5.元恋人、佐藤真純の後悔
長谷川さんと会ったのは、本当に偶然だった。
あたしは顧客サービス部の所属で、こちらの本社ビルに来ることはほとんどない。
今日はたまたま営業部長の承認印が急ぎ必要で本社ビルに来たのだ。
最初に気がついたのはあたしのほうだった。
ドア口で一人の男性にしきりに礼をしていた。
その男性の顔に見覚えがあった。
覚えている。あれは高嶺さんの友人だ。
取引先の担当者が偶然大学時代の親友だったと写真で見せてもらったことがある。
もともと登山が共通の趣味で、やたらと馬があう奴なんだと楽しそうにいっていた姿を思い出す。
ふと二人が顔をあげたのを見て、反射的に視線を落とした。
相手があたしの顔を知っているはずはないのに、とても気まずい思いがしてならなかった。
その男性があたしの隣を通り過ぎ、ほっとして顔を上げたところでばっちり長谷川さんと目が合う。
どう挨拶すればいいのか、戸惑う。
どうしよう。
それにもしかしたら長谷川さんはあたしにいい印象を持っていないかもしれない。
そう思いあたり、自分でもどうしていいものか戸惑っていたときだった。
「久しぶりね、佐藤さん。元気だった?」
その笑顔や声色は昔から変わらない長谷川さんのもので、あたしはちょっとほっとした。
「うん、久しぶり」
うまく笑顔を返せなくて、あたしはそのまま目を伏せた。
「今日は? 何か書類を届けにきたの?」
あたしが握り締めている封筒に目を落とし、そう問いかけてきた。
「どうしても営業部長の承認印が必要で。それで」
あたしが所属する顧客サービス部は交差点の向かい側のビルに位置する。大抵の書類のやりとりは社内便で行なわれている。今回のようなよほどの急ぎでなければ、こうして足を運ぶことはない。
それでも。かつてはよくこうして用事を作っては本社へと足を運んでいた。それもある日を境にぱたりとやめてしまったけれど。
「あー。部長はなかなか印鑑押しててくれないからたまっていっちゃうのよね」
いたずらっぽく笑って見せるものの、やっぱりちょっといつもよりは元気がないように見えた。
一課のおかれている状況は、ビルが違っても噂で耳にはいっている。
それだけ高嶺さんの死は衝撃的だった。長谷川さんが対応に追われていることは容易に想像できたし、事実少し痩せた様な気もする。
そんな長谷川さんに気を使わせたくなくて、今度はあたしのほうから話をふった。
「長谷川さんは? 忙しい?」
あたしの問いに、長谷川さんはちょっと苦笑した。
忙しいに決まっている。
あたしは自分が莫迦な質問をしたことに気がついて、頬を赤らめた。
でも長谷川さんはそのことを特段気にするでもなく、さらりと答えた。
「うん。そうだね。一緒に働いている庶務の子が体調を崩して長期休暇に入っちゃったから、さすがにね」
そうなのだ。
今年一課に配属になった新人さんはストレスが原因で体調を崩し、暫く会社を休むことになったと噂で聞いた。
ただでさえ一課の負担は大きいというのに、長谷川さんに負荷が一気にかかってくることになってしまう。
あたしはかける言葉も見つからず、そのまま再び俯き加減になった。
そんなあたしの態度を気にして長谷川さんは努めて明るく振舞う。
「あ、でも昨日からヘルプでうちの課に来てくれている人がいるから、大丈夫なのよ」
「ヘルプですか?」
うちの人事は腰が重いことで有名だったが、さすがに今回は動いたらしい。
それにしてもあの一課のお手伝いができる人間っていったいどんな人なんだろう。
そう思ってしまうくらいに一課のお仕事は特殊で激務だった。いくら手伝いとはいえ、できる限り受けたくないと思うのが普通の感覚だ。
それを素直に受けるなんて。
そんなあたしの疑問はしっかりと表情にでていたらしい。
長谷川さんは苦笑を浮かべて説明してくれる。
