4.目撃者、川上省吾の抑圧
予想通り鍵は付け替えられていた。
エレベーターで上がるのはさすがに気がひけて階段で向かったそこは、黄色のテープが貼られて鍵も頑丈なものに取り替えられていた。
念のためいつもしていたように鍵をちょっと浮かせ、思い切り引っ張ってみる。
鍵はびくともしなかった。
確かな、固い感触を握り締め、ゆっくりと手を離した。
俺は諦めて今来た階段を下りる。
また一つ、自分の場所を失った気がした。
イライラしながら一つ下のフロアにいき、ブラックの缶コーヒーを買った。
一つ下のフロアは、ここの持ちビル会社の会議室として使われている。それ以外は空いている。
会議がなければこのフロアはいたって静かなものだ。
大抵はあの屋上で一休み。
それが俺の休憩時間だった。
このフロアを使うのは雨の日か、それとも屋上に向かっていったら洒落にならないことになる、そう自覚しているときだけ。
俺にとっては屋上での一時はある種、神聖な場所でもあったのに。
もうあの場所にはいけない。
それは逃げ場の一つを失ったような感覚で、ひどく辛く感じる。
苛立ちは増し、俺は熱い缶コーヒーを勢い飲み込んでむせ返った。
フロア内はとても静か。コーヒーは熱い。舌もやけどした。
そして。
時々どうしようもなく死にたくなるときがある。
このことは誰にも言っていない。言うような相手がいないからなのか、言ったところで相手がドン引きするだけだからなのか、その辺はなんとも表現が難しいところだ。
とにかく心ひそかに死にたくなるときがある。
原因が何かと問われれば、それも答えようがない。仕事で行き詰っているわけでもない、プライベートで問題を抱えているわけでもない。ただ、生きていることがひどく面倒になることがある。
そんな感覚を持っているのは俺だけなのだろうか?
どうして皆平気な顔をして毎日毎日会社に来ることができるのだろう。生きていけるのだろう。
俺だけが人と違うのか?
俺だけが死にたがるのか?
他の人に確かめてみたい気もするが、本能がそれはやめておけ、と訴えかけるので俺は黙っている。
そのまま周囲に同調し、右にならって足並みをそろえて生きている。
それでも。ぎりぎりの線で抑えているせいか、死の誘惑は突然大きな波となって俺を襲うことがある。
それは本当に突然、前触れもなく起きてくる。
たとえば朝起きたときに。仕事が一段落したときに。食事を終えてふと窓の外を見たときに。本当にそんな些細なことで俺は死を意識してしまう。
その後の行動は大体が決まっている。
手近な刃物を眺めるか、走ってくる車のスピードを換算するか、ビルの屋上へ向かうか。その中でもビルの屋上って選択は一番多かった気がする。
死ぬ手段を考えて、その中でも一番面倒そうな手段だと俺の中では位置づけられているからだ。
身近な刃物はすぐに手に入る。走る車はすぐさま目に入る。だが、ビルの屋上はそこまでわざわざ足を運び、ドアを開け、空を見上げ、ビルの端まで行き、少々高いフェンスを乗り越えなければならない。
その過程が俺をこの世にとどめる要素であり、猶予だった。
大抵は足を運んだ時点でその気も失せて、再び今の行程を逆で戻っていくことになる。
要は死にたいと思いながら、俺は生きることを選んでいるというわけだ。
そう考えるとますます自分がわからなくなっていく。
いったい俺は死にたいのか。生きたいのか。どちらでもいいと思っているのか。
そんな堂々巡りをずっとやっている気がする。
莫迦か俺は。
たった一つ状況が変わっただけでこれだ。
こんなに動揺し、コントロールできなくなる。
でもどうしようもない。そう。どうにもならないんだ。
少しやけどをした舌を空気にさらしながら、自販機の前にある椅子に腰を下ろした。
屋上の代わりには役不足な場所だった。見上げたそこは青い空ではなくくすんだクリーム色の天井で、ひどく違和感がある。
時々どうしようもなく死にたくなるときがある。
そんな俺の最大の緩和剤はなくなってしまった。
全てはあの男のせいだ。
目をゆっくりと閉じる。
あの男と会った情景、最後に見た後姿、そしてアスファルトに叩きつけられる瞬間。
それらが全て思い出される。
あの男の死は、俺に複雑な感情をもたらしていた。
あの男と会った日は、数日間続いていた秋の長雨が嘘のような快晴だった。
珍しく見事な空が広がっていた。高く青い空はまさに吸い込まれるような、という表現が似合っていた。
大きく深呼吸すると、秋特有の冷えた空気が肺に入り込む。
とても、気持ちがよかった。
