プライベートで使っていた携帯が落下のときの衝撃で壊れてしまって、兄の友人関係とか詳しくわからなかったんです」

「自宅では、パソコンをお使いではありませんでしたか?」

「それが。IT系の企業に勤めていながら、あまりパソコンは利用していなかったみたいなんです」

 兄の自宅はまだ片づけを終えていない。

 ちょっとだけパソコンの中身を確認したものの、お粗末なくらい自宅用パソコンの中身は簡素なものだった。それこそ交友関係を調べるのも難しいくらいに。

 長谷川さんは申し訳なさそうに切り出してきた。

「すみません。会社で使っていたパソコンをお見せしたいのは山々なんですが、何分企業情報を公開するわけには行かないので」

「ええ。大丈夫ですよ」

 私は慌てて同意した。

「ただ、私が見た限りでは特段プライベートの内容はありませんでした」

 そんな中でも長谷川さんは私に情報を与えてくれようとする。

 優しい人。

 とても気を使ってもらって正直申し訳なくも感じる。

 それに私は長谷川さんからもっとたくさんの、兄の情報をいただいている。

 何となくちょっとだけ。私は軽口の一つを叩いてみる。

「本当。兄って朝から晩まで仕事のことばかりだったみたいですね」

「それは否定しませんね。お仕事用の携帯は常になりっぱなしで、でもそれに喜々として応答していましたもの」

 それには長谷川さんも笑って同意した。

 そこから想像してしまうであろう兄の最期を私たちはちょっとだけ無視して、明るく振舞った。

 何となく目に浮かぶようだ。

 会社のパソコンを持ち帰り、携帯片手に一生懸命見積作成をする兄の姿。きっと持ち帰った仕事が一段落したら満足して、シャワーを浴びて一杯口にしてそのまま寝てしまうに違いない。

 私たちはお互いの笑みを確認する。

 ああ。このペースでいいのかもしれない。兄のことはゆっくりと理解していけばいい。

 その思いはそのまま声に出る。

「確かに兄のパソコンや手帳から兄の言動を推し量ることもできるでしょうけど、こうして兄の印象を話してもらってそこから想像するほうが、もっと兄を身近に感じられます」

 それは私にとっても一番の収穫だった。

 兄の死が自殺なのか事故なのか、わからない。

 でも兄を好いてくれていた人たちがこんなにいる。

 私の言葉に長谷川さんはちょっとだけほっとした顔をした。

 しかし和やかな雰囲気をまとっていた長谷川さんが、ふと顔を曇らせた。

「携帯」

 突然の呟きに長谷川さんをじっと見つめてしまう。

「携帯、ですか?」

「ええ。高嶺さんの携帯、お手元にあるんですか?」

「はい。この間警察のほうから返されてきました」

 結局兄の転落死に関しては事件性なしと判断されたらしく、手元にあった遺留品は総てうちのほうへと戻されてきた。

 事故なのか自殺なのか、はっきりとした明言は避けての返却だった。その中に確かに壊れた携帯もはいっていた。

 ああ。もしかして。

「あれ、会社のものだったのかしら」

 だとしたらパソコン同様、会社側としては回収したいと思うのが道理だろう。

 しかしそんな私の考えは的外れだったらしい。長谷川さんはきっぱりと否定する。

「いいえ。会社で支給していた携帯は屋上においてありましたから。あの、そうじゃなくて、プライベート用の、ですよね」

 そう問われても。

「ごめんなさい。わからないんです。手元に帰ってきたのは黒の、これよりちょっと小さめのものでした」

 自分の携帯を示しつつ特徴を言うと、長谷川さんはそれは高嶺さんのプライベート用の携帯ですねと答えた。

 やっぱり私なんかより兄のことを知っている、なんて呑気に感心してしまう。

 しかし長谷川さんはそんなことを気にすることもなく丁寧なアドバイスを始めた。

「確約はできないので期待はしないでほしいのですけれど」

 真剣な態度に私もつい身を乗り出す。

「もしかしたら中のデータだけ取り出すことができるかもしれませんよ」

 え。

「でも壊れてしまっていて何も映らないんですけれど」

「そうですね、パソコンと同じと考えてください。ディスプレイの画面が壊れたからといって、パソコンの本体も壊れているわけではないでしょう? 画面が壊れたのなら、別な画面に接続すれば中身を見ることは可能」

