1.同僚、長谷川裕美子の戸惑
遺書はなかった。
正直自殺だったのか、事故だったのか、判別はつきにくい。
あの柵を乗り越えるには明確な意志をもっていなければ不可能だけど、高嶺さんの性格を考えると自殺は考え難かった。
はっきりしていることは、高嶺さんが10階建のビルから転落死したという事実だけだ。
あたしは高嶺さんのデスクへと視線をむけた。
彼の死からもうすぐ一週間になろうとしているけど、デスクは相変わらず書類の山となっている。
そんな名残を見ているとちょっと出張しているだけで、来週になれば戻ってくるのではないかと錯覚を起こしてしまう。
そもそも高嶺さんのお葬式に参加はしたが、あまりに突然のことで全く実感がわかなかった。遺影は明らかに急ごしらえだったし、棺に納められた高嶺さんを見たわけでもない。
正直言うとまるでスクリーンを通して『高嶺さんのお葬式』という映像を見ているような感覚だった。
そんなことを葬式後のファミレスで言ったところ、課内の人間は一様に頷いた。
お葬式は早急に行なわれた。しかも簡素に。
そこで初めて高嶺さんが結構いいところのご子息であることを知った。
同僚に聞いたら、お父様は大手金融の関連会社の取締役だとか言っていた。
そのお父様の対外的な面子、遺体の損傷とはっきりしない死の原因が重なって、とにかくご家族は早く荼毘に付したかったようだということだった。
数日経った今も、高嶺さんの死の原因はわかっていない。
◆◆◆
高嶺さんは自他共に認める『できる男』だった。
新人アシスタントとして高嶺さんのもとで仕事ができたことは、あたしにとって幸運だった。
高嶺さんは営業一課でも抜群の、いや、営業部内でも一、二を争うほどに完璧な仕事ぶりを発揮していた。
それは営業成績における評価だけではない。
通常営業という仕事柄、少なからず敵はいるものだが、高嶺さんに対して悪い感情を持っている人間はあまり思い浮かばない。
華やかで自然と人をひきつけるタイプの人だった。時々真っ直ぐすぎて、大丈夫かなと心配してしまうこともあったけれど、だからといってお固い思考の持ち主というわけではなく、上手く場を和ます術も知っていた。
一言で言うならば場をコントロールすることに長けている、ということになるだろうか。
あたしも高嶺さんにはよくフォローしてもらったし、仕事ができなくてめそめそしているとさりげなく慰めてくれた。
こうして目を閉じると高嶺さんの明るい笑顔が鮮明に思い浮かぶ。
高嶺さんは一課の中心人物だった。華だった。
そんな人が自殺だなんて、いくら考えても納得がいかない。
そもそも転落するほんの30分前まで、何事もなく普通に仕事をしていたのだ。特段変わったことはなかった。仕事に一段落が着いたから、いつものように一服しに行ったのだと思っていた。
結構なヘビースモーカーなので、高嶺さんの喫煙時間はやたらと長い。
フロア内は禁煙のため、その分の鬱憤を晴らすかのように、外では凄まじい勢いでタバコを吸うことを皆知っていた。
だから帰りが遅くなっても誰も心配していなかった。
総務から内線をもらうまでは。
どうしてよ、高嶺さん。
なんで、落ちたの。
どうして死んでしまったの。
「長谷川さん。あの、この手帳はどうしますか?」
思考の袋小路に陥っていたあたしは、その声で我に返った。
瞬きひとつせず固まっていた視線を、ゆっくりと声の主である福澤さんへとむけた。
視線の先では福澤さんが手帳を抱えたまま、困惑した顔であたしを見つめていた。
あたしはというとキーボードに指を置いたままの姿勢で高嶺さんのデスクを凝視していたらしい。そんなあたしを見つめる課内の人間の視線がさらに痛い。
ああ、今度は長谷川か。そんな視線だった。
誰もがこんなふうに時々ぼんやりと高嶺さんの名残を見つめている。デスクだったり、ホワイトボードだったり、高嶺さん自筆のメモだったり。
しっかりしなくては。
あたしだけでなく、課内の人間は皆心あらずの状態であり、同時に疲労がピークに達していることも明らかだった。
それは高嶺さんが急死したショックのせいだけではない。
