あたらしい靴

こえ

本編

 平日のお客さんのラッシュが過ぎ去って間もない昼下がり、その子はいつもこの時間帯にやってくる。

 頼むのはだいたい、季節のフルーツサンドを一つと、プレーンのクロワッサン、たまに三つで百円のミニパン、それにミルクティー。今季のフルーツサンドは、クリスマス仕様の苺たっぷりの豪華版だ。

「いつもありがとうございます」

 わたしが言うと、その子は一瞬小動物のようにびくっとしてから、背筋を立てた。緊張したせいか、小銭を出す手が止まった。なんせ、昨日の今日なのだ。

「七百六十五円です」

 続けると、止まった時は動き出し、その子は千円札を一枚と五円玉を一枚、陶器のトレイに置いた。カチャリとした乾いた音が鳴った。

「二百四十円のお返しです。お確かめくださいませ」

 わたしは彼女のためだけのスマイルで、釣り銭とレシートを手渡した。レシートは貰う派なのだ。

 わたしはいつのころからか、他のお客さんに向けるのとは違った笑顔を彼女に向けていることに気がついていた。なんというか、営業然とした作られた笑顔ではなく、例えば、声を出すときの吐息が自分でも温かいと思えるような、自分でもはっとするくらい人間らしい挨拶だ。そしてそれは、今までだれにも向けたことのない笑顔だった。

 その子は「ありがとうございます」と小さく言って、いつもの品を乗せたトレイを抱えて、イートインスペースのいつもの席に行った。幾重にも重ねられたレースのフリルのスカートがまるでミルフィーユのようだと、うしろ姿を見て初めて気づいた。


 わたしがその子と初めて会話のようなものをしたのは、ふた月ほど前、秋も深まった、暑くも寒くもない麗かな日のことだった。といっても、壁に囲まれた大型デパートの中のこのパン屋〈JU-JU〉では、情緒もなにも感じられなかったけれど。

 その子が常連であることは夏くらいからわかっていた。ショートボブの黒髪が綺麗で、目鼻立ちが丸っこく、ふわふわとした砂糖菓子のような女の子らしさを湛えている雰囲気がわたしの好みに合っていたから、知らず知らずのうちに記憶の中にいるようになっていた。髪を切ったときは絶対にわかったし、メイクのセンスが変わったときも見逃さなかった。ネイルの色が前回と違っていても、わたしはいち早く察知するだろう。

 それでも、彼女がいつも一人で来店することだけは変わらなかった。

 その日も、彼女は一人で秋のハチミツ芋栗サンドとプレーンのクロワッサンを一つずつトレイに乗せて、小さな声で「お願いします」と言った。

「ご一緒にお飲み物はいかがですか?」

 わたしが聞くと、

「あっ……ミルクティーを」

 今度は少しはっきりと聞こえるように言った。しかしその声は、腹の中に小さな石ころでも詰めたような、妙なつっかかりのある声だった。

「大丈夫ですか?」

 わたしは思わず言ってしまった。彼女の声があまりに儚かったから、自分でも不思議なくらい自然にそう声をかけたのだ。

 しまった。別に体調が悪いわけでもないだろうに、勝手にそんなことを、と思ったけど、それを聞いて上げた彼女の顔は、苦々しさと喜びの綯い交ぜになった不思議な顔だった。

 どうしたものかと、一瞬のうちにあらゆる考えが浮かんでしまったが、彼女の返答は思わぬものだった。

「恋人と、別れたんです……」

 それはわたしを困らせると同時に、なぜか安堵させるものでもあった。

「ちょっと待ってくださいね。わたし、今日早あがりなので。よかったらお話ししましょう」

 わたしは嘘を言ってから、彼女の会計を済まし、タイミングを見計らって、店長に実は朝から熱があったと言って早退させてもらった。

 デパートの北口を出ると、出入り口脇の大きな化粧品のポスターの前に、彼女は言ったとおりに立っていた。心なしか瞼が腫れていて、アイシャドウが目尻のあたりでほのかに滲んでいた。

 顔見知りとはいえ、話したことはない人間に失恋話を聞くと言ったわたしもわたしだが、そんなただのパン屋の店員に付いてくる彼女も彼女だとは思った。

 わたしたちは、デパートと大通りを挟んで向かいの雑居ビルの一階にある喫茶店〈フジヤ〉に入った。

 彼女は、先ほどフルーツサンドとクロワッサンを食べたばかりなのに、今度はショートケーキを一皿頼んだ。わたしも同じものを頼んだ。

「それで、大丈夫?」

 わたしはもう一度同じ言葉をかけた。

 彼女は思い出したように伏し目になり、悲しみの世界に入ったかと思うと、急に頬を赤らめた。それもそうだ。常連とはいえ、初めて話すパン屋の店員に失恋話をすることになっているのだ。

