第24話 約束【下】
「おい……何やらかしてんの」
その訝しげな声にハッと目を覚ませば、目の前には安らかにすうすうと寝息を立てる帆波の寝顔が。どまん前に。重なり合う長く繊細なまつ毛の一本一本まで見えるほどに。そして、右半身にはやんわりと柔らかな感触が生々しい熱をもって伝わってくる。
え……と一瞬、思考が止まる。
あれ……? なんでだ? なんで帆波が俺の隣に寝て――。
「……!」
刹那、脳天に雷でも直撃したかのような衝撃を覚え、昨夜の出来事が超高速再生の走馬灯のように脳裏をよぎった。
バッと飛び起きるや、スパンと頭を叩かれ、
「若気の至りにも程がある!」
飛んできた叱責に振り返れば、珍しく、兄貴が渋い顔でベッド脇に立っていた。
「な……何、勝手に入ってきてんだよ!?」
「まさかと思って念の為、確認しに来てやったの。母さんたちが起きる前に!」
起きる前って……。
ハッとして窓のほうを見やれば、カーテンの隙間からはうっすらと淡く白んだ光が注ぎ込んできていた。
まじか――とさあっと血の気が引く。
もう……朝? いつの間にか寝てた?
確か、帆波がうつらうつらとしだしたから、ついうっかり、横になるか、なんて言っちまって……結局、添い寝する形になって。帆波は帆波で、らしくなく照れる素振りしながら、モゾモゾとすぐ横で身じろぎするし。なんとか抑え込んでいた卑しい欲がぶり返してきて、とにかく必死に理性を保とうと数式を頭の中で並べていたら……隣から寝息が聞こえてきて。人の気も知らないで呑気に寝やがって、むにゃっとたまに漏れる寝言もどきが可愛いわ、この野郎――と苛立たしいやら、愛おしいやら、歯痒いやら。しかし、どうしたもんか、とぼんやり天井見上げて考えていた……ところまでは記憶がある。
つまり、そこで俺も限界が来たんだな。
帆波が眠ってしまったことで、ある意味、諦めがついたというか。可能性が完全にゼロになって、気が抜けたんだろう。思い返せば、昨日はいろいろあったもんな。さすがに心身ともに疲労困憊で、一瞬の隙にコロッと眠気に負けた、てところか。
「よく母さんたちより早く来てくれた、と感謝してほしいくらいだよ」と兄貴は呆れ返った声でぼやくように続ける。「もし、母さんが下の階に帆波ちゃんがいないことに気づいて、『帆波ちゃん、いないんだけど〜』って訊きに来てたら、とんでもないことになってたぞ。母さんのノックなんてあってないようなもんだからな。ノックして0.5秒でご対面だぞ」
返す言葉もない。
渋面浮かべてちらりと隣を――俺のベッドで安らかに寝こける幼馴染……もといカノジョに視線をやる。
兄貴の言う通りだ――。
もし、こんな現場を目撃されていたら終わりだったろう。『気まずい』で済むはずもない。速攻、家族会議。最悪、帆波の両親とも揉めて、別れろ、なんて話にまで発展していた可能性も無きにしも非ず……だよな。たとえ、夕べ、何もなかった、としても。この状況を見られていたら、何を言っても無駄だっただろう。
「お前は俺よりも分別のある奴だと思ってたのに」と兄貴は悩ましげに眉間を揉んでため息つく。「石橋を叩いて渡るどころか、危ない橋でカノジョとヤッちゃうような奴だとは。ほんと……何考えてんの? 初めてで、ここまでスリルを求めなくてもいいでしょう」
「いや、ちょっ……!? 何を勝手に言ってんだよ!? ヤッてねぇから!」
「は? ヤッてないって……」
「さすがに……兄貴も隣の部屋にいて、親も同じ階で寝てんのに、そんな気にならねぇよ」
つい、声が萎む。
罪悪感というか……後ろめたさがあった。そんな気になったことはなかったから――。
危ない橋は渡りかけたんだ。すっかり理性が吹っ飛んで、込み上げる衝動に身を任せた瞬間はあった。まだこの手に、その証とも言える感触が残ってる……感じがする。服の下に手を忍ばせ確かめた、滑らかな帆波の肌の感触。ほっそりとしたその身体のラインをなぞるようにして辿らせたその指先が、そろそろ膨らみに触れようかというとき。思わぬ障害に阻まれ……手が止まった。
アレをあのときは『邪魔だ』と思ったものだが。今思えば――お陰で踏み止まれたことを考えれば――救い主だったのだろう。
まさに、ヒーローだ。
あのまま……勢いに流され、欲望の赴くままに突き進んでいたら、間違いなく、後戻りできないところまでいっていただろう。さすがに……まずかったよな。お互い、初めて……なわけだし。何がどうなっていたか分かったもんじゃない。スムーズに事が進んでも、後処理……とか、あるんだろうし、女の子はシャワーを浴びたい、とか色々あるのかもしれねぇし……その辺も俺はまだ良く分かってないわけで。
「幸祈……」ふいに兄貴は神妙な面持ちになって、まじまじと俺を見てきて、「さすがにその嘘は無理があるだろう、この状況で」
「嘘じゃねぇよ!」
って、我ながら説得力のない状況なのは重々承知だが。
「んー……よくよく考えてみれば、こっちが徹夜でレポート書いている間、隣の部屋でお前と帆波ちゃんが、て思うとかなり気まずいものが……」
「なに変な想像してんだよ!? 何もなかった、て――」
かあっとなって押し殺した声でがなり立てた、その時だった。
「んんっ……」と苦しげな声がして、モゾっと隣で動く気配があった。
起こした!? ――と反射的に口を噤んで振り返ると、
「どんだけデカくなってんのよ……もう……変態……」
一際、はっきりと漏らされたその寝言に「へ……」と呆けた声が漏れていた。
しんと静まり返った部屋に、朝らしくどこからか漏れ聞こえる小鳥の囀りだけが響く。
デ……デカく……? 変態……? え……なに? 何がデカく……? 何の夢を……?
「お前……」
青ざめた顔が浮かぶような――狼狽えた声がして、ぎくりとして振り返ると、思った通り、ドン引きしている兄貴が。
「どんな夢見せてんの……」
「何を言ってんだよ!?」
「いやー……ちょっと待って。こんな気まずいの初めて」
「勝手に気まずくなってんじゃねぇよ! ただの寝言だろが!」
言いつつ、顔が熱くなるのを感じた。
そう、寝言だ。ただの寝言だ。でも……なんの寝言なんだ? ――と思わずにはいられない。
「とりあえず、俺はもう行くわ」と兄貴はメガネの奥で視線を逸らし、気まずさいっぱい顔中に滲ませて後退る。「とにかく……母さんたちが起きて来る前に、帆波ちゃんを起こして下の部屋に戻ってもらうように。ゴミ箱の中も抜かりなく、証拠はちゃんと処分しておくんだぞ。サイズ、合ってなかったかもしれないけども。ごめんね」
なんのサイズだよ……!?
「ちょっと待――」
さすがにここまでドン引きされたまま、放っとけない。慌てて引き止めようとした俺のその声を「待って……!」と隣で遮る声があって、
「まだ……こっちの気は済んでないんだから……!」と帆波が寝返り打ちながら、寝言とは思えぬはっきりとした声で言い放った。「散々、やりたい放題しといて、勝手に行かないでよね!?」
「え……!?」
次の瞬間、グホッと兄貴の咽せる声がした。
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