3.総務課事務員、渡部香里の感傷

 雨が降ってもその痕が洗い流されることはないらしい。

 二、三の花束が置かれたその場所へと、本当に一瞬だけみんなの視線が流れる。

 おそらくこの辺りに勤めている人間ならば、この間の事件を耳にしているはずだ。

 たとえ正確な現場がわからなくても、ああこのビルで、とついそちらに視線を投げてしまう気持ちもわかる。

 それからなんとなくいたたまれない気持ちに陥り、目をそらす。

 その繰り返しだった。

 当然私も例外ではない。その場所へ視線を移し、逸らす。でも、足を止めることはない。皆と変わらない行動。

 たまに。足を止めて現場を見つめ、天を仰ぐ人もいる。

 でもそんな人は本当に稀だ。

 あの事件から一週間が経つけれど、ついこの間のことのように思える一方で、もうはるか昔のことのようにも思える。

 数日前は黄色のロープが張られ、サイレンを鳴らした救急車が止まり、人だかりも凄まじいものだった。でも今では何事もなかったかのようにいつもの様子を取り戻している。

 信号待ちのため交差点の端で足を止めて、私はそんなことを考えていた。

 距離を置いて見ているそこは、まるでスクリーンの向こう側のことのようで、現実味にかける。

 もともと同じ会社に勤めていたとはいえ、高嶺さんのことはよく知らない。

 それなりに目立つ人だったので、顔ぐらいはチェックしていた。私の好みではなかったけれど、まぁ、一般的にもてるタイプなんだろうなと思う。

 私の所属する総務課は圧倒的に女性が多い。そうなればやっぱり各課のいい男の話になったりもする。

 そんな中で、高嶺さんは有望株の独身男としてたびたび話題に上っていた。

 そんな人の突然の死は少なからず憶測と噂を巻き起こす。

 高嶺さんの死の直後には凄まじい勢いで噂が飛び交った。将来有望な男性の、突然の死。仕事が行き詰まったのか、プライベートで何かあったのか。いろいろな説が飛び交ったが、どれひとつとして確証ある答えはなかった。