「あの……なんかすみません」

 彼女は、いかにも恐縮ですといったふうに縮こまった。なぜ謝るのだろう。謝るのはわたしのほうだ。

「ううん。あなたの顔を見ていたら、どうしても声をかけずにはいられなかったの」

「はい。でも本当にいいんでしょうか。私なんかの話を聞いてくださって。でも、他に話す人がいないんです、私」

 彼女はそう言ってから、訥々とではあるけれど、しっかりとわたしにもわかりやすいように話してくれた。

 まず、自分が都内の私立大学の教育学部に通う四年生であること(自己紹介から始めたのも、教師っぽいなと思った)。卒業見込みではあるが、教員採用試験には落ち、非常勤講師として都内の小学校に勤めることになっていること(「あ、それはこの失恋とは無関係ですからね」)。両親ともに教師であること。大学はJU -JUと特に近いわけではないが、用もなく繁華街に出て、いつも寄ることが常になってしまったのだそうだ。大学へは、隣県の実家から通っているらしい。

 肝心のその恋人とは、一年前にマッチングアプリで知り合ったのだそうだ。それを話しているときの彼女は、恥じらいを隠せない表情をしていたが、わたしだってそういうのは利用したことがあるよ、と言うと、ほっとした顔をしてくれた。

「私、そういうネットの付き合いではなぜか大胆になれるんです」

 相手のプロフィールを見て、自分から積極的にアプローチしたことを話しているときは、その間だけ表情が明るくなった。

「うん。それでそれで?」

 マッチング後に会ってみて、その直感は間違っていなかったことがすぐにわかったらしい。趣味が合うことは事前にわかっていたが、入ったカフェでは瞬時にして盛り上がったと言っていた。

「その趣味ってなにかしら? 差し支えなければ」

 わたしが聞くと、

「ええと……漫画? 漫画ですね」

 なぜか、子供が隠れてやった悪事を問いただされたときのようなバツの悪さを感じているような顔だった。別に、今どき漫画が趣味だと言っても恥ずかしいことはないだろうに。

 それで、結局別れた原因は自分にあると言って、今にも泣きだしそうな顔でショートケーキにフォークを刺して、それを崩していた。

 わたしはそれ以上は詳しく聞かなかった。

 去り際に彼女は、

「あ、名前を言うのを忘れていましたね。すみません。私、ミキっていいます」

 苗字は教えてくれなかったが、わたしも、

「美穂です。似たような名前だね。まるで双子みたい。よろしくね」

 できるだけ優しく言うと、彼女はその日いちばんの笑顔で、

「そうですね! はい、よろしくお願いします!」

 と言って、その日の話は終わった。


 わたしは昨日、ミキちゃんから告白された。ミキちゃんは、いつものメニューを乗せたトレイをレジカウンターに置くと、ミルクティーを頼む前に、

「美穂さん」

 また腹の中に小石の詰まったような声でわたしの名前を呼んだ。なんとなく、難しい話になりそうだと直感したけれど、フロアにはお客さんはおらず、イートインスペースには数人の中年女性のグループがいただけだったので、「なにかしら」と返した。

「美穂さんには、彼女がいますか……?」

 彼女、がいますか?

 わたしは混乱した。しかしその混乱は、わたしが女なのに、彼女がいるかという無礼ともとれる質問を投げられたことに対してではなく、わたしが女の子が好きな女だと見抜かれたことへの混乱だった。確かにわたしが好きになるのは、男ではなく、女の子だ。

「彼女? かしら?」

 わたしは前者の疑問への混乱であるふうを装って、わざとらしく応えた。

「はい」

 また小石の詰まったような声だ。

「いないわね……」

「では……私と付き合いませんか?」

「はい?」

 今度はストレートに告白されたことへの混乱だった。

「え、え……そうね、ちょっと考えさせて」

 そう言うのが精一杯だった。嬉しい。嬉しいけれど、なんだか思っていたのと違う。

 それを聞いた彼女は、しっかりとミルクティーを頼んで、ちょうどの金額を置き、レシートも受け取らずにいつもの席に去っていった。気のせいか、手と足がそろった歩き方をしているように見えた。