周囲の視線と、高嶺さんの死後すぐに行われた社内監査部の調査の影響だった。
高嶺さんの死が自殺の可能性もあるということで、最初に高嶺さんの持ち物を調べたのが監査部だった。
自殺の原因が仕事に深く起因することであるならば、会社としては早急に何らかの手を打たなければならないから。調査の裏にある思惑くらい、誰にでもわかる。
これ以上ないほど隅々まで、それこそ重箱の隅をつつくような勢いで監査部が調べつくした。パソコン、社用携帯、手帳、デスク、ロッカー、小さなメモ、果てはゴミ箱までも。アシスタントだったあたしや課長や同僚も入念にヒアリングをされた。
そうしてさんざんかき回した挙句、高嶺さんが特にトラブルを抱えていなかったということ、仮に自殺だとしても会社に起因をしている可能性は低いこと。それを確認するや、片付けもしないまま監査部は立ち去った。
それが仕事ということはわかる。しかし残された私たちとしては、あたしたちの領域に土足で踏み入り、荒らすだけ荒らして立ち去ったようにしか見えなかった。
もし監査部がそこで何らかの結果を出してくれたのなら、あたしたちもそんなふうに思わなかったのかもしれない。
監査部が出した結果は、イコール課内の人間の心を軽くするということにはならなかった。
いや、かえって影をさしたといってもいい。
そして監査部がいなくなろうとも、周囲の不躾な視線はなくならない。
同情と好奇と疑惑とが入り混じった視線は、はっきりと向けられることがなくてもひしひしと感じ取ることができる。
そしてそれに対抗する術をあたしたちは持ち合わせていない。
対抗する元気も、ない。
沈みがちな思考の連鎖を自覚して、あたしは心の中で首を振り、気持ちの切り替えを図る。
こんなことを考えても、思考が堂々巡りをするだけなのは経験済み。
「それは落ち着いたらご家族の方に返す予定なので、私物のほうへ入れておいてください」
できるだけ平静を装って福澤さんに指示をした。
指示を与えられたことに対してほっとしたのか、福澤さんはいそいそと手帳を箱の中に入れた。
もしかしたら課内で一番ダメージを受けているのは福澤さんじゃないかなと思うことがある。
まだ入社して半年ほど、この課に配属されてからは三ヶ月ほどだ。
高嶺さんともそれほど親しくしていたわけではないようだが、庶務として働いていた関係上、それなりに接点も多かったはずだ。
もともと神経質で内気なところもあり、自分の感情を外に発散させるタイプではない。見えないだけで、高嶺さんの死に何らかの影響を受けていることだって考えられる。
なにせ書類上の手続きは彼女の役目なのだ。片づけをするたびに、総務の書類を処理するたびに、高嶺さんが死んだと突きつけられる。そんな状況を今にも折れそうな風情の彼女が上手くこなせるのか心配ではある。
でもあたしがどうこうできる問題じゃないこともわかっている。
課内全体に広がっている奇妙な雰囲気は誰も止めようがない。
異様だった。
周囲の視線もそうだが、課内の人間がかもし出す雰囲気はもっと重く、辛い。
高嶺さんの死を哀しむ感情と、何故死んだと責めたてる感情と、何もできなかったという自責の感情と。
皆その雰囲気にのまれている。
でもどうすることもできない。
◆◆◆
「長谷川さん」
そんな重苦しい雰囲気の中、全く声の発せられていなかったフロアにあたしを呼ぶ声が響いた。
声に反応して顔を上げると、課長がいつもの冷静な表情であたしをみつめている。
「今日はもう遅いから帰りなさい」
反射的に時計に目を向けるともう7時を回っている。
いつの間に、と思いつつ、同時になぜ、と疑問にも思った。
確かにすでに就業時間を過ぎてはいるけれど、忙しい時期ならばこの程度の残業はよくあることだ。
ましてや今はできるだけ早く高嶺さんが抱えていた案件を片付けておきたかった。
それは決して面倒だからとか、早く解放されたいからという単純な思いからではない。
営業一課で一番の成績を上げていた高嶺さんは、これまた一番面倒そうな仕事を抱えている営業だったのだ。