 だから一週間以上経った今でも密かに高嶺さんの噂は続いている。

 そのことを考えると溜息が出てしまう。

 ただ自分でもこの溜息の意味するところをはっきりと説明できない辺りがもどかしい。




「ねえ見た?」

「ああ。見た見た。花、まだ置いてあったねぇ」

 本社の女子更衣室は共通になっている。それだけ多くの人間が集まるし、噂話も事欠かない。

 朝の女子更衣室なんて噂話のオンパレードだ。

 私自身も噂話が嫌いなわけじゃないけど、ここのところは先日亡くなった高嶺さんの話で持ちきりだった。

「私怖くて近寄れないんだけどね。痕、まだ残っているんでしょう?」

「あ、私この間ちょっと見た。あれ、暫く消えないよね」

「えー。見たの?」

「あれ片付けたの、誰なの? 業者さん?」

「業者に頼んだって聞いたわよ。結構お金かかったみたい」

「そりゃあの高さからじゃね」

「いくらくらいかかるんだろうね、あれ」

「お葬式、誰かいったの?」

「私は包んでもっていってもらったけど、いった人もいるわよね」

「ああ、私でたけど、やっぱりお棺は閉まったままだったよ」

「そりゃ、やっぱりねぇ。見せられないでしょう?」

「式自体も随分とひっそりしていたしね」

「自殺の場合ってやっぱりひっそりやるんじゃない?」

「っていうか、自殺かどうかわかっていないでしょ?」

「わかっていないも何も、あのフェンスを乗り越えるなんて明確な意志がないとできないじゃないの」

「ねぇちょっとやめてよ。私高嶺さんに憧れていたんだから」

「会社は何やっているのかしら」

 いったい誰が誰に話しかけているのかわからないほどの言葉の洪水が更衣室内を駆け巡る。

 私はその間も、ここから早く出るために着替えを急いでいた。

 興味がないわけじゃない。

 でも亡くなった人の話題をいつまでも持ち出すことに、私は少なからず抵抗があった。

 これは誰が誰と付き合っているとか、不倫しているんじゃないのかとか、そういった域を超えた噂話だ。

 高嶺さんの死の真相が、そういったいつもの噂話と同じ位置づけで語られていることに、気持ち悪さを感じて仕方がないのだ。

「ねぇ、渡部さんはどう思う?」

 ここから逃れようと思った雰囲気が読み取られたのか、着替えが終わると同時に声をかけられた。

 しかも声をかけてきたのは噂好きの北川さんだ。

「え、どうって」

 私は返答に戸惑い、目を泳がせた。

「だから、高嶺さんのこと。なんだか随分厳しく調査が入ったって言うじゃない? そういうのって耳に入っていないの?」

 こういうときに総務課という部署は困る。

 総務というだけに他の課とまんべんなくそれなりの付き合いがあるものだから、事情通と思っている人は多い。この期待に満ちた目を裏切るのは結構勇気がいるものだ。

「いえ、特にこれといってはないですけど」

 語尾が小さくなりがちなのは、周囲が聞き耳を立てていることに気がついたからだ。

「えー。だって総務じゃない。いろいろと手続きとかあるんでしょ? そのときにこう、なにか情報が入ってこないの?」

「私たちは書類を流すだけだし、それに私は機器管理が担当ですから」

 もっとも本当に情報が入っていたとしてもここで大々的に発表するわけがない。

 当たり障りなくかわした私のことを気にするわけでもなく、北川さんはあっさり引いた。

 珍しい。

 いつもならばもっと喰らいついてくるのに。

 しかしそれとは別に北川さんはもったいぶったように口を開いた。

「そっかー。あの噂、本当かどうか確かめたかったんだけど」

 その言葉に私はわずかに反応してしまった。

「噂?」

 噂もいっぱいあるが、どうもこの北川さんの表情から察するに、皆が思いもしない噂を掴んでいるらしきことは予想がつく。

 関わらないほうがいいと頭ではわかっているのだけど、ついつい好奇心のほうが先に立った。

「そう。どうやら高嶺さん、最近ふられたらしくてそれが原因じゃないかっていう噂」

 それは初耳だった。

 さすがにこの話題には周囲の人間も振り返る。

 輪の中心にいる北川さんはしてやったりといった顔をしている。

「そうなんですか?」

「そういう情報はきていないの?」

「きていません」

 本当に。

「誰が相手かはわからないけど、最近別れたって話はしていたみたいよ」

 その言葉に周囲はいっせいに食いついた。

「うそぉ! 高嶺さんフリーだったの?」

「彼でもふられるんだねー」

「誰? その女性って。社内の人?」

「うわぁ、もったいなー」

「でもさぁ、ふられたくらいで自殺を考えるようなタイプじゃないよ」

 重なる声に私は完全に圧倒されていた。

 なんだか怖い。

 何がと問われれば、正確に答えることはできない。

 でもこんな話をずっと続けていいわけじゃない。

 止めなきゃと思うものの、自分にはその勇気はなく、こうして耳をそばだてていることしかできずにいるのだ。

 せめてこの場から早いところ離れてしまおう。

 そう思っていそいそと準備を進める。

「彼女にふられて、ってのはどうかなぁ。やっぱり自殺したとしたら原因は仕事と考えるのが妥当じゃない?」

「でも一課の人だって何も気がつかなかったんでしょう?」

「考えてみればどうして一課の人も様子がおかしいことに気がつかなかったのかしらねぇ」

 思い思いの言葉が飛び交っていたそのときだった。

「ちょっと!」

 皆を制止するような囁き声が背後で起こった。

 反射的に視線がそちらに流れていく。

 その視線の先には一課の事務員がいた。

 福澤さん。

 ただでさえ色白だというのに、顔面を蒼白にして俯いている姿は痛々しく見えた。そういえばこの数日で随分やつれたようにも見える。

 静寂はあっという間に広がる。

 ここのところ福澤さんは高嶺さんの残務処理で朝早くから出勤していて、この時間には既にデスクについていた。だからみんなの気も緩んでいたのだろう。

 今日に限っているなんて、誰も思わなかった。

 一課は少数精鋭といわんばかりに人数が少ない。その分かかってくる仕事の負担もかなりのものだ。残業、出張の最も多い部署でもある。

 高嶺さんの死が過密な仕事が原因の自殺ではないかとよく噂される原因は、そこにあるのだ。

 そんな激務の営業を支える立場が長谷川さんと福澤さんいうことになる。

 長谷川さんは私と同期だ。新人のころから仕事のできる人間だとみんなの知るところだった。あの事務処理能力の早さ、正確さは彼女の持って生まれた才能と努力の結果であることは明白。だからこそ一課のアシストという激務を一手に引き受けているのだろう。その能力に加えて明るいし、前向きで、滅多のことではへこたれない。

