2.課長、野田和義の苦悩
正直言うと、もう疲れていた。
いつものように鍵を開け、習慣のように『ただいま』と言いそうになってふと気がついた。
そうだ。美耶子たちは実家に戻っていたんだ。
もともと帰りも遅く、たとえ『ただいま』などといっても、返事があることなんてまれだった。
大きく溜息をついてネクタイを緩める。
会社ではネクタイを緩めるようなマネはしない。服装の緩みはそのまま気持ちの緩みにつながる。特にネクタイなどはその傾向が著しい。
会社で気を抜くなんて言語道断だった。
そんな俺をまるでロボットのようだと部下たちが噂していることも知っている。
先頭きってそう言っていたのが今はもういない高嶺だった。
部下たちのそんな言葉も気にならなかった。
それは高嶺のあっけらかんとした調子によるものだったかもしれないが、俺自身がそんな噂をどうでもいいと思う人間だったからだ。
上司が陰口を叩かれるのはある程度当然のことだ。それで皆のストレスが発散され、仕事が円滑に回るなら構わなかった。
俺はソファに身体を沈める。
今日はいつにもまして静けさが身に沁みる。そういえばいつもは疲れて帰ってきて、すぐさま眠りについてしまっていたから、この部屋の様子なんて気に留めたこともなかった。
アシスタントの長谷川さんを帰らせるため、自分も早くに会社からあがってしまったことを心底後悔した。
帰ってくるには早すぎた。
かつて自分の帰りを待っていた妻子の姿が思い起こされる。
遅い時間はともかく、九時前後までは娘もそろって起きて俺を待っていた。
あの頃とは大違いだ。
音がない、人気がない。それだけでこんなに家というものは温度を失ってしまうものなのかと驚いてしまう。
美耶子と茉里花がこの家を出てから半年になる。
来年小学校にあがる茉里花のためマンションへと戻ることにしたのだ。
そのまま俺自身もこの都内の社宅を引き上げて、首都圏郊外に買ったマンションへ戻るという選択もあったかもしれない。都内から新幹線で一時間のベッドタウンということもあり、決して通えない距離ではなかったからだ。
でも営業部の課長に配属されていた俺としては、新幹線で一時間の通勤時間に躊躇した。
せめて仕事が落ち着くまでこのまま社宅で我慢して欲しいと俺は言ったが、美耶子はすっかり諦めたかのような、悟りきった顔をして答えた。
「本当に。あなたって家族より仕事第一よね」
そんな最近のドラマでも使わないような言葉を残して美耶子はさっさと引き上げた。
美耶子の言っていることもわかる。
そして残していったその言葉に、深い俺への抗議が込められていることもわかっている。
わかっていながら俺はどうすることもできなかった。仕事の手を抜くことは絶対にできなかったし、美耶子の気持ちを和らげる言葉も思いつかなかった。たとえどんな言葉をかけても、美耶子には白々しく聞こえるかと思うと、できなかった。
美耶子が愛想を尽かしても当然だ。
いつ別れを切り出されてもおかしくないと思ったこともある。
だが美耶子はそんなそぶりは一切見せず、今までどおりに振舞っていた。
少なくても月二、三回ほど週末に、茉里花とともにやってくる。
たまった洗濯物を片付け、料理を作り、部屋を掃除する。
黙々とその作業を続けながら全てを終えるとマンションへ帰っていく。
その繰り返しだった。
それは決して暖かい家庭なんてものではなかった。
それでもいつものように家事をこなす美耶子がよくわからなかった。
そんなことを考えている自分に気がついて、自嘲する。
自分の家族の状況や心のうちさえわかっていない人間が、赤の他人である部下の心まで推し量れるものか。
それでも俺は自問自答する。
どうして高嶺は死んでしまったのか。
長谷川さんは強固に高嶺の死は事故だったと主張するが、その言葉に黙って同意する奴はいないだろう。
意図しない限りあのフェンスを乗り越えることはできない。そんなことは誰だってわかっている。長谷川さんだってわかっている。
でも、自らの意志でフェンスを乗り越えて宙に一歩を踏み出したとは思いたくないのだ。長谷川さんだけでなく、営業一課の誰もが、俺でさえそう思っている。
高嶺の様子はどうだった?