これを各営業に引き継ぐためにも、資料の整理は急務だった。
高嶺さんのPCの中身を整理するのはあたしと課長に任せられたが、ほとんどのメモリを使い切ってしまうほど高嶺さんのPCは情報であふれていて、しかも整理なんて全くされていない状態なのだ。
忙しいのは課長だってわかっているはずなのに。
そんな不満を表情に出しながら、あたしは軽く抵抗を試みた。
「でも、もう少しやっていきます。せめて区切りのいいところで」
ところがもっともと思っていたあたしの言い分を課長はすっぱりと切り捨てた。
「区切りはつけようと思えばいくらでもできるはずだ。区切りがつかないのは長谷川さんの気持ちのほうじゃないのか」
あまりにストレートで、あまりに無情な言葉にあたしは絶句する。
いつの間に帰ってきたのか、数人の営業さんが課長とあたしを交互に見つめる。
あたしと課長との間にはぴんと張り詰めた空気があった。
課長は引くつもりはないらしい。
それでもあたしは課長に食い下がった。
「でもせめてこのメールを片付けないと」
「訃報を知らせるメールは既に打っただろう? 新たに連絡を取れるように私のアドレスも追記したはずだ。実際高嶺くんのメールボックスに来るメールは格段に減ったはずだ。それに明日には高嶺くんのアドレスも閉鎖される」
「でも現実としてまだ高嶺さんにメールが来ています」
「それにいちいち答えていたら、いつまでたっても仕事にきりがない」
それはそうだけど。
でも課長の言葉はあまりに冷たく感じられた。
おそらくあたしの顔には反感にも似た表情が浮かんでいるに違いない。
その証拠に周囲の人々は固唾を呑んであたしと課長のやり取りを見つめている。
ところが当の本人の課長は実に平然とあたしの視線を真っ向から受け止めている。あたしの感情なんてなんでもないといったふうに全く反応を見せてこない。いたって冷静だ。
本当にこの人はいつでも冷静だった。
あたしは勿論、営業の人たちだって野田課長が慌てふためく姿を見たことはない。それがまさかこんな場面においてまでとは思ってもいなかった。
いつも冷静、一見すると冷徹な野田課長を前に高嶺さんはよく言っていた。
『きっと課長の中身は精密機械がびっしりと詰まっているに違いない』
高嶺さんだからこそ、とげを持たずにいえたその言葉。よく考えてみれば結構きつい言葉だなとそのときは思ったけど、もし今その言葉を聞いたら、絶対に力強く同意してしまう。
高嶺さんが亡くなって迅速に、そして的確に事にあたっていたのは課長だった。
その姿にあたしはとても複雑な思いを抱いていた。
実際、こうして冷静に対処できる人間がいなければ、一課はぼろぼろだっただろう。そういう意味では感謝している。
でも一方で、あまりの冷静ぶりに戸惑いも感じる。
告別式の席でも顔色一つ変えるでもなく、短く挨拶をする課長の姿はまさにいつもの課長の姿だった。
つい先日まで一緒のフロアで仕事をしていた人間が、二度と目を覚ますことなく、棺の中で眠っているというのにどうしていつものとおりなのか。
あたしは冷静な課長の態度に感謝しながら、その一方でなぜ悲しみを表すことがないのかと無言のうちに責め立てている。
それが理不尽な思考だとわかっているけれど、非難する感情を抑えることは出来なかった。
感情に理性が追いつかない。
放たれた感情は一直線に課長に向かう。それが間違ったことだとしても、感情は、理性を圧倒する。
「高嶺さんのお仕事をきれいにしてあげたいんです」
課長の言葉を完全に無視した、感情的な言葉だった。感傷といってもいいかもしれない。
でも確かに高嶺さんにはいろいろとお世話になったのだ。だからこそ、高嶺さんにかかわる仕事は完璧にこなしたいと思っていた。
あたしの力強い反論にも、課長は冷静だった。
わずかに眉を寄せたが、それもほんの一瞬のこと。
「だからといって、倒れられたり、体調を崩されたりされてこれ以上人員が減るようなことになったら困る」
「だからあたしは大丈夫だと」
「高嶺のことだって、私は大丈夫だと思っていたよ」
勢いづくあたしを課長はそれを上回る迫力で静止した。
