第26話 これから【下】

 一人で……先に……!? それを聞いて思い出すのは、やはり今朝の寝言で――。


 ――どんだけデカくなってんのよ……もう……変態……。


 舌足らずな感じで漏らされたその寝言を思い出すや、戦慄にも似たものが全身をゾワッと駆け抜ける。


「な……何を朝っぱらから言ってんだよ!? まだ寝ぼけてんのか!?」


 あたふたとしながら振り返って言うが、帆波はまだ俺にしがみついたまま。

 いや……ちょ……思いっきり、背中に当たってるしだな。遠慮ない膨らみが……!


「朝っぱらから、て何よ」と帆波がむすっと言うのが聞こえて、「朝だから心配になったんでしょ」


 どういう意味……!?


「てか、お前な……夢と現実を混同するなよ!? まだ何もしてねぇんだから……変な心配するなよ!? 先走りすぎだろ」

「何もってしてないって……何言ってんのよ。私のこと放ったらかしで、一人でさっさとやることやっちゃって……」

「は……!?」


 な……何……!? ちょ……ええええ!?


「何の話を……!?」


 さすがに聞き捨てならないというか。全くもって身に覚えがなさすぎる。帆波が寝ぼけて言ってるだけなら重症だ。相当リアルな夢を見たのか? しかも、かなり俺にとって不名誉すぎる夢なんだが。こいつの中で俺は男として一体、どんなイメージになってんの!?

 無理やり帆波を引き剥がすようにしてぐるりと身を翻し、「お前な……」とそのか細い両肩をガシッと掴む。


「いい加減にしろよな」とまっすぐに帆波のぱっちりと大きな眼を見つめて言って、「夢とはいえ……俺のこと、そんな自分勝手な男だと思ってんのか」

「夢……?」


 きょとん……じゃねぇよ。

 こんなときに、そんな幼い顔立ちをこれでもかと発揮するなよな。パチクリ瞬かせる瞳がいちいちキラキラ清らかに輝いて見えて、今の俺には眩いくらいだ。


「夢……に決まってんだろ」と、たまらず、目を逸らしてボソッと言う。「俺も別に……よく分かんねぇけど、とりあえず……お前を放ったらかしで一人で……その……ようなことは絶対しねぇ、ていうか……」


 って、俺は何を宣言しちゃってんの? こんなこと、わざわざカノジョに言うもん!? しかも、こんな朝っぱらに!?

 ああ、今更、恥ずかしさが燃え上がるように込み上げてくる。変な汗が噴き出てきて、「そういうこと……だ」と我ながらぎこちなく言い捨て、ぱっと帆波の肩から手を離した。


「お前も……さっさと支度しろよ。飯食ったら家まで送ってく……」


 言いかけた、そのとき。グイッとネクタイを引っ張られ、「ぬお!?」と変な声が出た。


「何すんだ、急に!?」

「緩んでる。ネクタイ――」

「あ……」


 言われてみれば。

 心なしか穏やかな表情を浮かべ、「はい」と帆波はキュッと優しく俺のネクタイを締め上げた。

 そして、なぜか、俺をじっと見上げてきて、


「ほんと……しっかりしてるようでバカなんだから」

「なんでそうなる!?」

  

 どこから『バカ』が出てきた!?


「これからは毎朝、私がちゃんとチェックしてあげるわよ」

「毎朝……?」


 ネクタイぐらい、自分でチェックできる――が。まあ、さすがにそれが『口実』だということくらいは分かる。

 要は、毎朝、会おう……てことだよな? それは俺も願ったり叶ったり……だけど。


「いや、でも……俺が家出る頃、お前まだ……」

「早起きするわよ」と帆波は間髪入れずに言って、ふいっとそっぽを向いた。「幸祈の時間に合わせる。早く学校行って、予習とか……してればいいんだし。それくらいの努力はする――したい、て思う。少しでも……幸祈と一緒にいたいから」


 ポカンとして、俺は惚けてしまった。

 己の耳を疑った。

 マジか? マジで……!? 帆波が『予習』? 『努力をする』? そんな言葉がこいつの頭の中にあったなんて……!?


「なに……よ? 文句あるわけ?」


 いじけたように口を尖らせ、上目遣いで俺を見つめるその顔は真っ赤に染まっていて。言葉は相変わらず、刺々しくて、可愛げのカケラもないけど……それがまた可愛らしく思えて、たまらなく愛おしさが込み上げてくる。


「文句なんて……あるわけねぇだろ」

 

 観念したような、気の抜けた声がため息と一緒に漏れていた。


「あっ……そ。じゃあ、これから……毎朝、迎えに来てよね」

「はいはい」

「なんでニヤけてるわけ? なんか言いたいことあるなら言いなさいよ」

「いや」とつい、頬が緩む。「やっぱ可愛いな、て思って……」


 刹那、ガン、と鈍い音がした。

 ぎょっとして、帆波とほぼ同時に振り返れば、


「ひ……広幸さん……? 何してるの?」


 少し引き気味に、戸惑いがちに訊ねる帆波。そりゃそうだよな――と苦笑して見つめる先で、兄貴が洗面所のドア枠に額を打ち付けるような格好で立っていた。真っ暗闇でもない。うっかり、ぶつかった……わけではないはずだが。

 ほんと……何してんだ?


「あ〜……」とまるで二日酔いにでも苦しんでいるかのような情けない声を漏らし、兄貴はゆっくりとドア枠から顔を上げ、「うっかり廊下も歩けない……」


 ぼそりと譫言のようにぼやくや、兄貴はどこか哀愁の滲む表情を浮かべて俺たち二人を見比べ、「うん」としみじみと頷いた。


「――引っ越そう」


*次でエピローグです。ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

 あと一話! 最後までお付き合いいただければ幸い至極です!

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