あまりにも清々しくて、それゆえに今回ばかりは実際に飛んでしまおうか、いや飛んでしまいたい、そう思わせるほどの空だった。
そこは完全に俺一人の、完璧な世界だった。
なのに、完璧な空間は一瞬にして崩される。
背後から聞きなれた金属音が響く。
それは錆びついた屋上のドアが開くときの独特の音だった。
え。
突然の静寂を壊された俺は、反射的に身体を起こした。
煙草を取り出しながらドアを開けた男を確認し、一瞬にして固まる。
それは相手も同じことで、俺を確認するや、きょとんとした顔をしていた。
首にぶら下がった社員証は、ここの持ちビル会社の社員だと証明していた。オフィススペースを借りているうちの中小企業とは異なる、大手企業。
最初に社員証に目が行き、次に男の姿に目をやった。
男はその社員証に負けないくらい、自信にあふれているように見えた。よれよれのスーツを着ている俺とは違い、ぱりっとした、えらく趣味のいいスーツに身を包み、意志の強そうな目を真っ直ぐに俺に向けてきた。
最初は俺の存在に驚いた様子だったが、次の瞬間には鮮やかに笑ってきた。
「どうも」
いかにもといった営業スマイルにつられて頭を下げる。
男は悠然とタバコに火をつけ、実に優雅に煙を吸い込み、ゆっくり吐き出したあと、口を開いた。
「あなたも煙草休憩ですか?」
堂々とした佇まいに俺はなんだか落ち着かない気持ちにさせられていた。
「ええまぁ」
歯切れの悪い俺に対して男はにっこりと笑い、ちょっとだけのぞき込んできた。
「昨今は禁煙が主流ですからね」
その言葉にも曖昧にうなずく。
しかし和やかな雰囲気はそこまでで、幾分トーンを下げた声色で俺へと言葉を投げつけてきた。
「それにしては煙草をお持ちじゃない。──そもそもみたところ、お吸いになるわけじゃなさそうだ」
そこでようやく気が付いた。
俺、何ももっていない。
「まさか変なこと考えていないですよね?」
あまりにストレートで、あまりに不躾な言葉。けれどそこには嫌味はなく、本当に爽やかに問いかけられた、そんな状態だった。
変なことってなんですか?
そう聞き返してもよかったかもしれない。
しかし俺はとっさに反応することができなかった。俺の心の奥底にある暗い澱みをじかに指摘されたようで、目をそらすだけで精一杯だったからだ。
俺の一瞬の表情の中に、死にたいという願望を読み取ったのかもしれない。
「いや」
俺は口ごもり、視線をそらして足早に男の脇をすり抜けた。
ドアを閉める瞬間、何気に男のほうへと振り向いた。
男は相変わらずの営業スマイルで俺を見つめていた。あまりに完璧なその笑みは俺の脳裏にしっかりと刻み込まれていた。
見透かしている。
そしてそれだけじゃない。あの男はここを自分のテリトリーとし、他人が入ってくることを『邪魔だ』と思っている。
それがあの最後に見た笑みに凝縮されていた。笑いながら、目にはっきりと敵愾心をこめていた。
序列に負けた犬のようにやたらと惨めな気持ちだった。
もうあの場所に行くことはできない。
あの男と会うのはごめんだった。自分の奥底にある澱みを一瞬にして見透かすような男となど、二度と会いたくない。
俺は唇をかみ締めながら自分のデスクへと戻り、淡々と外回りの準備をした。
どうせ今事務処理をしようとしてもミスするのがオチだ。
新しく入ってきた事務員が怪訝そうな顔をしていたけれど、そんなことは気にならなかった。
俺は不機嫌さを隠そうともせず、小声で外回りに出る旨を告げ、足早に事務所を後にした。
その日に限って正面エントランスから出なかった。表から堂々と外へ出て行くという気分になれなかった。
なんとなく通用口のほうへ回り、ビルとビルの間の、路地といった風情の道を歩いてようやく気持ちが落ち着いてきた。
予想以上にあの男とのやりとりが自分を消耗させていることに気がついた。
いや。もしかしたらあいつに感謝したほうがいいかもしれない。
これだけのすばらしい、青い空。もしかしたらその高く澄み切った青い空に負けて、俺はフェンスを乗り越えていたかもしれない。
ふとそんなことを思って、そしてそのまま先ほど屋上で見た空を確認するかのように俺は視線を上へと向けた。
予感めいたものがあったのか。
それとも第六感といったところだろうか。
俺が視線を上げてすぐ。
ビルとビルの間に鮮やかに広がる青い空を、何かが遮った。
それは本当に一瞬のことで、俺は見上げた視線をそのまま動かすことはなかった。
目の前をなにか、とおった。
小さな、なにか。
それがたたきつけられて壊れる音。
音の方向へと目を向けると、そこには無惨に散らばった、──スマホ?