「総務の三條さんって知っている? すごく仕事のできる人なんだよね。正確で速いし、とても助かっているわ」
総務の方ということはきっと高嶺さんの後片付けが主な仕事としてヘルプに出されているのだろう。
その人が高嶺さんの退社の手続きをし、私物を片付け、高嶺さんの痕跡を消していくのだ。
そのことを考えると一気に暗くなる。
高嶺さんはもういないのだ。
そんなあたしの姿をどう捉えたのか、長谷川さんはいきなりあたしの手を掴み、顔を覗き込んできた。
必然、視線が合う。
長谷川さんの目は相変わらず真っ直ぐで、強くて、そして優しかった。
「大丈夫?」
その大丈夫が何を意味しての大丈夫か、あたしは充分理解している。
「考え込んでいない?」
裏表のない、純粋な心遣いから出た言葉。
それが身に沁みて、思わず涙が溢れそうになった。
長谷川さんは知っている。
あたしと高嶺さんが三ヶ月前まで付き合っていたことを。
そして三ヶ月前。あたしから別れを切り出したことを。
付き合っていた期間は一年半。懇親会でたまたま隣の席になったことがきっかけだった。
あたしが入社したときから高嶺さんは目立っていた。確かにぱっと見た感じ素敵な人ではあったけど、それ以上にその人柄のよさにあたしは惹かれていた。優しくて、ユーモアも兼ね備えていて、なにより一点の曇りもないような真っ直ぐさに。
自分からアプローチすることなんて今までなかったのに、そのときだけは一世一代の勇気をふりしぼって、自分から動いた。こんなチャンス、もう二度とこない、そう思って。
そんなあたしの必死さにほだされたのか、同情したのか。とにかくあたしと高嶺さんは付き合うこととなった。
仕事が忙しくてなかなか一緒にいる時間を作ることも難しかったけれど、その分大切にしてもらったし、優しくしてくれた。うちの会社は社内恋愛をあまりよしとしない風潮があったから、秘密でこっそり付き合っていたけれど、それも苦に感じたことはなかった。
それは長谷川さんとかがフォローしてくれていたからだと思う。
秘密にしていた社内恋愛を知っていたのは二人だけ。そのうちの一人だった長谷川さんは、高嶺さんと同じ課で働いていたこともあってよく協力をしてくれていた。
長谷川さんはちょっと高嶺さんと通じるところがあって、一本筋の通っている人だったから、他言は一切しなかったし、いろいろと便宜を図ってくれた。
すごく、応援してくれていた。
だから別れるとなったときもとても言いづらかったのだ。
あんなに協力してくれたのに。しかも別れを切り出したのがあたしからだなんて。
長谷川さんは高嶺さんとも親しかったから、そんなあたしをどう思うだろうとちょっと悩んだりもした。
でもそんなことは杞憂だった。
長谷川さんは今までと何も変わらなかった。高嶺さんとのことは一切触れず、あたしとの付き合いも今までどおりだった。
ただ。あたしのほうでちょっと長谷川さんと距離を置いていたところはある。
逃げ出した自分が後ろめたかったのだ。
長谷川さんの態度が変わったとかそういうことではなくて、あたし自身の問題だった。
そんな不義理のあたしに対して、今また、長谷川さんは優しく声をかけてくる。
とても心に沁みる。
涙が溢れそうで、堪えるのに唇をかみ締めた。
「あたしじゃ役不足かもしれないけど、話を聞くことぐらいなら、できるから」
その言葉にあたしは思い切り首をふった。
役不足なんて。そんなこと、ない。
「長谷川さんは、いつも」
軽く息を吸う。声が震えているのがわかる。
「いつも、優しいもの」
長谷川さんだって辛いはずなのだ。
一課がどんな噂をされているのか知っている。どうして高嶺さんの異変に気がつかなかったのかと暗に責められたり、監査部の厳しい追及を受けたりと大変だったはずだ。
もしあたしが高嶺さんの元カノとわかれば、きっとすさまじい噂の渦中に巻き込まれることは間違いないだろう。
でもそんなことはどうでもよかったのだ。