 わたしが出来たミルクティーを持っていくと、テーブルには手紙のようなものが置いてあった。用意したのだろう。

「これ、読んでください」

 小刻みに震える手でそれを手渡された。

「あ、ありがとう」

「お返事、いつでもいいので聞かせてください」

 彼女はこれで会話は終わりとでもいうように、顔を伏せた。


 しかし、まさかすぐ翌日に来るとは思っていなかった。二日連続というのは、ミキちゃんにとって別に珍しいことではないけど、なんせ昨日の今日なのだ。

 わたしは昨日、渡された手紙を読んで、返事を考えていた。でもまさか翌日にやってくるとは思っていなかったので、今日のためにはっきりとした返事を決めていたわけではない。

 だからわたしは、なにごともなかったかのように、いつものミキちゃんのためだけのスマイルで、いつものように会計を済ませた。

 ミキちゃんもそれを悟ったのか、自分の勇み足を恥じるように、恐縮してなにも聞かずに席に行った。

 わたしたちは連絡先を交換していない。初めて会ったフジヤで、お互いぎこちない空気だったからか、そういう流れにはならなかった。もちろん、わたしは連絡先を聞きたかった。でも、欲が見え見えのような気がして躊躇っていると、ミキちゃんはひととおり話を終えて、そのまま帰る流れになったのだ。それ以来、お店の外で会う機会はないから、わたしたちの会話といったら、いまだにこのカウンター上の会話だけなのだ。

 手紙に書いてあったのは、不器用な愛の告白だった。

 率直に好きだといえばいいのに、「お店での時間は私にとっての日々の特別な時間」だとか、「美穂さんの手で渡されるパンは特別な味がする」「いつのころからか、美穂さんと話そうと思って、店が暇な時間帯にしか来なくなった」というようなことが書かれていた。わたしはそういう、文学的なのかストーカー気質なのかわからないことをいわれるよりは、ストレートに「好きだ」といわれるほうが好きだ。でも、不器用な文面はそれに相応しいような不器用な筆跡で書かれていたので、なぜか嫌な気分はしなかった。きっと、彼女は自分にもわたしにも嘘はついていない。無理に飾っていないところに好感がもてた。

 結局、ミキちゃんは小一時間ゆっくりしたあと、トレイを返却口に置いて、わたしのほうは一瞥もせずに店を出ていった。正確には、一瞥もできなかった、とでもいうような振る舞いだったけれど。


 次の日も、その次の日も、ミキちゃんは来なかった。

 明日明後日は土日なので、ほとんど平日にしか店に来ないミキちゃんは、多分もう来週まで姿を表さないだろう。手紙の返事はまだはっきりとさせていないので、それはそれでありがたかったのだけど。

 のだけど、同時にわたしはなぜか、胸に小さな穴が空いたような満たされない感じを覚えていた。その穴は、小さいけれどどうしても無視できない穴だった。

 ミキちゃんが姿を表すのは、平均して週に二回程度。多くて三回だろう。今週はすでに二回来ているわけだから、もう来なくてもおかしくはないのだけど、わたしはそういうもの足りなさをもっていて、それに気づくのは難しくはなかった。

 わたしはこれでも一応もの書きを目指しているのだ。自分と他人を観察する眼はもっているという自負はある。といっても、初めて書いた中編がエンタメ系の新人賞の一次通過をしただけで、その後は四年ほど箸にも棒にもかからない日々を過ごしているのだが。それでも、雑誌に自分の名前が(ほんの小さく、多分五ポイントほどだろう)載ったことの味が忘れられなくて、こうしてフリーターをしながら地道に書いたり書かなかったりしているのだ。

 定時であがって、アパートに帰宅し、手紙をなん度も読み返した。

 ミキちゃんがわたしを意識し始めたのは、夏ごろかららしい。ちょうどわたしも彼女の存在を気にかけ始めたころだ。失恋を打ち明けられたのが秋ごろだから、当時はおそらく件の恋人と付き合っていたのだろう。ふられたともふったとも言っていなかったが、わたしの存在はミキちゃんの失恋と関係があるのだろうか。

 夏のミキちゃんといえば、目の覚めるような鮮やかなミントグリーンのワンピースをよく着ていたのを思い出す。そのころの印象としては、文学少女ともスポーツ少女ともとれるような、乙女の生気を感じるようだと思っていた。でも声は大人しめで、ときどき思い出したように背筋を伸ばして胸を張る仕草は、猫背であることを自分でも戒めているようで、どちらかというと文科系なのだろうなと思うようになった。

