終章
エピローグ
私には幼馴染がいた。
物心ついたときから、ずっと一緒にいて、記憶を辿ればいつも隣にはそいつがいた。ガサツで不器用で。バカがつくほど真面目な奴。そして、超がつくほどの鈍感――そんな幼馴染が私にはいた。ほんの数週間前まで……。
「――よ、よお……」
ガヤガヤと騒がしく人が行き交う駅の構内。改札を出るや、人混みの中、突っ立つその姿を見つけた。土曜日だというのに――さすが県内屈指の進学校と言うべきか、全員強制参加の補講があったらしい――不憫にも窮屈なブレザーの制服姿。凄まじくぎこちなく片手を上げて私を迎える彼に、つい、苦笑が漏れる。
「よお……って、何よ、その挨拶は?」
「いやあ」とそいつはひきつり笑みで気まずそうに頭を掻く。「そういえば、こういうの……新鮮だな、と思って」
「こういうの、て?」
「ほら……だから、こういう――待ち合わせ」
な……と、思わず、私はポカンとしてしまった。
もごもごと何を言うかと思えば。
「……バッカじゃないの」
「は!? いきなり、なんで『バカ』……!?」
「これがデートってやつでしょ。慣れなさいよね」
ジト目で睨め付けて言ってやると、そいつはほんの少し頬を赤らめて狼狽えて見せるのだ。
らしくないな――と思う。全然、らしくない。『幼馴染』らしくない。
それが……今は、嬉しい。
こういう瞬間、実感が湧くんだ。
ああ、付き合ってるんだな、て。もう『恋人』なんだな、て。
偶然じゃなくて。なんとなく、とかじゃなくて。わざわざ、会える時間を前もって調整して二人で『会う』ために会う。そういう関係になったんだな、て。その実感がたまらなく嬉しい。
だから、もう気にならない。こうして、彼が見慣れないブレザーの制服を着ていても……。こうして、家から電車で二十分もかけて、彼の高校の最寄り駅で待ち合わせをしようとも……。遠くには感じない。だって、会いたい、て言えば、こうして会えるから。ちゃんと彼は私を待っててくれる。それが今は分かるから。会いたい、てわがままを堂々と言ってもいい立場に――『カノジョ』というものになれたから。
なんだろうな、この……無敵感。ニヤける――。
「帆波? どうした? 変な顔して……」
「変な顔!?」ぎくりとして我に返り、確かに緩んでいた頬を引き締める。「な……なんでもないわよ! てか、変な顔なんてしてないし! バッカじゃないの!?」
「なんで、いちいち罵倒するんだ、お前は……?」
「あんたがバカなこと言うからでしょ。――いいから、行くわよ」
サラリと髪を払い、彼の横を通り過ぎる。ああ、もお――と胸の中で悪態づきながら。
『変な顔』って!? 私……どんな顔してたの!? せっかく……可愛くしてきたのに。髪も巻いて、新色グロスつけて、ワンピも花柄のひときわフェミニンなの選んで、デートっぽくしてきたのに。そんな格好して、変顔してどうすんのよ!?
サイアク、サイアク……と繰り返しながら、人並み掻き分け、ズカズカと進んでいると、
「おい、帆波――」
どこか呆れたように呼ぶ声が聞こえて、するりと右手に滑り込んでくるものがあった。がっしりとして逞しい何か――。
「へ……!?」
ぎょっと振り返れば、
「『へ』じゃねぇよ。デートなんだろ」
やっぱり頬を赤らめながら、照れ臭そうに彼は言う。しっかりと指まで絡めて、私と手を繋ぎながら……。
「――お前のほうこそ、慣れろよな」
そっと囁きかけるように言うその声は、慈愛に満ちて。そっと目を細め、あまりに愛おしそうに私を見つめて微笑みかけてくるから。
瞬間、ぼわっと胸の奥が火がついたように熱くなる。
繋いだ手も、心なしか、たちまち熱を帯びていくように感じて。かあっと熱くなる顔はどうしようもなくて。
ああ、ダメ。蕩けそうになる。
きっと、また変な顔になってる……そう確信した。
「何よ、偉そうに」とぶつくさ言って、そっぽを向く。ぎゅっと彼の手を強く握り返しながら。「慣れなくてもいいことだってあるのよ……バカ」
* * *
隣の家に住む坂北帆波は、いわゆる『幼馴染』というやつで。物心ついたときから、ずっと一緒だった。
帆波の両親はずっと共働きで帰りも遅かったから、『何かあったときのために』とウチの親は帆波に合鍵まで渡していた。帆波と二人で下校して、よく一緒に夕飯を食べたりもしていた。すっかり家族の一員で、その関係はこの先もずっと続くのだろうと思っていた。
帆波が隣にいることは俺にとって『当たり前』で、『日常』になっていたんだ。
でも、中学生になり、お互い、思春期というものに突入すると、みるみるうちに会う頻度は減っていった。別々の高校に進学したら、もっと会う機会は減るのだろう、と思っていた。このまま疎遠になっていくのかもしれない、と覚悟もしていた――ものだが。
「何よ、偉そうに」とお決まりの生意気な口を叩きつつ、帆波はぎゅっと健気にも俺の手を握り返してくる。「慣れなくてもいいことだってあるのよ……バカ」