あたしの感じている苦さなんて、長谷川さんたちのそれよりも軽いものだ。ましてや、亡くなった高嶺さんが抱えていた苦悩に比べれば、あたしのそれはあまりにも小さいものだ。
ああなぜ。
なぜあたしは。
唇をかみ締めて、それ以上の言葉を発することができなくなったあたしの手を長谷川さんはしっかりと握りこんできた。
「そんなこと、ないよ」
長谷川さんはちょっとだけ言い澱んで、それからおもむろに口を開いた。
「今休んでいる後輩。ちょっと佐藤さんに似ているの。雰囲気とか、笑い方とか。可愛い子なんだよね。でもその子が思いつめて、ストレス溜めていることにあたしは気がつかなかったのよ。やんなっちゃうよね。噂がそのまま繰り返されているみたいで」
まるで自分を責めているかのように、長谷川さんは告白する。
確かに、精神的に追い詰められて体調を崩したらしいことはあたしも聞いている。でもそれは長谷川さんのせいじゃない。
「だから、ごめん。後輩とちょっとダブって見えているのかもしれない。おせっかいに感じたらごめんね」
無理に明るく振舞う長谷川さんに対してあたしは再度首をふった。
「おせっかいなんて、思っていない。あたしのほうこそ」
ごめんなさい。
その言葉は続けられなかった。喉が詰まって、声が出なかった。
「あたし、その子にちゃんといってあげてなかったの。高嶺さんは自殺じゃないって」
その言葉にあたしは弾かれたように顔を上げた。
長谷川さんは迷いのない目であたしを静かに見つめていた。
「高嶺、さん、は」
「自殺なんかじゃない」
断言する。
それはあたしを納得させるためのものだったのかもしれない。同時に自分を納得させるためだったのかもしれない。
とにかく長谷川さんはそう断言した。
そのまま暫く手を握り締めたまま、長谷川さんは真剣なまなざしであたしを凝視していた。
その瞳がふと緩む。
「大体あの律儀で完璧主義の高嶺さんが本当に自ら死のうと思っていたのなら、きっちり仕事を片付けて、遺書でも指示を出してくるくらいやると思わない?」
あえて明るい調子で言ってきた長谷川さんにつられるかのように、あたしもなんとか明るい調子で力強く頷いた。
そうしていながら、心の奥であたしは長谷川さんに謝っていた。
長谷川さんの心遣いは嬉しかった。
でも。
やっぱり思ってしまう。思い出す。そして心に影がさす。
高嶺さんが時々見せた、あの暗い瞳のことを。
「真純。聞いているのか」
どのくらい隆はあたしの名前を呼んでいたのだろう。
幾分強い口調に、あたしはようやく我に返った。
いつの間に停車していたのか、車はハザードを出して路肩へよせてある。
「ごめんね」
県外の営業所勤務という仕事柄、こうして平日の夜に会えることなんてなかなかない。嬉しくて当然なのに、今日は何だかそういう気分にはなれなかった。
『自殺じゃない』
長谷川さんが囁いた言葉がこだましている。
「大丈夫か?」
覗きこんでくる恋人の所作にあたしは慌てて笑顔を作った。
「ん。大丈夫。せっかく久々に会えたのに、本当にごめんね」
そんなあたしに無理して笑わなくていいと言わんばかりに、頭をなぜた。
隆は優しい。つきあう以前から優しかった。あたしはその優しさに甘えて、ずっと寄りかかっていた。
まだ付き合う前。隆はあたしに恋人がいたことを承知していた。それが高嶺さんだったということも知っている。
あくまでも同期として、友人として、隆はあたしの相談に乗り、支えてくれていた。
でも言葉や行動の端々にあたしを異性として好きでいてくれる気持ちはあふれていて。そんな隆の気持ちにあたしは応えた。
隆を選んだことを後悔はしていない。きっとまた過去に戻ったとしてもあたしは同じように隆を選ぶ。
でも今あたしの頭にこびりついてはなれないのは高嶺さんと過ごした日々だ。
あたしは思いつめた顔でもしていたのだろうか?