 わたしたちが初めてフジヤで話をしたとき、ミキちゃんは「恋人と別れた」と言っていた。彼氏とも彼女とも言わず、恋人と言っていたのを覚えている。だからいまだにミキちゃんの恋愛対象が元々男なのか女なのかはわかっていない。しかし、わたしのことを女の子が好きな女だと(勝手に)見抜いた眼をもっていることを思うと、ミキちゃんもこっち側の人間なのかもしれない。

 でもそうだとしても、わたしはミキちゃんに簡単には靡かない。

 だって、愛は永遠ではないことを知っているから。

 だからわたしは、だれかに期待することをやめたのだ。

 そうだ、断ろう。取り返しがつかなくなる前に、きちんと断らなければ。そうでなければ、お互いの傷が膿んで醜くなってしまう。


 結局ミキちゃんがお店に来たのは、週明け早々の月曜日だった。

 いつものように昼下がりの暇な時間帯で、実際イートインスペースにいたのはミキちゃんと同じくらいの大学生ふうの女の子が二人だけだった。

 ミキちゃんは、今日はいきいきとした目をしていた。

「お手紙、読んでくれましたか?」

 レジカウンターには、苺サンドとミニパン三つが載っている。

「読んだよ。とっても素敵なお手紙だった」

 わたしは率直に、しかし返事は誤魔化して言った。

「ありがとうございます。それで、美穂さんは今日はなん時あがりですか? またお話ししませんか?」

 そうくるだろうとは半ば予想していたので、わたしは覚悟を決めて、誘いにのることにした。

「いいわよ。七時にこの建物の隣のファミレスで食事でもどうかしら」

 ミキちゃんは、背筋をただして無表情で、

「はい。ミルクティーお願いします」

 と言って、ちょうどの金額をトレイに出してから、レシートを受け取り、いつもの席へ去っていった。


「もうすぐクリスマスだね」

 注文を終えてから、わたしはメニュー表の紙面が緑のリースやジングルベルのイラストで飾られていることに今気づいたようにして言った。

「クリスマスバージョンのフルーツサンド、とっても美味しいです。私、苺が大好きなので」

「そうなの。嬉しいわ。わたしも大好き」

「今日で三回目です。できれば一年中食べたいです」

「そうね。レギュラー化してくれないかな。わたしもずっと食べていたい」

 ミキちゃんは、話が合ったことを素直に喜んでいるようだったけど、肝心の話をいつしようかと気が気でないのは、落ち着かない目線からあきらかだった。

 わたしは曖昧に断るつもりではいながら、その姿を見ていたら、どうしてもいじらしくて、その言葉を言い出せずにいた。ごめんなさいなんて言ったら、この砂糖菓子のような女の子は崩れて溶けてしまいそうだから。

 わたしたちのメニューが運ばれてきてからも、しばらく無言が続いた。ミキちゃんは目玉焼き乗せのハンバーグステーキをナイフとフォークでカチャカチャいわせながら、もぐもぐとひたすら口を動かしていた。わたしは、ミートソーススパゲティをフォークで無意味になん回転もさせながら。

 フォークを回しながら考えていると、どうしても気持ちが揺らいでいることに気がついた。考えてみれば、こんなタイプの女の子からアプローチを受けるなんて初めてのことだ。今まではタイプの子はおれど、ほぼ百パーセントの確率でノンケだったし、そうでないとしても、上手くはいかないのが常だった。

 しかし、いかんいかん。こんな欲得で考えているから、わたしはずっと失敗してきたのだ。いや、だが、しかし……。

 目の前に座る砂糖菓子のような女の子は、目を潤ませながらひたすら口をもぐもぐさせている。

「友達からじゃだめかしら……?」

 わたしは思わずそう発していた。ミキちゃんはきょとんとして、ハンバーグステーキの石皿にナイフとフォークを乗せたまま、わたしの顔をじっと見つめていた。

「だめかしら……?」

 わたしは同じ言葉を繰り返した。もう後戻りはできない。

 ミキちゃんは今にも泣き出しそうだった。

「はい! いいんですか?」

「……うん。これもなにかの縁だと思う。奇跡的な縁だよ」

「はい、ありがとうございます! お友達でも嬉しいです!」

 それからミキちゃんは、自分のことを嬉々として話し始めた。

 大学ではずっと友達がいないこと。女の子と友達になっても、仲良くなるにつれて恋愛として好きになっていってしまうこと。だから友達が少ないのだと。恋愛体質な自分は、そういう自家中毒的な悩みのせいでなん度も同じ失敗を繰り返してきながら、またわたしのような人に惹かれてしまったこと。