なんでスマホが。
そう思っていた矢先。
今度は鈍い衝撃音。
はじめそれが何なのかわからなかった。
ただ、なんとなく見覚えのある布、が。
俺は身動きもせず、前方一,二メートルほどのところでうずくまっているそれを見つめていた。
なんだろう。
どこで見た?
ダークグレーの仕立てのよさそうな生地。
俺?
いや。俺のはずがないだろう。
俺はここにいる。
ここにいるけど。
目の前に横たわるのは、誰だ?
遠くで女性の金切り声がこだましていたが、まるで水の中で音を聞いているかのようにひどく遠くに感じていた。
うるさいな。思考が、まとまらないじゃないか。
俺は目の前の塊に近づいていった。
女の声に誘われるかのように人だかりができはじめていたそこに数歩近づき、そして見る。
ダークグレーの見覚えのあるスーツは、背中の部分しか見えなかった。
一見したら何かわからないようなそれは、まるで搾り出すかのようにアスファルトにどす黒い染みを作り出していく。
赤じゃない。黒い染み。
それはまさにスーツから搾り出した液体のように、スーツの色と同じ色をしていた。
近くに寄れば寄るほど、それが何なのか認識することができず、俺は困惑していた。
しかし外見的にはまったくの冷静さを装い、皆が右往左往する姿を黙って見つめていた。
そこにいるのは、俺じゃない。
俺じゃない。
横たわるのは、あの男だ。
飛び降りたのは。
俺はそこでようやくゆっくりと視線を上へと向けた。
俺の足元で繰り広げられている喧騒なんてまったく我関せずといった様子で空は澄んでいた。
俺はどのくらいぼんやり空を見上げていたのだろう。
「君! 怪我はないか」
腕をつかまれて、そう声をかけられて俺はゆっくりと地上へと意識をむけた。
救急隊員の姿を目にしてこいつは何をいっているのだろうと思った。
俺が飛び降りたんじゃないのに。
俺が横たわっているわけじゃないのに。
俺じゃない。
だって俺はここにいるから。
そんなふうに思考がめぐっているさなか、救急隊員は俺の身体を簡単に調べていた。
俺はここにいるのに。
何もそんなふうに確認しなくていいのに。
そんなことを思いながら救急隊員のするままに任せて、再度空に目を向けていた。
あとで知ったことだが、ああいう転落死の場合、下にいた人間が巻き込まれることが時々あるらしい。上からの衝撃で打撲、骨折ですめばいいほうだが、運悪く死亡してしまうこともあると聞いた。
どうやら救急隊員は遺体のすぐそばで放心している俺を見て、巻き込まれたのではと思ったらしい。
我に返って大丈夫だと説明し、ようやく解放された。
俺とほぼ同じ距離で落下の瞬間を目撃していたらしい女性は、あまりのショックでそのまま救急車で運ばれたらしいことも後で知った。
意外にも現場をあとにした俺は冷静だった。
事務所に電話をして、事故に巻き込まれて自分はなんともなかったが、スーツが汚れてしまったのでこのまま早退したい旨を告げ、さっさと家に帰った。
あの時きていたスーツはすぐに捨てた。
目を凝らせばほんの少しだが血が飛び散っているのを確認できた。
それ以上、あの男が死んだという生々しい痕跡を確認する気にはなれなかった。
すばやくゴミ袋にまとめ、燃えるごみの日に出した。
翌日には社内はあの事故の話題でもちきりだった。
特に間近でそれを目撃した俺に対する好奇の目は暫く続いていた。話題を振りたいと思っていることもわかっていたが、俺はその件に関して一切触れようとしなかった。
目撃者として話を聞きたいと刑事から連絡があったときにも、会社から遠く離れた場所を指定した。
幸いなことにうちの社内にそれ以上の追求をするほどの不躾な人間はいなかったのか、それとも俺の特異な経験に同情してか、はたまたすぐさま興味を失ったのか、いずれにせよその話をすることはなかった。
だが話をしなかったからといって俺がまったく無関心だったわけではない。
納得がいかないことだらけだったし、よくわからない負の感情が渦巻いていたことも確かだ。
一番納得いかなかったのは、あの場で俺を追い立てた男には、まったく死の影がなかったことだった。
どうして死んだのか。
噂で聞き漏れてくる話では、遺書などはなかったという。靴が揃えられていたわけでもない。自殺の原因も思いつかない。だとしたら事故か何かの線もあるんじゃないだろうか。
周囲の噂はそんなところで止まっていた。
容易に入ってこない情報に俺は苛立ちを見せていた。
あの男の死に振り回されたくないと思うのに、ふとしたときにあの男はなぜ死んだのか、そのことばかりを考えている自分がいる。
俺のちょっとした時間でさえ、その思考に支配されているようだった。
そしてその元凶であるあの男が、とても憎く思えてならなかった。
あの場所で、たった一度しかあったことのない男に、どうしてこれほどの強烈な感情を持ってしまうのかわからないくらいに、憎かった。
いや。憎いというにもちょっと語弊がある気がする。
結果的に自分の居場所を奪ったから。そんな言葉では片付けられない。
死の気配など一切させていなかったあの男が、いとも簡単に死んでみせたから? 煩わしいこの喧騒からさっさと脱却してしまったから?