最後にあいつの姿を見たのは、タバコを片手にフロアを出て行った後姿だ。
少なくても俺にはいつもの高嶺に見えた。
仕事が一段落して、一服したい、そんな表情がありありと浮かんでいた。
それはいつものあいつの姿だった。
なんら変わらない。
仕事だってそれほどきつかったわけじゃない。確かに高嶺が抱えていた仕事は課内で一番重要な案件だったが、高嶺の力量ならば十分捌ける程度の量だった。
仕事上は有能な男だった。
仕事で行き詰っている様子はなかった。
でも、本当に行き詰っていなかったといえるだろうか。
俺が気づかなかっただけであいつは信号をだしていたかもしれない。
高嶺が抱えていた仕事は官公庁がらみということもあり、結構ナーバスな扱いが必要とされていた。
俺は高嶺とは水と油のごとく合わない性格だったが、仕事に関してはあいつの力量を信用していた。
だからこそ全てを任せていた。
それがあいつにはプレッシャーになっていなかったと何故言える?
俺の知っている高嶺は常に人の中心に存在し、挫折なんて経験したことがない、明朗快活な男だった。実際高嶺の経歴は実に立派で同期の中でも出世頭だったことは誰もが認めている。
だが俺が持っていたそんなイメージが正しいと何故言い切れる?
もしかしたらあいつは悩んでいたのかもしれない。
監査部の結果では、仕事はいたってクリーンでかつ文句のつけようもないほどに良好だったというが、誰もが気がつかない何かであいつは苦しんでいたのかもしれない。
しかしそれも憶測にしか過ぎない。
あいつの本質を探るにも、俺は高嶺のことを何も知らない。
本当に何も知らないのだ。
どんな仕事をやりたがっていたのか、プライベートで何を思っていたのか、付き合っていた女性はいたのか、それこそどんな酒が好みかさえも知らない。
俺は、本当に仕事を通してしか高嶺のことを知らなかったと思い知らされる。
もっと、あいつに気を配ってやるべきだったのではないだろうか。
たとえ水と油でも、気がつくことは何かあったはずだ。
課内の他の人間にはそれなりに気をくばっていた。だがあいつは大丈夫だと高をくくっていたところはある。
しかしそんな判断さえも、自分の私的な感情が絡んでいたのではないかと考えてしまう。
高嶺とは本当に合わなかった。
あいつのストレートで、はっきりとした態度には戸惑うことが多かった。そしてなにより時々見せるあの真っ直ぐな目。曲がったことは一切許さないような視線はとても居心地の悪い思いをさせる。
今も、あの世であの視線を俺に向けているかもしれない。どうして俺が苦しみ、悩んでいることに気がつかなかったかと、憎んで責めたてているだろうか?
