6.親友、北野祐一の憤慨

「ここ、わかりますかね?」

 昨年もらった年賀状の住所を見せると、ああ高嶺さんところねと言って車を出した。

 どうやら『高嶺さんのところ』とタクシーの運転手が言ってしまえるほどに、高嶺の家は有名らしい。

 俺はシートに深く腰を下ろして今降りてきたばかりの駅へと目を向けた。

 都心から電車一本でつくその街は、中途半端に栄えているといった印象の強いところだった。

 聡史の実家はこの駅から車で10分ほどのところだと言う。

結構田舎なんだよな。

 いつだったか聡史はそんなことを言っていた。

 あれは大学時代のことだっただろうか? もうよく覚えていない。

 ただでさえこうして記憶は失われていくというのに、死んでしまったらどんどん消えていってしまうじゃないか。

 何故死んだ。

 そのことを考えると最初に湧き上がってくるのは必ず憤りだった。

 目を瞑り、無意識のうちに内ポケットの辺りに手を当てた。

 そこには今日預かった写真が収められている。

 あいつらしいな、と思う。

 写真などいちいち焼き増ししなくてもいいのに、何においても律儀だ。

 聡史とは大学時代からのつきあいであるが、そのころからあいつは変わらない。快活で、真っ直ぐで、常に輪の中心にいた。

太陽みたいな男。

そんな表現をした同級生がいたが、まさに的確な表現だなと納得したことを今でも覚えている。

 俺はちょっとした羨望をこめてそんな高嶺を遠くから眺めているような人間だった。俺と高嶺は真逆の性格をしていたし、大学時代いつもつるんでいたわけでもない。

 しかし聡史との付き合いは大学を卒業した後も続いていた。

 多分お互い、大学を卒業してもこれだけ長く、定期的に付き合いが続いている友人は他にいなかっただろう。

 似たような業界に就職したということもあっただろうが、共通の趣味が二人をつないでいたといってもいい。

 俺たちはよく連れ立って山へと出かけていた。

 今、俺の内ポケットにある一枚の写真もそのとき撮られたものだ。

 今年の秋、一緒に穂高に登ったときの写真だった。

 学生時代は二人でよく出かけた。バイトをして金がたまったら山に行く。その繰り返しだった。

 聡史の家がかなりの資産家だと知ったのは一緒に山を登り始めて暫くたってからのことだった。

 納得できるだけの要素はあった。突出した格好をしているわけでも、ブランド物をもっているわけでもなかったが、ふと見せる仕種に育ちのよさがにじみ出ていた。そもそも、人を惹きつけてやまない聡史の性格が、それを物語っていた。

 しかし本人は父親の名前や存在を出されることを殊更に嫌っていたようだった。

 俺に実家の話をしたときも、話の流れからやむを得ずといった様子だったし、こうして山に来る費用は自分で全て稼いでいるといっていた。実際学生時代の聡史は、暇さえあればバイトに明け暮れていた。

 勉強をしているときも、友人と飲み明かしているときも、バイトをしているときも。とにかく聡史は前向きで生気溢れる表情をしていた。しかし父親の話を持ち出したそのときだけは、いつもの聡史ではなかった。