俺は、あの男が羨ましいのかもしれない。
そして自分のことが情けないのかもしれない。
死にたい死にたいと思いながら、結局は死ねない。死なない。死を選ばない。
それは俺にとって現実味を帯びない願望だからなのか。
あの男と話をすればよかったと後悔する。
俺ならあの男の死を止められたなんておこがましいことを思っているわけじゃない。そもそも自殺か事故かさえもわからないらしいのに、とめられるも何もあったもんじゃない。
男がどんな人物で、何を考え、どうしたかったのかなんてもうわからない。
俺がこんなに興味を持つこと自体、俺が死のうと思っていた場所で死んだ男だから、という理由だけなのかもしれない。
なにもかも、もうはっきりとはしない。
だからせめてと思い、俺は現場に立ち尽くす。
朝のラッシュ時。
アスファルトに置かれた花束の前で俺は必ず足を止める。
うっすらと残っている痕に目を向け、無残に横たわる男の姿を想像する。
なぁ、死の瞬間、お前には何が見えた?
自ら死を選んだとしたら、死ぬことに関して歓喜したのだろうか。
事故だとしたら、ドジった自分を悔やんだだろうか。
いずれにしろ、最後に何を見たのか。
地面に向けていた視線をゆっくりと上へと向ける。
男が最後に見たかもしれない情景を見たくて。そうすれば、少しでも死ぬ直前の男の心情が理解できるかもしれないという莫迦な想像をして。
でもそこにあるのはビルの隙間に見える都会の空だけだ。
あのときに見たほどの青さはない。少々くすんだ空が目に映る。
落ちるときにしろ、最期のときにしろ、あの男もあの青い空を見たはずだ。
吸い込まれるような青を。こうして目を閉じていてもはっきりと思いだせる青空だった。
思い浮かぶのはそれだけで、男の気持ちなんてこれっぽっちもわかりはしない。
なのに俺はあきもせず毎日足を止め、地面に目を落とし、それから空を眺める。
それが俺に科せられた儀式のように。
「川上さん?」
突然声をかけられて、我に返る。
会社の事務員が俺を覗き込んでいた。
俺はというと目をつぶったまま、でも顔だけは天井を向けたまま座り込んでいた。
さぞかしおかしなヤツと思われたに違いない。
「あ、ごめん」
慌てて立ち上がり、何とか体裁と取り繕うとするものの、顔がどんどん赤くなっていくのがわかる。
しかしそんな俺に不審な視線を向けるわけでもなく、淡々と要件を告げる。
「さっきから課長が捜していらっしゃいます。急いで戻ってもらっていいですか?」
あー。課長が騒ぎ出すと尋常じゃないから。
きっとこの子も辟易して俺を捜しにきたんだろう。
俺は曖昧に笑う。
こうして俺は現実の真只中に戻っていくことになる。
そしてまた思考は堂々巡りをする。
「あの、川上さん」
俺の後に続き、半歩後ろでエレベーターを待っていた事務員が口を開く。
何事かと思って振り向く俺とばっちり視線が合い、彼女はついと目を伏せる。
二カ月前に寿退社をした古参の事務員に代わってやってきたのは、まだ年若い女の子だった。
今時にしては珍しく地味な子だった。それは性格にも現れているようで、大人しくてめったなことでは口を開かない。考えてみれば、この子と話したことなんて本当に数える程度だ。当然ながら仕事以外のことで口を利くことはない。
だから続けて発せられた言葉に俺はひどく戸惑った。
「どうして毎日あの場所で立ち止まるんです?」
簡素だが、的確な言葉に俺は顔が強張るのを感じた。
詳しく言わなくても彼女が何を言おうとしているのかはわかる。
俺は朝、必ずあの場所に立ち止まる。
俺が最後にあの男を目撃した場所。
生きているものから死んでいるものへと変化したところ。
毎朝その場を無視してさっさと通り過ぎようと努力する。でもできない。
どうしてもあの場所で足を止めてしまうのだ。
ほとんど消えかけた激突の痕と、ビルと、ビルの隙間に見える空を見上げる。早く忘れたいと願っているのに、それができない。何故見上げるのか、自分自身も説明ができない。
だから何故と問われても返答に困った。
「えーっと、あー、村……」
この子、名前はなんといったっけ?