口を尖らせ、頬を紅潮させながらそんなことを言う彼女を、今すぐにでも抱きしめたくなった。
そして、場所さえ違えば――公共の場でなかったならば――抱きしめてもいいのだ、と思うとグッと込み上げてくるものがある。
長かった……としみじみと思う。
今まで、どれほどその衝動を堪えてきただろうか。
帆波の隣で、ずっと『幼馴染』を貫いてきた。決して、手を出さないように――『幼馴染』としての一線を越えないように――己を戒めてきた。どれほど彼女を愛おしく思おうと、それを表に出さないようにひたすら耐えてきた。
でも、もうその必要はないんだ。
俺たちはもう『幼馴染』じゃなくて……帆波がウチに来るのをソワソワと待つだけの立場じゃなくなったんだ。こうして『待ち合わせ』をして、当たり前のように手を繋いでもいい関係になった。でも――。
――慣れなくてもいいことだってあるのよ……バカ。
さっきの帆波の言葉を思い出しながら、そうだな、と心の中で今更ながらに相槌を打つ。
当たり前だ、と思いたくない。思わないようにしたい、と思う。こうして帆波が隣にいることを――、こんなふうに手を繋いで歩いていられることを――、いつまでも『特別』に思っていたい、と思う。
二度と、この『日常』を失いたくはないから……。
「あ……」ちょうど、駅を出たところだった。不意に、帆波は思い出したように声を上げ、「そういえば、広幸さん……車買った?」
「なんだ、急に?」
不躾だな……!?
「うち出るとき、幸祈ん家の前に見たことない車停まってて……広幸さん、ずっと『車欲しい』って言ってたから、とうとう買ったのかな、て思って」
「ああ……いや、買ってない。それ、兄貴の友達の……だと思う」
そういえば、と思い出す。
今日……だったか。帆波とのデートに浮かれてて……すっかり、どうでもよくなってた。
「実は、兄貴、今日から家出るんだ。すごい急なんだけど、ちょうど空きがあったらしくて……大学近くのアパートに引っ越すらしい。それで、友達が手伝いに来る、て今朝言ってたわ」
まるで逃げるように荷造りを進めていたな、と兄貴のその様を思い出しつつ言うと、「へ〜」と呑気な相槌がくる――かと思いきや、
「え……!?」
初夏の青空を衝くかのような甲高い声が上がり、ぎょっとして振り返ると、目をまん丸にして固まる帆波が。
な……なんだ、その反応? そんなに驚く……か? まあ、確かに、いきなり……ではあったしな?
「わ……悪い。前もって帆波にも言っとくべき……だったか」
「じゃあ……もう……広幸さん、家に……いないの?」
呆然として訊ねてくる帆波に、「あ……ああ……」と戸惑いつつも答えると、帆波は何やらハッとして俯いてしまった。
そのまま黙り込む帆波。
え……? いや、何……? だから……なんなんだ、その反応? マジで何なの、その反応!? なんで、そんな……ショックそうな……?
刹那、晴天にも関わらず、ピシャンと頭上から雷でも落ちてきたかのような衝撃が走った。
ショック――! まさか、ショック……なのか? 兄貴が家からいなくなることが……そんな絶句するほどまでに……!?
いや、でも……まさか……! 全部、誤解だ、て――兄貴に会うためにウチに来ていた、てのは嘘だった、て――分かったはずで……。
「どうしよう……サイアク……」
俯きながら、帆波がポツリと言った。やはり、打ち拉がられたような声で……。
さあっと背筋が凍りつく。
「さ……サイアクって……」
「ちょっと……喜んじゃった」
「へ……」
ん? なんて……? よ……『喜んじゃった』?
「今……なんて……」
「ち……違うから!?」と、急に弾かれたように帆波は顔を上げ、「私、広幸さんのこと大好きだから! 実のお兄ちゃんのように思ってるから! 会えないのは寂しいんだから! ただ……」
そこまで言って口ごもると、帆波は視線を泳がし、
「幸祈と……もっと家でイチャイチャできるな、て思っちゃった」
一瞬、駅前の喧騒が全て消え去ったように思えた。静まり返った空間に二人だけでいるような錯覚に陥って……本当にそうであればいいのに、と心底思った。
なん……つーことを言うんだよ?
んなこと言われたら、今すぐにでも家に帰りたくなるだろうが!
「って……何を言わせるのよ、バカ!」
急にカッと火がついたように顔を赤くして、帆波ががなり立ててくる……が、もはやそよ風のよう。理不尽で横暴な責任転嫁も痛くも痒くもなければ、『バカ』も甘美な響きを持って聞こえてくる。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。しかし、口を開けば、トリカブト。――物心ついたときから一緒にいたそいつは、そういう女だった……はずなのに。
もはや口を開こうが、どんだけ毒を吐こうが……今や、可愛い俺の『カノジョ』だ。
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