 太陽のような男に差した、たった一つの影。

 暗く思い悩んだ様子を目にしたのは、後にも先にもそのときだけだった。

 この間穂高に行ったときでさえ、いつもとかわらなかった。

 最後の別れ際に、次に会ったときに写真を渡すよなんて笑顔で手を振っていたぐらいだ。

 死ぬはずがない。

 自分から命を絶つなんてあり得ない。

 許されることではない。

 そんなことは許さない。

「お客さん、つきましたよ」

 いつの間にかタクシーは止まっていた。

 声をかけられて俺は慌てて降りた。

 それと同時にまるで夏のような日差しにさらされて、俺は一瞬目がくらんだ。

 もう秋だというのに。

 そのまぶしさに目を細めて数歩足を踏み出したところで、高嶺の実家から伸びる木々が日差しを遮り、ようやくしっかりと目を開けることができた。

 生い茂る葉の、風に揺れる音が響く。

 確かに田舎だ。

 辺りは民家も少なく、ちょっとうっそうとした感がある。

 いかにも旧家といった佇まい。

 いやそもそも。

 でかい家。

 俺はあまりにも立派な日本家屋に圧倒されていた。

 外壁で中が完全に見えない家なんて、当然俺は今までご縁がない。中古マンションで暮らしていた俺の実家とは大違いだ。

 こうしてみると改めて聡史がかなりの資産家の息子だったんだと思い知らされる。

『北野さん、ですか?』

 その屋敷に圧倒されて、呼び鈴をならすこともすっかり忘れていた俺に対して、インターホンから呼びかけがあった。

 驚いてそのインターホンを凝視していると、そんな俺の様子を察したのか、続けて声がかかる。

『人が来るとセンサーが反応する仕組みになっているんです。今、開けますからそのままお入りください』

 俺は慣れない対応に戸惑いながらも、門をくぐった。




 屋敷内に一歩足を踏み入れると、線香のにおいが立ち込めていた。

広すぎるほどに広い屋敷内に静寂が広がる。

 人が亡くなったばかりの家独特の、重い空気が立ち込めていた。

「本来ならばこちらからご連絡しなければならないところですのに、申し訳ありません。何分急なことだったものですから、兄の交友関係がよくわからなくて」

 先ほどインターホンで対応してくれた女性は聡史の妹、千秋さんだったらしい。

 玄関先で簡単に紹介を受けたが、そうされるまでもなく、聡史との関係は明白だった。

 顔立ちはそっくりだった。

 ただ、明朗だった聡史とは180度異なる雰囲気を纏っていた。

 いわゆる深窓の令嬢といった古風な言葉が当てはまりそうな、おとなしい印象の女性だった。

「いえ、こちらこそお伺いするのが遅くなりまして申し訳ないです」

「出張で中国のほうにいらしたと聞きましたけど」

「ええ。昨日戻ってきました」

 聡史の死の一報は大連で受けた。

 しかも聡史のアシスタントからの事務的なメールで知った。

 もともと聡史の勤めていた会社とは、仕事でもつきあいがあった。メールを送ってきた聡史のアシストとも何度か会ったことがある。

 件名は『担当者の変更につきまして』というものだったから、最初はそれほど気に留めていなかったのだ。

 大連での仕事は早朝に始まり、深夜に至るというもので、毎日へとへとになって帰ってくるものだから、メールのチェックが適当になることもざらだった。

 それでも虫の知らせか、そのときに限ってそのメールを開いた。

 メールには聡史の突然の死と、今後の仕事の引継ぎについて、最後に迷惑をかけることへの簡単な謝罪がつづられていた。

 正直メールの内容がすぐには理解できなかった。

 つい10日前に一緒に山に登った人間が死んだなんて誰が信じるだろうか。

 ただ、形式ばったメールの末尾に、俺宛の私物が混ざっていたのでお返ししたいが都合はいかがでしょうかと問う、ちょっと砕けた文章が入っていて、それが妙にリアルさを演出していた。