そこまで考えて、どっと疲れが押し寄せてきた。
身体を動かすことも億劫なほどに、疲れた。
このまま何もしたくない。
何も聞きたくない。
もう、どうでもいい。
自分の思考がどんどん行き場のない袋小路に追い込まれているような感覚に襲われたときだった。
静寂を壊すかのように自宅の電話が鳴る。
反射的に顔を上げ、電話のほうへと視線を向けた。
そういえば家の電話のベル音を聞くのも随分久しい気がする。
連絡は大抵携帯でとっていたし、その携帯も営業に出ていることが多いため、ほとんどマナーモードにしているような状態だった。
そんな電話のベルがひどく新鮮に感じた。
もともと家にあるものなのに、かつてはよく聞いていたものなのに、新鮮とはちょっとおかしいなと思った。
元来電話の音は苦手なのだ。
どんな音であれ、所詮は電子音に過ぎない。まるで電子音に操られているみたいで気分が悪い。
何もしたくないと訴えかける身体を無理やり起こし、留守電に切り替わる一歩手前で受話器をとった。
「もしもし」
相手にはまるで寝起きのような不機嫌度全開の声に聞こえただろう。
受話器の向こうで息を呑む気配がして、それから不審そうな声をあげた。
『パパ? どうしたの? 今日は随分と早いじゃない』
華やかな声が受話器のむこうからふってくる。
何日かぶりに聞く妻の声だった。
話す向こうで茉里花の笑い声とテレビの音が聞こえる。こちらの静けさとは対照的な温かい音に俺は懐かしさを感じた。
「たまには早く帰ってくるさ」
だがこんな時間に自宅にいるなどと、どのくらいぶりだ?
自分で思いだせないくらい前だということはわかる。
それ以上は何を言っていいのかわからなくて、俺は黙り込んだ。
何も言えない。
何を話していいものかわからないのだ。
こんなところで家族との距離を感じる。
最初は本当にわずかなずれだったかもしれない。しかしそれは徐々に変化し、距離を広げて大きな溝となっていく。
「どうした? 何かあったか?」
そして結局いつものパターンで質問する。
こう声をかけると美耶子がとても不機嫌になることを知っていながら、これしか言葉がないという辺りが情けない。
あなたとはいつも同じ会話しかしていないわね。もっと気の利いたことを聞いてくれればいいのに。
そういって怒る美耶子を予想する。
しかし今回ばかりはちょっと違っていた。
『パパこそ、どうしたの? 何かあった?』
受話器の向こうから何を感じ取ったのかわからないが、いつもとは違った調子で美耶子は語りかけてきた。
「何で?」
何でそう思う? 俺は何も言っていない。結局いつもの通り何と言葉をかけていいものかわからずに立ち往生しているだけだ。
どうせなら、いつものように歯切れのいい嫌味を言ってもらったほうがいい。
『何で、って。なんだか声の様子がおかしいから。土曜日から全然連絡取れなかったし、携帯にも出ないし。具合でも悪いの?』
そう思うなら週末くらいこちらに来ればいいのに。
微かに腹立ちを感じながら、そんなことを思う自分に俺は驚いていた。
家族は大切だ。
大事にしたいと思う。
でもこんなふうに傍にいて欲しいと思ったことなんてなかったかもしれない。
そう思う自分がひどく弱い存在のように感じた。
『パパ?』
明らかに怪訝そうに声をかけ続ける美耶子の声が耳の奥でこだまする。
その声をもう少し聞いていたかった。受話器の向こうからもれ聞こえる茉里花の声や、お笑い番組のわざとらしい笑い声さえも、すべての生活音が懐かしい。
冷えた自分の心になにか温かいものが流れ込んでくるようで、心地よかった。
妻のわずかな気遣いだけで『どうでもいい』と投げやりだった心が和む。ほんの些細なことなのに、その些細なことが大きな意味を持っている。
高嶺。
お前はどうだった?
あのフェンスを越えて、身を投げ出したとき、お前は何を考えた?
これで楽になれると思ったのか? それとも後悔したのか? しまったと思ったのか?残された者の事なんてどうでもよかったか?