 そんな長谷川さんでさえ先日廊下で会ったとき、疲労の色をはっきりと見せていた。

 だとしたら新人の福澤さんの疲労はもっと深いものだろうと、簡単に想像できる。

 庶務事務という立場上、何度か福澤さんと会話をしたことがある。真面目で笑顔のかわいらしい女性だった。ただ、仕事の説明をしているときにちょっと神経質な面を見せることがあって、あの一課でやっていけるのかな、と心配した覚えがある。

 それでも長谷川さんのサポートが功を奏してか、彼女も徐々に仕事に慣れていったようだった。新人であそこまで仕事を回すことができるようになっていれば上出来だっただろう。

 だが今は彼女の神経質な面が悪い方向に出ているようだった。

 ぴんとした雰囲気が彼女の周りに張り詰めている。ちょっと触れてしまえばすぐさま壊れてしまいそうな、嫌な空気。

 福澤さんがどんな態度に出てくるだろうと、皆が固唾を呑んでいた。いや、どう声をかけていいものか、この場をどう収めればいいのか誰にもわからなかったのだ。

 そんな皆の視線を全身に受けて、福澤さんは暫く俯いたままだった。

どのくらいそのままでいただろうか。やがて福澤さんはゆっくりと顔を上げた。

 相変わらず顔面は蒼白のままだったけれど、非難めいた視線を向けられて、その場にいた全員が視線をそらした。

 私も例外ではなかった。

 ついとわずかに視線をそらす。

 直視できなかった。

 あの福澤さんがこんな顔をするなんて。

 いつも優しい表情で小さく笑みを返してきた福澤さんとは全く違っているように見えた。

 眼の端に映る福澤さんの視線を確認し、ますます目を合わせることはできなくなっていた。

 せめて憎悪や侮蔑を込めた視線を投げてくれていたら。

 そこにあったのは、諦めと憐れみの感情だった。

 福澤さんは端から端までゆっくりと視線を投げ、再び目を伏せてロッカーを閉めると静かに更衣室をあとにした。

 福澤さんが出て行くと同時、緊張の糸はほぐれる。

「う、わー。すごくびっくりしたぁ」

「何で誰も気がつかなかったわけ?」

「やだなぁ。私これからどんな顔をして福澤さんと会えばいいのよ? 仕事上、福澤さんとは接触度高いんだよね」

 明らかに解放された喜びに包まれていた。

 私も一瞬安堵し、それから安堵した自分を気味悪く思った。

 私、何で笑っているの?

 解放された安堵感って?

 そもそも、緊迫した雰囲気を作った原因は私たちの噂話だ。しかも人の死に関わる無頓着な噂話。

 冷静になり、周囲を見回す。

 ぬるい笑顔を浮かべる皆を見て、ぞっとした。

 何かが、おかしい。

 何かが、麻痺している。

「渡部さん、どうしたの?」

 携帯用の手提げバッグを握り締めて立ち尽くしていた私を、訝しげに北川さんが声をかけてきた。

 その声がきっかけというふうに、私は弾かれたように福澤さんを追いかけていた。

「え、渡部さん」

 背後で北川さんが叫んでいたけれど、それさえも気にならなかった。

 とにかく早く福澤さんに謝らないと。

 それだけが頭の中で巡っていた。

「福澤さん!」

 エレベーター前でひとり、機がつくのを待っていた福澤さんをあらん限りの声で呼び止めた。

 エレベーターが到着するのと、福澤さんが振り向くのと同時だった。

 当初何事かといった顔で振り向いたものの、私の顔を確認するや、先ほど見せた落胆の表情を再度浮かべた。

 胸がちりちりする。

 ぼんやりとしたようにも見える福澤さんの目に直視されて、本当はそらしたい気持ちでいっぱいだった。

 でもそれではいけない。

 ちゃんとしなければ。

 そんな思いがかろうじて私を踏みとどまらせていた。

 エレベーター内にいた人は私たちの間のただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ちょっとだけ待って、乗らないことを確認するや静かにドアを閉めた。