 わたしにはひと目惚れだけど、前の恋人と別れた原因はまったく別にあって、わたしが気にすることはないこと。

 そして、別れた恋人というのは、しっかり女の子であったこと。

「ミキちゃんはさ、どうしてわたしが、その、女の子が好きな人だとわかったの?」

 ミキちゃんは、にやっと笑って、

「わかります。私、私のことが好きな人のことは、見ればわかるんです」

 と言った。


 それからわたしたちは、恋人ではないが友達でもない関係を続けた。連絡先も交換して、毎日のようにメッセージを送り合った。たまに電話もした。それでも相変わらずミキちゃんはJU-JUに来てくれたし、相変わらず季節のフルーツサンドを食べてくれた。一歩ずつではあるけれど、わたしたちの関係性のグラデーションが恋人の色へと近づいていることは、わたしにも、多分ミキちゃんにもわかっていたはずだ。

 それにつれて、ミキちゃんのこともわかり始めてきた。教員採用試験に落ちたのは、実は最初から受かる気はなくて、わざと手を抜いて、面接でもいい加減な態度で臨んだのだそうだ。親への体裁のために、一応受けるだけ受けただけなのだと言っていた。それには理由があって、本当はずっと漫画を描く活動をしていて、それを続けたいかららしい。初めて話したときは恥ずかしがって言ってくれなかったけど、こういう関係が始まると、ミキちゃんは早口で好きな漫画について語るようになった。わたしは、子犬が懐き始めたようで嬉しかった。

 わたしは久しぶりに恋人らしきものができたことの喜びを、少しずつ感じ始めていた。

 それでもわたしは、ミキちゃんのことを恋人にするのを躊躇っていた。友達からなんて卑怯な手で気持ちを愚弄するつもりはなかったけど、それはわたしにとってミキちゃんへの最大限のリスペクトだった。

 悪いのはミキちゃんではない。過去をいつまでも引きずっているわたしのほうだ。

 ミキちゃんの顔を見ていても、どうしても前の恋人の顔が背後にちらついてしまう。たいして未練はないつもりだし、ミキちゃんと彼女は似ても似つかない風貌ではあるけれど、わたしにとってその元カノは、恋をすることの喜びと絶望とを同時に思い知らされた相手なのだ。その二つは、同じくらいの重みでわたしを天に昇らされる気分にもしたし、深い深い淵の底に突き落とされた心地にもした。

 愛は永遠ではないことを思い知らされた相手だ。

 でもその元カノの影は、ミキちゃんと付き合うにつれて、だんだん薄まっていく感じも確かに覚えていた。もしかしたら、ミキちゃんは新たに永遠の愛をくれるかもしれない。そんな淡い期待を持ち始めていた。

 しかし。

 その元カノの姿を偶然見かけたのは、季節のフルーツサンドが、クリスマスの苺サンドから冬の柑橘サンドへ、そして春の桜あんサンドへと移ったばかりの三月の中ごろのことだった。

 わたしとミキちゃんは、繁華街を買い物をしながら歩いていた。三寒四温の温の日で、春物のコートを初登場させて気分が二割増しになっていた日だった。ミキちゃんもわたしの気分に同調するように、うきうきした足取りで歩いているように見えた。

 でもその気分は一瞬にして暗転した。

 信号待ちの横断歩道の向こう岸に、元カノが男と腕を組んで立っているのをはっきりと目で捉えたのだ。

 髪型はまったくもって変わっていたけれど、凹凸の美しい横顔、リネンの白シャツ、薄いターコイズブルーのプリーツスカート、ファーのついたロングコート、スウェード地の黒のピンヒール、すべてはまるまるわたしの記憶の中の映像と完璧に結びついた。記憶は実体のない亡霊ではなく、現実にある重しとなってわたしを押しつぶそうとしていた。

 わたしは思わず、繋いでいたミキちゃんの手を強く握った。ミキちゃんが驚いたようにわたしを見つめた。

「ごめん。なんでもないの」

「ううん」

 ミキちゃんがそう言った瞬間、信号が青に変わった。群衆が動き出した。しかしわたしは、台座に足を固定された銅像のように動けなかった。ミキちゃんと繋いでいた手が、強く引っ張られた。