それすら思い浮かばず、戸惑っていると、どうやら彼女は俺が名前を思い出せないことを察したらしい。
「村川です。村川早苗」
二ヶ月たっても事務員の名前を度忘れしている俺に対して、特段怒りを見せるわけでもなく、しっかりと名前を告げてきた。
「あ、ごめんね。俺、人の名前を覚えるのがすごく苦手で」
俺は改めて、背筋を伸ばして村川さんを見る。
「村川さん、どうしてそれ、知っているの?」
俺の出勤は早い。そして帰りは遅い。うちの会社で一番に出てくるのは俺だし、通常の出勤時間から見ても一時間は早めに到着している。
「私、オフィスの向かいの喫茶店でコーヒーを飲むのが好きで、早めにきているんです」
コーヒー屋は交差点をはさんだ向かい側に位置している。確かにあの位置からならば目に付くだろう。
俺は曖昧に笑った。
そこにできれば答えたくないという意志を汲み取ったのか、村川さんは早口で続けた。
「すみません。出すぎたことを聞きました」
そこで慌てて完結させようとする村川さんに対して、俺は不快感を覚えた。
そこで中断するくらいならば、はじめから聞かなければいい。
何だかやたらと腹が立ってきた。
今一番触れて欲しくない箇所だったせいかもしれない。それともはっきりしない自分の気持ちに苛立って、八つ当たり気味に村川さんに悪感情を抱いているのかもしれない。
いつもならば適当に受け流すだろうに、俺はあえて意地の悪い返答をした。
「もしかしたら、あの場所に横たわっていたのは自分だったかもしれないから、かな」
多分、村川さんに呼ばれるまでずっとあの男のことを考えていたからだろう。気持ちがやたらとナーバスになっていた。そんな俺にいつもの曖昧な返答をする余裕はなく、それどころか絶対にもらすことのなかった本音がこぼれた。
俺の返答にどう答えるだろうかという、これまた意地の悪い感情もあった。それと同時に湧き上がる罪悪感。
こんなことをいうべきではなかった。仮にも同じ職場で働いている人間に。それでなくても毎日顔を合わせる相手だ。
だから慌てて否定しようとした。
しかしそれより先に彼女は静かに口を開いた。
「じゃあ、今きちんと生きていることを確かめるためにあの場所にいくんですね」
思いも寄らない言葉に俺は目を見張る。
俺が、生きていることを確認するために?
どうして彼女がそんなふうに思ったのか、俺には理解できなかった。俺とは全く接点はないはずなのに、どうしてそんなにわかっているように返答するのか。
いつもの自分ならば腹が立ってもおかしくない状況だった。知ったかぶりをする人間は俺の最も嫌うタイプの人間だった。もっとも、腹が立ったところで表に出すだけの気力はないが。
だがこの子の言葉に不思議と憤りは感じなかった。
何気ない言葉で、感じたまま口にしたようなその言葉はすとんと俺の心に落ちてきた。それどころか、俺がわからなかった俺の気持ちを正確に突いてきた。
否定する要素がなかったのだ。
俺は確かに生きていることを確認するかのように、毎日あの場所で立ち止まり、空を見上げていた。
あの時見た青い空とは異なる都会の空を。
あの男が見たはずの空ではないことを確認するために。
俺は生きている。生きて毎日違う空を見つめている。
「川上さん?」
エレベーターは既に到着しており、村川さんは背後から俺を促していた。
怪訝そうな顔をして俺を促す彼女を始めて真正面から見た。
事務員の顔をまじまじと確認したのはこれが初めてだろう。
なんせ俺は自分の周囲に全く興味がもてなかったから。
自分さえもわからない自分自身の心情を突きつけてきた事務員は、いたって普通の女の子だった。
「ああごめん」
俺は促されるまま、階段ではなく、エレベーターを使って階下へと向かった。
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