 電話で確認しようにも現地時間で1時を回っており、向こうは完全に夜中。当然会社に連絡を入れようにも無理。

 次にしたのは大学時代の友人への電話だった。

 夜中だろうと何だろうとかまわなかった。

 ようやく3人目にして連絡が取れ、そこで初めて聡史が死んだこと、ビルの屋上からの転落死で事故か自殺かわかっていないこと、既に葬儀は終わっていることを知った。

 あまりの展開に頭がついていかない。

 仕事の疲れもあっただろうが、頭が考えることを拒否しているようだった。

 それからはとにかく仕事を早急に片付けることに没頭した。

 さすがに途中で放り出すわけにも行かず、一刻も早く帰国するためにはそれしか方法がなかったからだ。

 どうにか昨日の最終便で戻ってこられたものの、疲労はピークに達していて、それを人に悟られないようにするので精一杯だった。

 先を歩いていた千秋さんはちらりと俺のほうを見て、会釈をした。

「お疲れでしょうに、本当に申し訳ないです」

 とはいえ、完全には隠しきれていないようだ。千秋さんは心底申し訳ないといった顔で俺に気をつかってくる。

 確かに疲れているが、自分以上に目の前を歩く女性のほうが疲労しているように見えた。20代前半だろうに、顔に浮かぶ影が彼女を随分と大人びて見せた。

 もしかしたらこの粛々とした雰囲気も本来持っているものではなく、聡史の死によって引き出されたものなのかもしれない。

「こちらです」

 通された先は意外にも明るかった。

 このひっそりとした、というよりうっそうとした室内で、そこだけが異様に華やかだった。

 花や果物やら、いろいろと。

 遺影は静かな微笑を湛えているものだった。

 人柄のよさが充分窺える遺影だった。

 俺は荷物を握り締めて立ち尽くし、黙ってその様を見ていた。

 遺影がある。

 線香が焚かれている

 花が置かれている。

 白い布にくるまった、骨壷さえも置いてある。

 そこまで見ても、聡史が死んだ実感はわいてこなかった。

 もともとメールをもらったときから、実感なんてない。だったらせめて遺影でも見れば聡史はいないと納得できるかと思っていたのに、それさえも叶わない。

「北野さん?」

 立ち尽くしたままの俺を不審に思ったのか、千秋さんは俺に声をかけた。

 ようやく瞬きをして、それから千秋さんへと視線を向けた。

 聡史。

 思わずつぶやきそうになるほど、千秋さんのまなざしは聡史とそっくりだった。この問うような真っ直ぐな目は聡史のそれとまったく同じだった。

 俺は目を伏せて軽く会釈をして、焼香した。

 千秋さんは俺の所作を黙って見つめていたが、心配そうに覗き込んでくる。

「大丈夫ですか?」

 大丈夫。

 というには行動が伴っていない。

 それでも俺は頷いて、再度壇を見た。

 遺影の横においてある遺骨を納めた小さな箱を見ても、まったく実感がわかないとは。

「あまりに突然で、その、実感がわかないんですよ。わたしは葬式にも出られませんでしたし、遺影を見れば少しはと思ったんですが、駄目ですね」

 ぎこちなく答えると、千秋さんは納得したようだった。

「それは、私もです」

 確かに俺なんかより身内の受けたダメージのほうが強いだろう。

 早々に焼香を終えて、そのまま辞するつもりだったのに、少し話がしたいと引き止められて、俺はそのままお茶を一杯いただくこととなった。

 とはいえ、千秋さんとは今日まで一度も面識がなかったから、何を話しかけていいものか想像がつかない。

 こういうとき口下手な、というよりも人付き合いの下手な人間は対処に困るものだ。

 そう、俺は聡史と違って人とのコミュニケーションが恐ろしく下手だった。

 無愛想なわけではないが、肝心の時に言葉がまったくでないタイプだった。

 それが誤解を招き、北野は何を考えているのかわからないと囁かれる原因となっていた。

 そんな陰口は毎度のことだった。

 家族の間でさえ、俺は何を考えているのかわからない人間と位置づけされている。

 どうせそんな評価をされるならば、適当なお悔やみの言葉なんて口にしないほうがいいと思っていた。

「今日は、お仕事は」

 沈黙を破ったのは千秋さんのほうだった。

 お茶を勧められ、一口二口飲んだところで声をかけてきた。

 絶妙なタイミング。

 こういう間の取り方の上手さも、兄妹ともに似ている。

「休みをいただきました」

「あら、でも」

 ちらりと送ってきた視線の先には、うちの会社の紙袋があった。

「ああ。これは聡史の、いえ。お兄さんに預けていた私物なんですよ。飲みにいったときにでも返そうと思っていたらしくて、仕事場においていたみたいですね。それを引き取りにお兄さんの会社によって、それからこちらに寄らせていただきました」

