アフターエフェクト
古邑岡早紀
序 会社員、高嶺聡史の休息
空はどこまでも青い。
都会では珍しいほどの澄んだ空だった。
ビルの一番上に立ち、見上げた空には雲ひとつなかった。
先日見た、穂高の空に負けないと言ってもいいくらいだった。
そして自分以外に誰もいない。
先ほどまで人がいたが、適当に追い払った。
もともとこの屋上に人が来ることは稀だ。
そうそう屋上の鍵なんて開いていないものだし、意外にきちんと管理されているものだ。何か事故でも起きれば面倒なことになる。どこの誰でもそういう『面倒事』は避けようとするのが道理だろうし、ゆえに屋上に続く鍵なんて開けておかない。
だが、どんなものでもミスや抜け道がある。
高度経済成長のころに建てられたであろうこのビルにも、いわゆる抜け道が存在する。
大抵の人間は実にレトロな南京錠にだまされて、今あがってきた階段を戻る選択をする。
大したもんだよ、南京錠。その姿は伊達じゃない。それだけで十分お前は役に立っているよ。
だが触って、ちょっと引っ張ればその南京錠の本体ごとドアが開く仕組みになっている。
ちょっとした偶然から、俺はそのことを知った。
そこまでして屋上に固執する人間なんてそうはいない。察するによほどこの屋上から飛び降りたい人間か、それとも最高の息抜きの場所を求めている人間か。せいぜいその程度だろう。今のところこの屋上から飛び降りをした人間がいるという噂は聞いていない。ということは、利用者は俺のような息抜き派がほとんどなのかもしれない。
いや。そもそも利用者なんて俺ぐらいなのかもしれない、そう思っていた。今までここで誰かと鉢合わせしたことはなかったから。
だから今日、南京錠がすでに外れていることに首を傾げ、ドアを開けてばっちり人と目が合った瞬間、俺はあからさまに不快な顔をしていたと思う。
自分のテリトリーに入られた猫はこんな感覚を抱くのかもしれない。
人から逃れるためにこの場にきたのに、その場所に人間がいることがたまらなく不快だった。そして瞬時に怒りが湧き起こる。
とりあえずお引取り願おうと俺は巧みにその男を追い払った。
別に力づくってわけじゃない。ほんの一言二言だけ言葉をかわして、そのまま退場していただいた。
で。俺は一人で優雅に煙草を吸っている。
ゆっくりと目をつぶり、風が流れていく感触と雑踏の音に身を任せる。
いつもの時間。
そのとき、胸元で携帯が震える。
それはきっちり3回震えて、止まる。
何故か自分の時間を侵食されたようで不愉快だった。まるで先ほどの男のように場違いで、ここにあってはならないもののように感じていた。
それはプライベートの携帯だったにもかかわらず、だ。
こんな些細なことで苛立つ自分がおかしくて、わずかに笑み浮かべた。
まったく持って、俺は何をそんなに苛立っているんだ?
ここのところ、心の均衡が崩れているような感じがする。人に見せるのはどうしても自分のプライドが許さないから平然と構えているが、時々どうしようもなく何かに当り散らしたい衝動に駆られる。
正体不明な自分の感情は戸惑いを生み、その一方でわずかな好奇心も生み出す。
かといってそんな苛立ちの原因を俺はどうしても明確にできずにいた。
仕事は忙しいが順調だし、成果が上がるのはおもしろい。人間関係だって悩むようなことはないし、結婚を急いているわけでもない。
だが時々感じる焦燥はいったい何なのか。
煙草を口にするわずかな間だけ己を分析するも、答えを得ることもなく、俺は何気なく携帯を開いた。
メールが1件。
無視して後で読んでもよかった。
でもそうしなかった。
くわえ煙草のまま、受信したメールを確認する。
メールの内容は短いものだった。
携帯特有のカラフルな絵文字もない。顔文字も、なにもない、本当に簡素な文字列。
黙ってそれを目にして、それから折り返し電話をした。
先ほどメールを送ってきたということは、相手も休憩中ということだろう。
予想通り、コール3回で相手は電話に出た。
「後悔なんてしない」
簡素にそう伝えると、相手はわずかに笑った。
そして一言、告げてきた。
その声が、言葉が、俺の耳にねっとりとまとわりつく。
それは徐々に浸透し、侵食し、俺を蝕んでいった。
身体に染み渡るのに、理解するのに、時間はいらなかった。
次の瞬間には思わず声をたてて笑っていた。
ここまで腹の底から笑ったのは何年ぶりだろうかと思ってしまうくらいに笑った。
ああこれか。
急に目の前の霧が晴れたように、すっきりとした気分になっていた。
これが苛立ちの原因か。
こんなおかしな話があるか。
こんなに狂おしい話があるか。
同じ轍は踏まないと心がけてきても、所詮はこうか。
苛立ちの原因が判明したことに俺は歓喜し、そして同時に絶望する。
こうはなりたくないと思った自分が目の前にいることに、俺は諦めにも似た感情を抱いていた。
だが。
一通り笑って、大きく息を吐き出し、俺はつぶやいた。
「──ああ。後悔しないさ」
そう。
諦めにも似た気持ちを抱きつつも、俺は後悔はしない。
相手の言葉を待つことなく、俺は通話を切った。
通話の切断とともに、脱力した腕は振り下ろされ、そのまま手元から携帯が滑り落ちる。
鈍い音を立てて、屋上の床に転がり、そのままフェンスの下へと滑り込む。
そして気がつけば、右手にあったタバコの火は、指先ぎりぎりまで迫っていた。
そろそろ戻らなきゃいけない。
現実に。
何も考えず一人でいられる場所から、己を縛る下界へと。
身体を起こし、身支度を整え、俺は再度空を見上げた。
空はどこまでも青く、広い。
見事な空。
そういえば先ほどの先客もこんなふうに空を見上げていたっけ。
俺の登場に戸惑いを隠せないようだった。いや、どちらかというと現実に戻されて不服だったといった顔だろうか?
もっとも、俺がそう見えただけで実際に何を考えていたかなんてわかりはしない。
まあいいさ。今さらそんなこと、どうだっていい。
わかっているのは俺も現実の世界に戻らなければならないってことだけ。
俺がいるべき世界に。
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