 福澤さんは行ってしまったエレベーターを大して気にすることもなく、相変わらずじっと見つめている。

「何ですか?」

 いつも接している福澤さんとは明らかに異なる、他人行儀な態度に私は戸惑った。

 先ほどの一件が、福澤さんの周辺に強固な壁を作ってしまっている。

 以前はもっと気さくに笑いかけてくれる人だったのに。

 あの日から、高嶺さんの死を告げる報告があってから、福澤さんは笑っていないに違いない。

 見えない壁は謝るという行為をひどくハードルの高いものにしていたけれど、私は勇気を出して彼女と向き合った。

「ごめんね」

 それでもその一言を言うだけで精一杯だった。

 声は震え、手先が冷たくなっている。

 いつもそう。緊張すると先からどんどん冷たくなっていく。

 しかし福澤さんは意外にも、ゆったりとした口調で切り替えしてきた。

「何がですか?」

 だが、福澤さんの周囲をつつむ緊張感はあのときあの更衣室であったままのものだった。

 だから私も意を決して口を開く。

「更衣室でのこと」

 福澤さんはこんなふうに真っ直ぐに謝られると思わなかったらしい。ちょっとだけ困惑した顔をしたけれど、すぐさま投げやりな態度で応対してきた。

「どうして謝るんですか? 渡部さんたちがしていたことは単なる噂話じゃないですか。謝ることなんてないです」

 それは決して嫌味ではなかった。

 本気で言っている。

 疲労困憊で、何を言っても悪いほうにしか取らない、そんな思いつめた雰囲気があった。

 私はそれ以上、どう声をかけていいものか迷った。

 エレベーターを待つ人間は居らず、女子更衣室とリフレッシュルームしかないこのフロアは、妙な静けさがあった。

 どんよりした雰囲気は、どこまでも重くのしかかってくる。

「なんだか嫌味くさい」

 背後からそんな声が聞こえて、私も福澤さんも顔を上げた。

 つぶやいたのは北川さんだった。眉をひそめて明らかに不機嫌そうだった。

 福澤さんに謝らなきゃとそればかり考えていてまったく気がつかなかったけれど、どうやら血相を変えて福澤さんを追ってきた私をこれまた追ってきたという形のようだった。

「そんな遠まわしに責めるくらいなら、はっきり言ってよ。変な噂話をしないでくださいって」

 北川さんは彼女らしい、きっぱりとした物言いで福澤さんに詰め寄った。

 福澤さんはきゅっと唇をかみ締めて俯いた。

 やめて欲しい。

 そんなふうにこれ以上、福澤さん追いつめないで欲しい。

 それに、北川さんはわかっていない。福澤さんは本気で謝ることはないといっているのだ。もう疲れてしまって、自分たちを弁護する気力もない。そんなところだろうか。

「北川さん、やめてよ」

 なんで噂話をしていた私たちのほうが強気にでているのよ。それって本末転倒だ。

 しかし北川さんは聞き入れてくれなかった。

 一度ボルテージの上がった感情はなかなか冷めてくれない。

 それでなくても北川さんは熱くなりやすいタイプだった。

「私たちだって、哀しんでいないわけじゃないわよ。でも何も情報は入ってこないし、何もはっきりしないじゃない。そんな状況がもどかしいのよ。いらいらするのよ。だからああして皆で噂するんじゃない」