 もしかしたら失礼かなと思ったが、先に聡史の会社のほうへと立ち寄った。

 事前に聡史の情報を入れて起きたかったし、私物が何なのか気になったということもある。

 いった先ではこれまた疲れた表情のアシスタントが荷物を持って待っていた。

 それぞれの近況を伝え合い、挨拶を交わして荷物を受け取った。

 その際にそれとなく聡史の死のいきさつを聞いたが、彼女自身も正確な情報がはいってきていない状況らしかった。

 だが彼女は聡史が事故死だったと固く信じているようだった。

 ただ現場の状況から察するに、自殺だろうということが大方の見解らしい。

 その会話は俺たちの間になんとも気詰まりな空気を生み出し、俺はそそくさと荷物を預かってその場を辞した。

 荷物は本当にたわいもないものだった。

 ディスクが数枚と、本。それと写真だった。

 穂高で、二人並んで撮った写真はたった一枚。というよりそれ以外はほとんど穂高の風景だった。

 俺は内ポケットから写真を取り出して、千秋さんに渡した。

「多分、あいつのことだから自分の分も持っていたと思いますが」

 千秋さんはおそるおそる受け取り、その写真に見入っていた。

 その日は快晴で、吸い込まれるような青い空ってのはこういう空を言うんだなと二人で感心した。

 空は青かった。

 その青があまりに美しくて、いつもならば写真なんて撮らないのに思わず1枚だけ2人で撮った。

 聡史はその空によほど感動したのか、満足気な笑みを浮かべていた。

「遺影、こちらの写真のほうがよかったなぁ」

 ほとんど凝視といってもいいほどに写真を見つめていた千秋さんは、誰に言うでもなくそんなことをつぶやいた。

 今までの丁寧な口調が解けて、年相応の彼女が表に出ていた。

 顔立ちも一気に若返ったように思える。

「その写真、お持ちではありませんでしたか?」

「ええ。まだ兄の自宅も整理していませんし、会社の荷物は明日取りにうかがう予定ですし。実家には最近の兄の写真はなくて、あの遺影もようやく探し出したものなんです」

 千秋さんは写真から目を離さずに、そう答えた。

 写真を見る目はとても温かく、懐かしそうだった。

「兄は、高校を出てからすぐ一人暮らしをはじめて、実家に戻ってくることはほとんどありませんでしたから」

 暫く写真を見つめていて、ようやく顔を上げたときにはちょっとだけ目尻に涙を溜めていた。

 俺は何といっていいものかまた戸惑い、思わず視線をそらしてしまった。

 ただでさえ肝心なところで言葉が出ないというのに、女性の涙は一番困る。

 しかし千秋さんはそんな俺に対して特段不快感を示すこともなく、さりげなく目尻を拭った。

「だから、北野さんに最近の兄の様子をお聞きしたいと思って、無理に足を止めさせてしまったんです。ごめんなさいね」

 涙を完全に押さえ込み、何とか笑顔を作ろうとする姿は痛々しくもあった。

 そんな彼女に俺は気の利いた言葉一つかけられない。

「聡史とは、あまり会っていなかったんですか?」

 あの聡史がこんないい妹をないがしろにするとは思えない。なにしろ友人の助け舟には必ず乗る人間だったのだから。身内ならばなおのことだろう。

「兄はあまり父と仲がよくなかったんです。母が死んでからは特に。だから会うのは必ず外で、でした」

 話が暗いほうに進んでいると気がついたのか、千秋さんは声のトーンを少しばかり上げて俺へと質問をしてきた。

「兄は私にとってはとても優しい兄でしたけれど、友人の方たちの前だとどうでしたか?」

 どうといわれても。

 俺は聡史の印象をどう表現すればいいのか、戸惑っていた。

 ああやっぱり無理にでも用件を作って失礼すればよかったと後悔する。

 そういうことを口にするのがとても苦手なのだ。

 俺の困惑を感じ取ったらしい。

 勢いづいていた千秋さんが少しばかりトーンダウンする。

 駄目だ。黙っていればいらぬ誤解を与えてしまう。

 何とか言葉を発しようと思って、結局出たのは。

「どうして、俺に?」

 疑問に思っていたことをそのまま口に出すしかなかった。

 俺みたいな口下手な男に聞かずとも、もっと上手く、的確に聡史の日常を表現できる友人はたくさんいたはずだ。

 何故と思っても不思議じゃないだろう。

 しかしこの質問に関して千秋さんはなぜそんなことを聞くのかわからない、といった顔をしていた。

「だって、兄と一番仲がよかったでしょう?」

「何で」

 そんなことを?

 俺の質問返しは必要なかった。千秋さんはそれが当たり前のことといわんばかりに続ける。

「兄の口から一番多く出てきたお名前でしたから。特に山に行ったときの話は延々としていましたわ。兄ってあまり自分の交友関係に関しては口にしないタイプでしたから、よほど大切なお友達なんだな、って思いましたけど」

 予想もしていなかった言葉に俺は目を見張る。

 千秋さんはそんな俺を不思議そうに見つめている。

 だが俺は繕うこともできずにこみ上げてくるものを堪えかねて、そのまま顔を伏せてしまった。

 俺と聡史をつないでいたのは山だった。

 山で語る必要はなかった。ある種の一体感が俺たちをつないでいたといっていい。

 俺にしてみればそれで満足だった。

 俺はこのとおり口下手で、気の利いたことをいえるタイプではない。多分聡史が付き合っていた友人の中では異質なほうだろう。

 それでも、聡史とそうした時間を共有できるのは自分しかいないことを誇りに思っていた。

 だが、本当にそれでよかったのか?