見つめる隆の瞳はかつてあたしを慰めてくれていたときと同じ目だ。
自分の気持ちを抑えて、一歩引いてあたしのことを心配してくれていたあのときのまま。
「ええとね。隆。本当に大丈夫だから」
自分で言うのもなんだけど、あのころは本当に不安定で、当時隆がかなり心配していたことも無理はないと自分でもわかっている。
でも今はそんなことはない。大丈夫。あのころのあたしとは違う。
隆はぼんやりとあたしの顔を見つめている。
「隆?」
訝しげに問うあたしの声に、今度は隆が我にかえる番だった。
隆は何かを言いかけ、寸前で言葉を呑むという動作を繰り返したあと、ようやくしっかりとあたしを見つめて口を開いた。
いつもと違う態度にあたしも戸惑ったが、隆が話すまであたしはじっと待っていた。
「長谷川に怒られた」
その答えはあたしの予想外の答えで、ちょっときょとんとしてしまっていた。
「え?」
一度口を開いてしまえば実に簡単といわんばかりに、そのあとの隆の口は滑らかだった。
「長谷川がさ、今日電話をしてきた。あんたはアフターフォローが足りない、手中に収めてしまえばあとは安心だと思っているとしたら莫迦だと」
今日、エレベーターの前まで見送り、最後まであたしを励ましてくれていた長谷川さんの姿が思い浮かぶ。
あたしと隆、そして長谷川さんは同期だ。とはいえ長谷川さんは大卒、あたしは短大卒だから年齢的には長谷川さんのほうがお姉さんだ。
でも年齢のせいだけでなく、あの気風のよさからあたしは長谷川さんによく相談していた。
「あたし、今日、長谷川さんのところにいったから」
泣きそうな顔をしていたはずだ。あの場で涙がこぼれなかったのは奇跡としか言いようがない。
隆は違うといったふうに首を振った。
「俺の根本的な性格についてあいつは怒ってきたんだよ。プライベートでも仕事でも、どちらにも俺の詰めの甘さが出ている、だから営業成績が可もなく不可もなくという状態なんだって。そこまで言われた」
そこで茶化して笑う隆につられてあたしまで笑う。
隆はこういった雰囲気の転換がうまい。
今だってほら、先ほどまでの深刻で救いようのない張り詰めた空気はどこかに去ってしまった。
あたしは何度こういった隆の気遣いに、隆の笑みに救われてきたのだろう。
笑って和やかな雰囲気のまま、隆は続けた。
「お前、高嶺さんと別れたこと、後悔している?」
それはまるで『ちょっとコンビニに行ってくる』と告げるくらいに気軽な調子。
でもその言葉が持っている重みはよくわかっている。
隆がその質問をすることはとても勇気がいることだったはずだ。だってあたしは今、隆と付き合っているんだから。そこであたしが後悔しているなんて言ってしまったら、隆だっていい気分はしない。
それどころか二人の関係に亀裂が入ることだって考えられる。
だから真剣に答えた。
「別れたことは、後悔していない。今にして思えばあのときの感情は好きというより憧れのほうが強かったと断言できる」
それは隆に対するリップサービスでもなんでもなく、心底そう思えることだった。
あの時、あたしはそのことに全く気がついていなかった。
それよりももっとほかのことに気がとられていて、自分の気持ちを見失っていたから。
「でも、そのことに気がついていなかった。あのころのあたしは、高嶺さんの一番でないことにばかり、気持ちが捕らわれていたから」
こんなことを口に出したのは初めてだった。
そのことに真正面から向き合うことは辛いことだったし、だからこそあえて考えることさえもしなかった。
でも当時のあたしは高嶺さんの一番になれないことに苦悩して苛立っていた。
時々爆発する苛立ちがあたしをどんどん嫌な女にしていくような気がしていたものだ。
「まぁ、あの人、恐ろしく仕事のできる人だったから量も半端じゃなかったけどさ」
そうして隆もいつもの答えを返してくる。
あたしはいつもここで曖昧に笑って、話を濁していた。だから隆も高嶺さんの一番は仕事だと思っているはず。あたしは仕事でいっぱいいっぱいの高嶺さんに耐えられなかったんだと、そう思われているのだろう。