「美穂さん、青だよ」

「そうだね。わかってるよ」

「渡るよ? 次は靴を買うんでしょ?」

 わたしはそれでも動けなかったので、ミキちゃんは流石に怪しんだ。

 元カノは結局、男と一緒になったのだった。それ以上ないとでもいうような理由でわたしたちは別れたのだ。

 癒えたと思っていたはずの絶望は、またわたしの前に姿を現した。

「どうしたの?」

 わたしより背の低いミキちゃんが、わたしの目を覗き込むように見つめた。

 わたしは結局歩き出しはしたけれど、繋いでいた手は自然とほどけていた。

 群衆と一緒になって、わたしたちはお互い近づいていった。当然、わたしたちはすれ違った。

 すれ違う瞬間、元カノがわたしのことを認知したかどうかなんてまったくわからなかったけど、そんなことはどうでもよかった。わたしは完全に負けたという情けない感情でいっぱいになった。復讐したいのはわたしのほうなのに、これでもかと、彼女はまたわたしを暗い淵へと突き落としたのだ。あまりに残酷だった。

 それからわたしとミキちゃんは当初の予定どおり、お目当てのお店で新しい靴を買った。

 元カノとすれ違ったあとのわたしは、取り乱しはしなかったけど、外の世界の情報がほとんど入ってこない頭になっていた。

 ミキちゃんの顔を見ると、それはいつものミキちゃんで、そのことがもしかしたら、それ以上はない救いなのかもしれないとは思った。ミキちゃんがいてくれてよかったと、そのとき初めて思った。

 靴はミキちゃんが選んでくれた。お店もミキちゃんの選んだ、よく使うお店らしい。実はなん週間も前からわたしのために選んでくれていたらしく、勿体ぶることもせずにその靴を見せてくれた。それは、なん年も人目に付かれていなかった森の土のような茶色をした、革製のオーブリークシューズだった。森の妖精が履いていそうな可愛らしさと大人の女性の落ち着きが感じられるそれは、わたしの趣味にぴったりで、思わずぴょんとジャンプして喜んでしまった。

「嬉しい!」

「プレゼントするよ」

 照れながら言うミキちゃんは、しかしわたしの趣味をわかっている自信を見せつけるような顔をしていた。

「いや、だめだよ。そんな。自分で買うよ」

「ううん。お願いだからプレゼントさせて」

 しばらく押し問答をしていたけど、わたしには拒否する気力がなくて、結局プレゼントしてもらうことにした。学生のミキちゃんにも手が出せない金額ではなかったし、なにより先ほどの一件でわたしはどこかほうけていた。

 試着してさらにそれを気に入ったわたしは、またはしゃいでみせた。そんなわたしを見て、ミキちゃんは目を細めていた。

 店を出て、わたしはミキちゃんに改めて告白された。わたしは驚いて、買った靴を入れた紙袋を落としてしまったけど、二人ともそれはまったく気にしていなかった。

「美穂さん。もう一度聞きますけど、私と付き合ってくれませんか」

 断る理由はなかった。

 でも、わたしは断るしかなかった。


   ※  ※  ※


 ミキちゃんをふってからも、わたしはJU-JUで働き続けた。小説は書き続けたし、JU-JUの店員の顔ぶれも変わらなかった。季節のフルーツサンドは季節が移るにつれて、しっかりとその姿を変えていった。

 でも、ミキちゃんが来店することはなかった。

 ふられたときのミキちゃんは、瞳の奥に暗い靄みたいなものを宿していたように思う。付き合ってもらえるという自信はあったのだろうか。それとも、ふられることをわかって言ったのだろうか。まさか、わたしがあのときに元カノの姿を目の当たりにして、再び絶望したことはわかりはしまい……。

 それはわからないけれど、わたしは、これでいいのだ、これでいいのだと自分に言い聞かせて、いつもどおりの生活を続けていた。

 でもその呪文の効力は薄かった。自分を誤魔化すことはおろか、気休めにすらならなかった。

 前の元カノの姿は不思議なほど綺麗さっぱりなくなってはいたけど、その席にはミキちゃんがもの言わぬ顔で座っていた。

 JU-JUのレジカウンターに立っているときも、お客さんの中にミキちゃんの影を探していた。並ぶ列の奥にミキちゃんがいるような気がして、よそ見をしてお客さんに手渡そうとしていた釣り銭を落としてしまうこともあった。ミキちゃんがこんなラッシュ時に来るはずはないのに。もちろん、店が暇な時間帯、いつもミキちゃんが来るはずのころあいは気が気でなかった。次に入店する人がミキちゃんな気がして、気が急いた。それがミキちゃんであってほしい、いや、ミキちゃんであってほしくない。ぼうっとしているわたしを睨む店長の視線をなん度も感じていた。