 俺は余計なことは一切聞かなかった。口下手という自分の弱点にしり込みし、ただ黙って聡史の話に耳を傾けるだけだった。

 その最中、俺は何か気がつかなかったか。

 聡史の様子が微妙にバランスを崩している様を感じ取っていなかっただろうか。

 あいつは山で嘘はつけない男だった。優秀で完璧であろうとする高嶺聡史の鎧が少しずつはがれていくのを感じてはいなかったか。

 そうだ。

 ほんのわずかだが、俺は聡史の変化を感じ取っていたはずだ。

 もし俺が一歩踏み出して、聡史に声をかけていたならば、聡史の死をとめることができただろうか。

そう思った瞬間、俺は激しい後悔に襲われる。

きちんと聞くべきだった。もっと話をするべきだった。

「北野さん?」

 黙りこむ俺に対して千秋さんは不安そうな顔をする。

 そうされて、俺はようやく気を取り直す。

 聡史の印象。そうだそれを聞かれていたのだ。

 表現に迷い、そして俺はどうにか言葉を搾り出す。

「太陽みたいな男。そういっていた友人がいました。本当に、その言葉のままで。誰からも好かれている人間だった」

 当たり障りのない答えに千秋さんは眉を寄せた。

「北野さんは。兄の印象をどう捉えていたんですか」

 それは暗に自分の言葉で表現して欲しいと強要していた。

 ああやっぱり兄妹だ。この真正直すぎるほどの追求の仕方は聡史そっくりだ。

その上それは、まるで先ほど俺が沈黙していた間に俺の心中を読み取ったのではないかと思えるほどに、鋭い指摘だった。

 たぶん。精一杯の知恵を使って、自分自身で高嶺聡史を表現することを避けようとしていたことはばれている。

 浅知恵は高嶺兄妹には効かないらしい。

「他の友人と同じですよ。真っ直ぐで、清廉で、聡史の前にいると誠実であろうと思う。何とか聡史にふさわしい人間でいようと思う。そう思っていたのは俺だけじゃないと思います。それだけの魅力のある男だったし。でも」

 その先を口にするのはためらわれた。

 しかしそこでとめることを千秋さんはよしとはしなかった。

「続けてください」

 何を聞いても、私は大丈夫だから。

 そういっているようだった。

 そしてその勢いに乗って、俺は口を開く。

「でも。真っ直ぐすぎて大丈夫かと思うことがあったことは確かです」

 それはときどき起こる漠然とした不安だった。

 いつか。あいつの真っ直ぐすぎるほどの正義感や清廉さが、自分を傷つける諸刃の剣とならないだろうかと。

 そして考えすぎだと頭を振る。いつもその繰り返しだった。

 実際俺の心配するようなことは今までおきなかったし、なにより聡史と話すと杞憂に過ぎないと思うことがままあった。

 そんな俺の言葉をどう思ったのだろうか。

 千秋さんは少しだけ考え込み、搾り出すように言葉を吐いた。

「北野さんは、兄が自殺をしたと思いますか?」

 こんなにストレートに聞かれるとは思わなかったから、さすがにこれには絶句した。

 まさか千秋さんもこの手の質問を誰にでもしているというわけではないだろう。それは先ほどの千秋さんの態度でわかる。

 そして彼女はうわべだけの答えを求めているわけではないことも。

 すでに、聡史について自分の感を述べたのならば、最後まで誠実でなければならない。それになにより、あの時きちんと口にしておけばよかったなどと、そんな後悔はしたくない。