 だとしたら。

 私は今までになく手に力がこもるのを感じていた。

「兄の交友関係とか、わかるかしら」

 呟く私の言葉に長谷川さんも頷く。

「可能性は高いと思います。私、何度か高嶺さんがプライベート用の携帯で連絡を取り合っている姿を拝見したことがありますから」

 兄の生活の片鱗を見ることはできるかもしれない。

「多分、携帯ショップに持ち込んでも直らないと思います。専門の業者に頼まないと」

「専門の業者ですか」

「でも、一度警察に確認してみてもいいと思いますよ。事件性も確認していると担当の刑事さんがおっしゃっていたので、中身の確認もしているかもしれません」

 刑事さん、か。

 そういえば名刺をもらってあったはず。

 聞いてみてもいいかもしれない。

 私は長谷川さんに深々と頭を下げた。

「いろいろとありがとうございます」

 そんな私を長谷川さんはおろおろとして、何とか頭を上げさせようとする。

 でも本当に感謝していた。

 兄の様子を聞けた。それにこうしていろいろと気を回してくれる。

 でもそれは全く押し付けがましいものではなくて、まるで同胞が気にかけてくれるようなその態度にとても感謝した。

 何となく顔を上げたときに気恥ずかしくて、思わず笑った。



 刑事さんに連絡を取ったのはその夜のことだった。

 兄のプライベートの携帯の中身を確認したいが破損していてどうしたものか困っている。警察のほうでデータを撮っているならば、そちらを確認させてもらえないか、と。

 月島と名乗ったその刑事はこちらに保管されているデータに関しては捜査資料のため渡すことはできないと、実に申し訳なさそうに言った。

 そのかわり携帯のデータ復旧を行ってくれる企業を教えてくれた。

 腕は確かなので、と紹介されたそこに復旧の依頼をしたら、ほどなくデータ一式をいただけた。

「破損状態がひどくて、メールのデータまでは復元できませんでしたが、可能な限りはこちらにデータを入れてあります」

 刑事からの紹介とあってか、思いのほか早くそれを受け取った私は丁重にお礼を述べて、そそくさと中身の確認に入った。

 兄の交友関係がわかるだけでも十分だ。

 実際、携帯の中には私の知らない友人関係がたくさんあった。

 プライベート用ということもあって、再度北野さんに連絡を取り、わかる限りの交友関係を教えてもらった。

 でもその中にひとつだけ腑に落ちない、それどころか私をとても混乱させる名前が一つあった。

 兄は電話帳を総てグループ分けしていた。

 その中の『身内』の項目にあった一件がどうしても私には理解できなかった。

 私の携帯のデータ、自宅のデータ、従兄弟の、叔父叔母の、父のデータもきちんと登録されていた。

 そして、『三條蓉子』という、聞き覚えのない名前が一件。

 三條、という名前があの兄の会社でお茶を出してくれた女性の名だと気がつくのにそれほど時間はかからなかった。

 三條蓉子。

 式にもきていなかった。弔電でも見かけなかった。

 なのに兄は『三條蓉子』の名前を『身内』というカテゴリに入れている。

 いったいこれは、誰?

 あの総務であった『三條さん』と同一人物なの?

 でも『身内』のカテゴリに入れられている人が兄の葬儀に顔も出さないなんて、ある?

 もしかしたら兄が亡くなったこと自体を知らないのだろうか。

 私はわずかな不安を抱えながらその名前に見入る。

 兄の本当の姿どころか、思いもよらない兄の秘密を知ってしまったような気がして、私は酷く狼狽していた。

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