 街中で目にする「ミキ」という字面に反応している自分にも気づいていた。それが片仮名のミキだったり、漢字で美紀だったり実希だったりしても、一瞬キンという音が頭の中で鳴って、視線はそこに釘付けになった。友達以上の関係になってから、ミキちゃんの本名は深山未来だとわかっていたけど、わたしの目は、その手の字からしばらく離れなかった。それがミキちゃんであってほしいと同時に、ミキちゃんであってほしくなかった。


 でもそんな願いとは裏腹に、わたしは本当のミキちゃんを見つけてしまった。

 それは、ミキちゃんと別れてから、だいたい一年が経ったときだった。季節のフルーツサンドは、一年前と同じく桜あんサンドだった。

 その日、わたしは仕事あがりににそれを一つ買ってから、JU-JUの入るデパートの三階にある書店をふらついていた。当てもなく、ただ本の背表紙を眺めているだけで落ち着くのだ。

 その日は、いつもは入らないはずの漫画のコーナーになぜか入っていった。

 適当に目を流していると、平積みされている漫画雑誌の表紙に「はるかぜ漫画新人賞発表‼︎」の文字が大きく載っていたのが目に留まった。もちろんまったく知らない賞だったけど、その表紙のデザインは、ミキちゃんの部屋に行ったときに見かけたものと同じで、ミキちゃんが読んでいたやつだ、と懐かしくなって手に取ってみた。

 それは少女漫画の類の月刊誌だった。漫画の内容は不案内なのでよくわからなかったけど、その新人賞の発表のページにあった名前に目が釘付けになった。今回は思い違いではなく、本当だと直感した。そこには、

 ミキミ山

 というペンネームが載っていたのだ。それは「はるかぜ漫画新人賞」の佳作を受賞していた。タイトルは「あたらしい靴」。

 わたしはその雑誌をすぐさまレジに持っていって、デパートを後にした。


 わたしは、デパート近くの小さな川の縁のベンチに掛けて、雑誌のページを捲り始めた。外は薄暮に沈んでいたけど、すぐ脇に街灯があって紙面は読むことができた。

 わたしは桜あんサンドを開封してから、そこでミキミ山の「あたらしい靴」を読み始めた。

 その一コマ目には、

「未歩 未歩」「もう一度チャンスをあげよう」「あるき」「だすのです」

 という文字がそれぞれ白の矩形で囲まれて配置されていた。背景はふわふわとした妖精の世界のような抽象的な図柄だった。

 二コマ目には、現実世界にいる人間は着なさそうな黒いフードを被った少女が目を覚ましたところの描写があった。「パチリ」という擬態語が、可愛い字体で添えられていた。よく見ると、少女は死者を納める棺の中にいて、次のコマでは、棺の中の人間が目を開けたことにざわつく人々の描写があった。

 ストーリーは次のようなものだった。


 まず、前提となっている少女の過去が、二ページ目から回想のかたちで明かされる。

 少女の名前は〈未歩〉。魔導士の国、ジーユ国の王家の一人娘で、その国の筆頭魔道士(といういい方をしていた)としての未来を嘱望されていた。

 筆頭魔導士の役割は、人間世界へと派遣され、秘密結社と結びついて、その黒幕の一人としてさまざまな陰謀を操るというものだ。

〈未歩〉はその修行として、十三歳になった日に、人間界に派遣されることになった。修行というのは実地研修のようなもので、陰謀の補佐をすることだ。現実世界の人間になりすまし、実際に世界を動かしてゆく手伝いをするのだ。

 しかし、修行を達成するためにはいくつかの掟がる。その一つに「人間に恋をしてはいけない」というものがあった。

 順調に修行を進める〈未歩〉だったが、陰謀の被害者となる予定のある資産家を騙していく過程で、躓いてしまう。その家族の一人娘に惹かれ始めたのだ。

 娘の名はアサ。〈未歩〉と同い年の純朴な少女。〈未歩〉のひと目惚れだった。

〈未歩〉は陰謀に関わる中で、どうしても彼女を救いたくなってしまい、機密情報を教えようとしてしまう。

 しかし、その勝手な策略を知られた〈未歩〉は、すぐさまジーユ国へと連れ戻されてしまう。魔導士である父母や教育係にこっぴどく叱られ、お仕置きとして、城の西の端の塔に閉じ込められる。