 北川さんの感情的な言い訳に、福澤さんはわずかに冷笑を浮かべた。

 その笑いを北川さんは見逃していなかった。

「何かその笑い、むかつく」

 素直すぎる批判に、福澤さんは首を振る。

「まだ、そのほうが高嶺さんも救われるなと思って」

 どういうつもりか、福澤さんはそんなことを言い出してきた。

「一課の他の皆さんはどうか知らないけど。私はもう疲れました」

 そこからはもう、堰を切ったような勢いだった。

「噂話なんてまだいいほうです。だって高嶺さんの死の原因が何だったのかわかってあげようとしているんだから」

 それはどうかと思ったが、福澤さんは真剣にそう思っているようだった。

 声が震えていた。

「私はもう駄目。高嶺さんの死が自殺だなんてこれっぽっちも信じたくない。正直、亡くなったことだってなかったことにしてほしい」

 それって。

「福澤さん、高嶺さんのことを好きだったの?」

 私の発言に今度こそ本当に嘲笑を向けた。

 短絡的な思考だったかとすぐに思いなおし、私は顔を赤らめた。

 思慮の浅さを見透かされた。

 こうして追い詰められているような人間は、感覚がやたらと鋭くなっていることが多い。

「そうだったら、もうちょっと気持ちは楽だったかもしれないですね」

 なんだか福澤さんの話が徐々にずれてきているような気がした。

 視線が定まっていないのは気のせいではないだろう。

「悲しいとか、悔しいとか、そういう気持ちじゃなくて、一番に思うのは」

 福澤さんはちょっとだけ言いよどんでいた。

 しかし溜め込んだものをこれ以上そのままにはしておけないと思ったようだ。

 震える喉に無理やり空気を流し込んで、一斉に言葉を吐き出してきた。

「自殺じゃありませんように、って。そればっかり考えているんです。自殺だったらどうしよう。どうして一緒のフロアで働いていて、気がつかなかったんだろう。それとも自分が何か原因になっているんじゃないか。でもそれだけは嫌。高嶺さんの死の原因の一端が、自分にあるなんて考えたくない。違う。絶対に違う。私のせいじゃない。そんなことを際限なく考え込んでしまう。それが、いやなんです」

 叫びながら、その瞳には涙が溢れていた。滝のように、といった表現が合うほどに、とめどなく流れて落ちる。しかも目を見開いて泣く姿は一種異様でもあった。表情がない分、その涙の量がとてもアンバランスに感じられる。

 一瞬、壊れてしまったんじゃないかと思うほどに彼女が切羽詰っている姿が見えた。

 確かに少なからず、一課のメンバーは福澤さんと同じような感覚を持っているだろう。

 でもこんなふうに福澤さんほど思いつめてはいないはずだ。ここまで福澤さんが切羽詰ってしまったのは福澤さん自身の資質もあるだろうし、それに周囲の、そう、私も含めての無責任な噂話のせいもあるに違いない。

 相手がそこにいないから、席を外しているから、だからおおっぴらに噂話をしていいわけではない。噂話は流れてやがて本人の耳に入る。

 どうしたらいいのか、私は迷っていた。

 謝っても、それがなんだというのだろう。

 謝って、あれは単なる憶測に過ぎなかった、だから本当にそう思っているわけではないといったところで、福澤さんには何の救いにもならない。

 どうしたらいいかわからずに、私も北川さんもただ立ちつくしていた。

 しかし肝心の福澤さんはというと、胸にたまっていた鬱屈を吐き出した爽快さと、吐き出したものの醜悪さに困惑しているかのように、笑みをつくった。。

「一番あさましいのは私だわ」

 自分で話を完結させ、福澤さんはエレベーターのほうへと向き直った。

 それ以降、福澤さんは一切の会話を遮断して、そのまま一課へと向かった。




 福澤さんはその日を最後に長期休暇に入った。

 心身の疲労からということだった。

 会社のカウンセラーが時々電話で話を聞いているようだが、詳しい症状はわからない。

「ねぇねぇ聞いた? 福澤さん入院したんだって?」

「えー。私は自宅待機だって聞いたよ」

「やっぱりあれ? 高嶺さんの一件が絡んでいるわけ?」

「彼女、神経細そうだったしねぇ」

「まさか高嶺さんを振った彼女って福澤さん?」

「うそぉ! 高嶺さんってああいう大人しそうなタイプが好きだったわけ?」

「あら、違うわよ。福澤さんが会社を休むようになった原因って、北川さんと一悶着あったからだって聞いたわよ」

 相変わらずの朝のたわいもない噂話の中で、北川さんと福澤さんをつなげるような会話が聞こえてきて、私はぎょっとした。

 それが先日のエレベーターの前でのやり取りを指しているということはすぐにわかった。

 皆がその噂話に食いついた。

 これで今日の話題の中心は決定したも同然だった。

「一悶着っていつ?」

「うーん。北川さんも結構きついからね」

「渡部さん、一緒にいたんでしょ?」

 え。

 突然話をふられて、私は心底焦った。

 その一言に今度はみんなの視線が私に集まる。

 なんだかこの間、福澤さんの噂話をしたときと同じような状況だった。

「いたって」

「この間、三人でエレベーターの前で何かいろいろとやっていたでしょう? 渡部さん、二人の間に入って止めていたじゃない」

 そんな。

 見ていたのなら、止めてくれればいいのに。

 そう思ってすぐさま、それは無理な話だと思い直した。もし私だったとしても、傍観者としてその場にとどまり、壇上にたつことはない。傍で見ている分にはいい。でも進んで当事者になるだけの勇気は持ち合わせていない。