いつも冷静で、相手を言い負かすときも理路整然とした態度の課長らしくない力強さだった。
課長の重い言葉に、フロアの全員がしんとした。
「でも高嶺は、もういない」
その静けさに気がついたのか、すぐさま課長はいつもの淡々とした調子に戻ってそう告げた。
さらりとした口調なのに、今まで課長が発してきた言葉の中で、一番重い言葉だった。
「どんなに高嶺のことを考えようとも、高嶺は戻ってこない」
それはフロアに静かに浸透する。
実感がわかないと、自殺などと信じられないと、目をそむける自分たちに少しずつ突きつけられる現実。
ああそうだ。
課長だって高嶺さんの死を何とも思っていないわけじゃないだろう。
ただ、課長が状況を一番理解していた。それだけだ。
課長はわかっている。
あたしだけでなく、皆が仕事をすることで高嶺さんのことをできるだけ忘れようとしていることを。
仕事に没頭しているうちはまだいい。時には完全に高嶺さんのことを忘れている事だってある。
でも会社を一歩出たときに、ホームで電車を待っているときに、鍵を開けて自分の部屋に入った瞬間に、お風呂で一息ついたときに。本当にそんな一瞬に高嶺さんのことがふと思い出されてしまう。
そして繰り返すのだ。
どうして死んだのよ。
その一言を。
そしてきっとここにいるメンバーは多かれ少なかれ、あたしと同じことを思い、感じているはずだ。
だから課長はあたしにあえてそんな言葉をかけたのだ。
あたしを通して全員に言ったのだ。
高嶺さんの死を忘れるために仕事を利用するな、と。
それ以上、あたしは反論する余地を失くした。
唇をかみ締めて、悔しさと悲しさとわけのわからない焦燥と戦っていた。
課長の言いたいことはわかる。
課長が心配していることも、わかる。
課長の立場も、わかる。
でも。
課長はあたしが自分の感情をコントロールできずに四苦八苦していることに気がついたのだろう。
再びデスクに目を落としながら救いの手を差し伸べてきた。
「長谷川さん。君が帰らなければ福澤さんも帰り辛いだろう?」
あ。
慌てて福澤さんのほうを見ると、突然話をふられたことに動揺したのか、あたしと課長を交互に見つめ、それから周囲へと視線を巡らす。
多分こんなときどう答えたらいいのか、懸命に考えているに違いない。
福澤さんは懸命に言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「私は大丈夫です」
きっぱりとそういったものの、とてもじゃないが『大丈夫』な顔色ではなかった。
疲労のせいか、それとも今の課内の雰囲気にひきずられたせいかわからないが、顔面蒼白だった。
「大丈夫そうではないな。福澤さんだけじゃない。長谷川さん、君もだ。今日無理をして明日一日をつぶすようなことになったら、それこそ時間のロスだ」
そういう課長の声は先ほどの、強引にあたしの言葉を遮ったときとは全く異なり、いつもの冷静な口調だった。
課長はぼんやりしているあたしと、おろおろするばかりの福澤さんに業を煮やしたのか、今度は課長自身がPCを落とし、帰る準備を始めた。
一見すると冷たい言動のように思われる課長の態度に、数名の営業が賛同したかのように帰り支度を始めた。
「確かにな。誰かが倒れてこれ以上注目されるのはごめんだ」
そういわれてはあたしも納得するしかなかった。
周囲からの好奇の目。監査部の執拗な確認。もう皆疲れていた。
だからこそここで一息入れる必要はあったのだろう。
間違っていない。課長が言うことは正しい。
あたしは唇をかんだ。
でも、どうして課長はこんなに冷静でいられるの?
あたしにはできない。
どうやっても高嶺さんの姿や声が、何もかもが頭をよぎる。
そして見たこともない、高嶺さんの死の瞬間を死後の姿を想像してしまう。
だからあたしにはできない。
課長のように、冷静ではいられない。
ただこうして唇をかみ締め、耐えるだけで精一杯だった。
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