 塔の中で〈未歩〉は、激しい後悔に襲われる。それは魔導士になれないかもしれないという絶望よりも、アサを救えなかったことへの自責の念だった。

 もっとうまくやれたはずだ。もう一度チャンスが欲しい。

 父母に懇願する〈未歩〉だったが、アサへの恋心も見抜かれていたこともあって、修行は当分の間お預けになってしまう。

 塔に籠るうちに次第に精神を病み、身なりも汚くなってゆく〈未歩〉。

 結局、アサを救えないことを確信した〈未歩〉は絶望し、塔から身を投げて自死する。

 ここで時系列は、一コマ目の棺の中で生き返る場面に戻る。

 呼びかけた声はだれなのかはわからないが、その声の主によって〈未歩〉はもう一度チャンスを与えられる。つまり、同情なのかなんなのか、もう一度蘇り、魔導士になるチャンスを与えられたのだ。しかしそれに失敗すれば、塔に監禁されていた時に戻されて、もう二度とチャンスはやってこない。

〈未歩〉の修行は再開される。しかしそれは、もう一度アサと接触しなければならないことを意味していた。

 最初は順調にそれをこなしていた〈未歩〉だったが、話が進むにつれて気持ちは抑えがたくなっていく。件の陰謀は少しずつ進められていて、アサの家族は山荘に監禁されてしまうのだが、〈未歩〉はそこで見張り番を任されるのだ。

「わたしはどうなってしまうのでしょう……?」

 アサはなぜか〈未歩〉には、少しではあるが心を開き始めていた。そんなアサに瞳を潤ませて聞かれる〈未歩〉の心は揺らぐ。

 もっとアサと関わってしまいたい。だがそうしてしまっては気持ちは本当に抑えられなくなって、修行は達成できないことは必定だ。自分はジーユ国の筆頭魔導士となるために生き返ったのだ。その責務を果たさなければならない。

 しかし、あるときに魔が刺す。

 自分の履いている靴には魔法の効力があって、それを履けば人間の目を誤魔化して、だれにも気付かれずに自由に歩き回ることができる。つまり透明人間のようになれる。

 これをアサに渡せば、アサを逃すことができる。

 その考えに取り憑かれた〈未歩〉は葛藤するものの、最終的にそれを実行してしまう。

「お嬢さん これを履いて逃げるのです」

「あなたはだれ? 本当はだれなの?」

「そんなことはどうでもいいのです わたしは いまだ歩き出していない者」

「いまだ歩き出していない者?」

「はい あなたはこれを履いて歩き出してください」

 結局その靴を履いたアサは逃げることができて、元の生活を取り戻すことができた。

 しかし、当然〈未歩〉は時を戻されて、同じように退廃してゆき、塔から身を投げて死んでしまう。

 再度、〈未歩〉が棺に入れられ埋葬される。

 そのときの〈未歩〉は、アサに渡したのと同じ靴を履いていた。

 

 その靴は、いつかミキちゃんがわたしにプレゼントしてくれた、深い森の土のような茶色をしたオーブリークシューズにそっくりだった。

 わたしは思い出して、自分の足元に目を遣った。紛れもなく、わたしは今その靴を履いている。

 わたしは人目も憚らず、声にならない声をあげて蹲った。肩が蠕動するように波打った。わたしの袖は、わたしの涙と涎に湿った。

 しばらくして顔を上げて、漫画の最後のコマをしっかりと見た。

 そこには、今わたしが履いているのと同じオーブリークシューズを履いているアサが、にこやかな顔で走り回る描写があった。

 その笑顔は、わたしとミキちゃんが初めて自己紹介をしあって、わたしが「よろしくね」と言ったときにミキちゃんが見せたとびっきりの笑顔とまるで同じだと思った。

 そのコマの下端には「eternal fin」という字が添えられていて、漫画は締めくくられていた。

 わたしは背筋を伸ばして深呼吸をしてからスマホを取り出した。アドレス帳を立ち上げ、ミキちゃんの電話番号をタップする。

 ワンコールの後に聞こえてきたのは、ミキちゃんの、

『美穂さん!』

 という元気な声だった。

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