 それは誰も同じ。

 でも誤解はしっかりと解いておかなければ。

 そうでないと今度は北川さんが噂の的だ。

 北川さんをかばう義理はないけれど、でも、そのままにしていていい気分はしない。

「あれは」

「おはよう」

 私が今まさに説明しようとしたと同時に、当の本人、北川さんが出社してきた。

 途端に水を打ったような静けさが訪れる。

 これも同じだ。

 福澤さんがいると気がついたときの静寂と同じ。

 しかも一種独特の静寂だった。

 緊張感と、突き放したような素っ気なさ、この空間において自分は招かれざる客だと瞬時に察してしまえるような空気。

 そのことに北川さんも気がついたのか、ちょっとだけ眉を寄せた。

 北川さんはどう思っているのだろうか。

 あのとき、福澤さんが感じた緊張感を今度は北川さんが経験している。

 人は、自分だけはそうならないと思っても、不可抗力の末に自分が陥るはずではなかった立場に追い込まれることがある。

 今の北川さん。

 そして今の私。

 ああ福澤さん。

 今ならちょっとはあなたの気持ちが理解できる。

 自殺じゃない。自殺だとしてもその原因は自分にはないと呪文のように唱えていたあなたの気持ちが。

 今、私はあなたと同じようなことを考えている。

 私のせいじゃない。

 私が福澤さんを追いかけて、謝った。それは悪くない。私は正しいことをしたまでだと、自分に言い聞かせる。

 今。こうして北川さんが噂のやりだまに上げられているのは私のせいじゃない。私が福澤さんに関わったからじゃない。

 そして同時に思っている。

 噂にあげられ、興味本位の話題のネタにならずにすんだことをほっとしている。

 福澤さん。

 あなたは自分をあさましいといった。

 私も、今、こんなふうに思っている自分をあさましいと思う。

 もっと勇気をもてたなら。

 もっときちんと否といえたなら。

 そんなふうに自分のことを歯がゆく思い、袋小路に追い込まれていく自分がいる。

 面と向かって自分を責める人はいない。

 でも、噂という形になって追い詰める。責めたてる。

 ねぇ福澤さん。

 私はあさましい自分よりも、噂を発散する集団にまぎれている自分のほうが怖いよ。

 女子更衣室という、ちょっとしたおしゃべりの場での会話は、個なんて存在しない。だから本心がさらけ出される。

 不倫の噂、社内恋愛の噂、仕事の不正、セクハラ。そして人の死。

 そこにあるのはリアルなワイドショーだ。テレビごしのワイドショーとは感覚が断然異なる。

 好奇心は尚更かき立てられ、集団での会話はオブラートに包まれることもない。ストレートに負の感情を吐き出していく。

 第三者でいれば、こんな面白いショーはないとどこかで思っていないだろうか。

 そちらのほうが、怖い。

 悪意の中にいることにも気がつかず、無意識に人を傷つける技を学んでいくなんて。

 そんなのは、いやよ。

 だったら、あさましい自分を自覚して付き合っていくほうを選ぶ。

 緊迫した雰囲気を解いたのは、私だった。

 ただし。あのときの福澤さんのように黙って更衣室をあとにするなんてことはしなかった。

 私は先ほど私に話を振った社員を真っ直ぐに見た。

 あのときの福澤さんのように私は喉を震わせて、それでもはっきりと言い切った。

「あれは。言い争っていたんじゃないよ。無責任に噂をたててしまってごめんなさいって、そういっていたの」

 最後の、ちょっとそれこそ『嫌味くさい』言葉を耳にしたとき、ちょっとだけみんなの目が泳いだことを見逃しはしなかった。

「おはよう北川さん。じゃ、私は先に行ってますね」

 そういうと、更衣室をあとにした。

 私がああはっきりいっても、結局みんなまた同じことを繰り返すのだろう。

 今頃は私の噂話で盛り上がっているかもしれない。

 もしかしたら福澤さんを追い込んだのは私だっていわれているかも。

 そう考えるとなんだか心の中に不安が広がっていくけれど、でも、もういい。

 そういう形を選択したのは私だ。

 そういったら福澤さんはなんというだろう。

 なんだかとても福澤さんの意見が聞きたくなった。

 あ。でもそうしたらまた噂になっちゃうか。

 それでも、福澤さんと話をしたい。きちんと。今自分が思っていること。福澤さんにきちんと伝えたい。

 そんな考えながら、私はしっかりとした足取りでフロアに向かった。


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