でもいつまでもそれじゃ駄目。
真実を隠していては、駄目。
あたしはいつものように曖昧にごまかすつもりはなかった。
ちょっと深呼吸して、それからゆっくりと、まるで何か重大な秘密を告白するかのように口を開く。
「仕事じゃ、ないの」
あたしの言葉に隆はきょとんとしている。
「仕事のせいで高嶺さんと別れたわけじゃないの」
高嶺さんは大切にしてくれた。気も使ってくれたし、優しかった。仕事が忙しくても、その気持ちや心遣いはあたしの心に充分浸透していたし、嬉しかった。
仕事が理由だったら、まだ気持ちは楽だったかもしれない。
「でも一番じゃないからって」
一番じゃなかった。それは確かだ。
「はっきりと聞いたことはないの。答えを聞くのがとても恐かったから。でも高嶺さんの心を占めていたのは仕事でもあたしでもないわ。もっと、別の何か」
あたしの告白に隆は唖然としていた。
高嶺さんと別れを決心したときも、隆と付き合うことにしたときも、全くそんなことをいっていなかったし。
「じゃあ、何? 高嶺さんには別の女が」
「それも、違うと思う」
少なくともあたしと付き合っているときに女性の影は全くなかった。そもそも高嶺さんの性格からして、そんなことはしない。いつでも真っ直ぐで、誠実で、清廉潔白な人だった。二股なんて絶対にしないと断言できる。
「何かはわからないけど、高嶺さんは何かを抱えていた。多分、高嶺さんの手に余るほどの何か。もしかしたら本人でさえも気がついていなかったかもしれない。でもあたしは、それに気がついていた」
あの時自分で封をした感情は、思いのほか大きく育ってしまっていたらしい。冷静に話しているつもりなのに、感情がどんどん流れ出してくる。
今でもはっきりと思い出せる。
ときどき。ほんの一瞬。高嶺さんがひどく暗い瞳をしていたこと。
どんなに仕事が忙しくても、辛くても、あんな高嶺さんを見たことはなかった。
救いようのない絶望の真只中であがいているかのように、それでいてその絶望であがくことに恍惚としているかのような。
その一瞬、高嶺さんは全てを忘れていたと思う。仕事も、あたしも、なにもかも。自分でさえも。
それが恐かった。
それが羨ましかった。
それが憎らしかった。
なんにせよ、いつも冷静で、スマートで、とにかくパーフェクトだと思っていた高嶺さんが、自分を忘れるほどに心奪われるものがあるなんて、辛かった。
そのことに気がついていたのはあたしだけだと思う。
自分が一番でないということを突きつけられて、あたしは口惜しかった。
そしてあたしは高嶺さんの『一番』でなかったことだけに気をとられて、高嶺さん自身を見ようとしなかった。
「気がついていたのに。高嶺さんが苦しんでいると気がついていたのに。あたしは何もしなかった」
それどころか、逃げ出した。
別れて、それで終わりにした。
別れたって、いや、別れるときにこそ手を差し伸べるべきだったのかもしれない。
高嶺さんの心に渦巻いているものは何ですか。
そう問いを投げかけるべきだった。
高嶺さんの死を知ってからあたしはずっとそのことを考えている。
激しい、今までに経験したことのないほどの後悔だった。別れたことじゃなく、手を差し伸べなかった自分が情けなくて、そして愚かだと悔んだ。
「そうしていれば、高嶺さんの死を止められたかもしれない」
もしあたしが声をかけるなり、行動を起こすなりしていたら。高嶺さんは生きていたかもしれない。
高ぶる感情を落ち着けるように言葉を選ぶけど、なかなかうまくいかない。
隆はそんなあたしを見つめている。
そしてゆっくりとあたしの頬に手を伸ばして何かを拭った。
拭った指先がぬれていることにようやく気がつく。
冷静に話しているつもりが、涙腺はいまいちいうことをきいてくれなかったらしい。
知らない間に泣いていた。
「長谷川は、自殺じゃないと思っているよ」
長谷川さんは確固たる信念を持ってそれを主張する。
それが長谷川さんの優しさだとあたしは知っている。
そうすることで、高嶺さんが自殺ではなかったかと、そしてその自殺をとめることができたはずではなかったかと、そう考えるすべての人に救いを与える。