高嶺が何を思っていたのか、その瞬間に何を感じたのか、もう誰にもわからない。
でもいずれにせよ、高嶺、お前が投げた波紋は大きい。その死が故意にしろ事故にしろ、お前はもういない。
俺や仕事仲間はともかく、お前にだって少しは気にかけてくれる身近な人間がいたはずだ。その人のことは考えなかったのか。
お前が死ななければ。
俺はこんなふうに、一人社宅にいることの侘しさなんて感じることはなかったはずだ。
俺の何がいけなかったのかと、毎日自問自答する日々など来なかったはずだ。
残された者にあたえられた枷は、大なり小なり辛いものだ。
高嶺。
『ねぇ、本当に』
「美耶子」
先ほどよりも心配の度合いを深めた声を掻き消すかのように、俺は声をしぼり出した。
ほとんど無意識に名前で呼びかけていた。
茉里花が生まれてからは『ママ』『パパ』といった呼称でしかなかった。当然名前でなんて呼んだのは久々だった。
呼ばれた美耶子自身が驚いて息を呑んでいた。電話の向こうで戸惑う姿がみえるようだ。
それに対して自分自身も何と答えていいものか迷う。
ただ、美耶子の声が聞きたかった。茉里花の笑い声が聞きたかった。
どのくらいそうしていただろうか。
幾分気持ちも治まった俺はようやく口を開いた。
「悪いな。せっかく電話をくれたのに。ちょっと久々に参っていた。ああそうだ。早いところクリーニングに出したいものがあるんだが、夜遅くか朝早くからあいているクリーニング屋ってこの辺にあったか?」
まだかかったままの喪服に自然と視線がいった。
努めて平然と言ったつもりだったが、受話器の向こうでずっと黙ったままだった美耶子ははっきりと俺に告げる。
『今から、そちらにいくわ』
あまりに突拍子もない返答に俺は我が耳を疑う。
今から来る?
とっさに時計に目を向けたが、すでに夜の九時を回っている。
「何を莫迦なことを」
『クリーニングは明日出しておくから』
「そんなことはどうでもいい。それよりもう夜遅い」
『今なら最終の新幹線に間に合うから』
まさか美耶子がそんな反応をしてくるとは思わなかった俺は正直慌てていた。
『それともなぁに? 見られちゃまずいものでもある?』
「いや、そうじゃないが」
美耶子はこちらが反応に戸惑うほどにテンポよく言い返してくる。というより完全に俺のほうが押されている。
見られちゃまずいものはないが、見られたくない姿はある。
おそらく今の俺はぼろぼろだ。そんな姿とクリーニングにかけられるべき喪服を見たら、美耶子だって大抵のことは想像がつくだろうし、事のあらましをある程度は説明する必要が出てくるだろう。
それに何より今俺は、どう対処したらいいのかわからず、途方にくれた顔をしているはずだ。
出勤の時にはネクタイをきちんと締めれば、まるでスイッチが入ったかのようにポーカーフェイスも装える。だが、すでに気を緩めた今、再びなんでもないような表情を作れる自信はない。
「茉里花だって明日幼稚園があるだろう?」
確かお遊戯会の練習で今は猛烈に忙しいはずだ。
しかし美耶子はそんな俺の言葉なんて無視するかのように簡単に反論してきた。
『休ませるわ。茉里花だってパパにあえるなら喜ぶわよ』
おそらくこうして話をしている間もいろいろと用意をしているのだろう。電話の向こうで茉里花に着替えをするよう促す声まで聞こえてくる。
『第一あなた、電話じゃ何があったか話さないでしょう?』
まるで俺に何があったのかわかっているような口ぶりだった。
でも高嶺が死んだことは全然言っていないし、新聞にだって小さく二九歳男性とでただけだ。
美耶子が事情を知っているわけはない。
戸惑う俺をよそに、美耶子は言葉を重ねてきた。
『何があったのか私にはわからない。でも、私自身が、今、あなたのそばにいたいと思うだけ。あなたの傍にいなきゃいけないと思うだけ』
美耶子はそういって電話を切った。
俺はというと受話器を持ったままその場に立ち尽くしていた。
美耶子と茉里花がくる。
思わぬ妻の行動力に驚き、でもそれ以上になんとなく期待している自分に驚いた。
今、とてつもなく、二人を抱きしめたい。
触れて、体温を確かめて、自分を必要としてくれる人がいることを確認したい。
そんな思いでいっぱいだった。
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