 俺は聡史の写真に目を向ける。

 お前のその顔、もう一度見たかったな。

 俺は小さな溜息を一つついてから言った。

「正直言って、わからないです。俺としては聡史が自殺するようには思えない。でもそんな事故にあうような迂闊さがあったとも思えない」

「でも、兄が挫折するような何かがあったとしたら」

 あったとしたら。

 聡史の完璧さを折るような、清廉さを否定して回復することができない事態が起きたなら。

 そのとき聡史はどれだけの衝撃を受けるだろうか。

 それこそ発作的に死を選ぶことはありえたかもしれない。

 でもそれを俺はあえて口にしなかった。

 かわって口にした言葉は。

「千秋さんは。どう思っているんですか?」

 俺からこんなふうに返されるとは思っていなかったらしい。

 実際俺も卑怯な手を使っている自覚はある。自分が明確に答えたくないから、逆に質問するという形で答を回避している。

 そして千秋さんをつらい立場に追い込む。

「私は」

 答える義務はない。

 拒否してもいい。

 俺が答えを出すことを回避するために発せられた質問なんて無視してくれていい。

 でも千秋さんははっきりと返答してきた。

「何も思いつかないんです」

 さばさばした物言いとは裏腹に、実に寂しそうな顔をしていた。

 俺はなんと言っていいのかわからず、そのまま黙って千秋さんの顔を見つめていただけだった。

「情けないですけれど、何も。私、本当に兄のことを何も知らなかったんだっていまさらながらに気がついたくらいですから」

 千秋さんの言葉からは後悔の念が強く表れていた。

 仲が悪かったわけじゃないだろう。聡史も千秋さんのことを気遣い、千秋さんも聡史のことを気にかけていた。

 それでも溝を感じてしまう何かが、この家にはあるのかもしれない。

「すみません。配慮が足りなかった」

 俺の不躾な質問が千秋さんに更なる苦痛を与えてしまったことに、俺は深く頭を下げた。

 そんな俺を千秋さんは慌てて制する。

「いいえ。北野さんに責任があるんじゃないんです。私のほうこそ不躾な質問をしてしまって」

 千秋さんは自分がどういった顔をしていいものか迷っているようだった。

 こんなときに人間の感覚はとても麻痺する。

 悲しいはずなのに涙は出てこない。

 曖昧に笑って見せたりする。

 それがまた痛々しい。

 俺と千秋さんとの間に深い沈黙が落ちてどのくらいたっただろうか。

 不思議なことに俺はその時間を苦痛とは思っていなかった。

 さっさと辞すればよかったなんて思っていたとは思えないほど、俺はこの雰囲気に入り込んでいた。

 陽が傾き、秋の風がわずかに耳に響いてくる。

 遠くから聞こえてくる鳥の鳴き声。

 線香が揺らめき、灰が落ちる。

 火が、消える。

 そんな中で俺は黙って千秋さんを見つめていた。

 泣いてはいなかった。

 千秋さんは虚空を眺めていた。

 それからようやくして、目に生気が戻り、再び俺へと視線を向ける。

「あの、もしよかったら、兄のお話、もう少し聞かせてくれませんか? どんなことでもいいんです。兄が何を考え、何を思い、どんなことをしていたのか、知りたいんです」

 そこでようやく千秋さんの望んでいることが何なのかわかった気がした。

 千秋さんは何も聡史の死が自殺であるか事故であるか、はっきりさせようとしているわけではない。

 突然の死という形で時が止まってしまった聡史との溝をどうやれば埋められるか、必死に手探りでその方法を模索しているといったところだろうか。

 すがるような、そしてこんな真摯な目を向けられては断りようがない。

 俺は無意識に小さく溜息をついた。

 聡史。お前はひどいヤツだ。

 何故死んだ。

 お前は死ぬべきではなかった。

 それが自ら選んだものであっても、事故であっても。

 お前という人間がどんな人間か周囲が判別できないまま、その人生を終えてしまうべきではなかった。

 結局そこに戻るのだ。

 いつもお前は人を照らす太陽だった。

 だが、お前を照らす太陽はいなかったのか。お前を守る傘はなかったのか。

 俺は、少しでもお前の力になることはできなかったのか。

 そんな大それたほどのものでなくても、それに順ずるような役目を俺が受け持つことはできなかったのか。

 それとも自分から踏み出すことのなかった俺を責めていたのか。

 聡史の死は俺の心に大きな影を落とした。

 申し訳ないという罪悪感。それと同時に感じる憤り。

 俺を、千秋さんを、そして俺の知らぬお前の死を思う数々の人を、こんなふうに惑わす聡史のことが。

そして悲しくて仕方がなかった。

憤りでも罪悪感でも、生きていればぶつけて、理解しあうことができたはずだった。

「山にいったときの兄ってどんなだったか教えてもらっていいですか? 私、以前から兄に一緒に山に行こうと誘われていたのに結局適当にかわしてしまっていて、兄がどんなふうだったか知らないんです」

 俺の不穏な空気を読み取ったのか、千秋さんは努めて明るい調子で尋ねてきた。

「こんなふうに笑う顔、見たかったです」

 本当に、羨ましそうに写真を見つめる千秋さんに対して俺は自然と口をついていた。

「あげますよ、それ」

「え?」

「あげます」

「でも」

 自分の態度に何か落ち度があったんじゃないかと、千秋さんは戸惑っているようだ。

「もし焼き回ししていなかったら、それ一枚になるわけですから」

「でもこれは北野さんの」

「俺は」

 目をつぶる。

 そうすれば、思い浮かぶ。穂高の青空、風景、聡史の顔。

「こうすればいつでも思い出せますから」

 そうだ。

 あの感動を共に分かち合うこともできなくなると今になって気がついた。 

 あの青を聡史と見ることはない。

 永遠に失ったと気がついても、俺は涙がでなかった。

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