でもあたしはその結論に対してイエスとは言い切れなかった。高嶺さんのあの眼を見てしまっているから。
あたしは反射的に首をふっていた。
目を見開いたままで、あたしは否定する。
「俺も、自殺なんかじゃないと思っている。たとえ死を選んだとしても、高嶺さんは身辺整理をきちんとやっていく人だろ?」
長谷川さんと同じことをつぶやく隆に、あたしはお間抜けな質問をする。
「それ、長谷川さんからの受け売り?」
「いや。違うけど。何? 長谷川もそんなこと言っていた?」
あたしは頷く。
「ほらな。皆そう思っているよ」
あたしだって、自殺なんかであって欲しくない。そもそも高嶺さんがもういないという事実はあまりに辛い。でもさらに自殺だったなんて、イヤだ。
そんな思いが表情に出ていたのだろう。
「大体お前、いっていたじゃないか。『高嶺さん自身が、自分が苦しんでいることに気がついていない』って」
いったけど。
もしかしたら死の直前、霧が晴れるように全てがクリアになったのかもしれない。自分が悩んでいたこと。何を悩んでいたのか。自分を苦しめるものが何なのか。
「でも」
「高嶺さんは自殺じゃない」
はっきりと断言されるとさすがにそれ以上の言葉を続けられなくなる。
「どうしてそんなに断言できるの」
隆はあまり高嶺さんと接点はなかった。営業であるということだけが共通項で、部署も仕事の内容も全く異なっていたから。
その隆の絶対的な否定って何を根拠に出てくるのだろう。
純粋に気になった。
しかし隆から帰ってきた答えはあまりに簡単なものだった。
「俺がそう思うから」
あまりに短絡的な返事にあたしは呆気に取られていた。
「あの、それって」
どう言葉を続けたらいいのかわからずにいるあたしを引き寄せる。
突然すっぽりと隆の腕の中に包まれて、それにも戸惑った。
温かさが、伝わってくる。
「隆」
突然の行動にわずかに戸惑いながら、それでも居心地のよさを感じながら名前を呼ぶ。
「俺にはもし、とか、かもしれない、とか仮定の話を完全に論破するだけの力はないけどさ。勘だけはしっかりと働くんだよね」
口調は軽いようでいて、実は今までにないくらい真剣な声音であることにあたしは気がついていた。
「だから。俺の勘を信じてお前が安心するまで、こうして真純を抱きしめて、あれは自殺じゃなかったといい続けるよ」
何だか途方もなく力技だと思う。しかも隆はそれを本気で実行する気だ。
あきれた。
でも何だか温かい。
「どんなにあたしが理路整然と説明しても、隆は自分の勘を主張するの?」
少々意地の悪い質問かと思ったけど、それでもこともなげに隆は返答する。
「当然。俺の勘は何にも負けない」
隆の腕に力が込められた。
案に隆は説得しているのだ。
どんなに高嶺さんの心のうちを追求しようが、高嶺さんは戻ってこない。全てを明らかにしたとしても、それ自体高嶺さんが望んだことかどうかなんて今となってはわからないのだ。
自身でさえ気づかなかった高嶺さんの心のうちを、今更暴露して何になるというのだろう。
それは一見して、逃げのようにも思えるかもしれない。
でも知らなくてもいいこともあるのだと、そういわれている気がした。全てをはっきりさせることが正しいわけじゃない。
でも。それでいいのかどうか、あたしにも判断はつかなかった。
あたしの戸惑いを隆はわかっている。だからこんな力技にでてくるのだ。
そんなふうにぐるぐる考え込んでいるあたしの背中を隆はゆっくりとさすった。
「言わせてもらうけど、そもそも真純が理路整然と説明することなんてはっきり言って無理だと思う」
そんなふうに軽くいってくれる隆の言葉に苦笑した。
いつか、このときの自分を振り返って懐かしむことができるのだろうか?
それも考え付かないけど。
でも。とにかく今はこのぬくもりを大切にしたい。
ハザードの規則正しい音をバックにあたしは隆の背中を抱きしめ返した。
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