第22話 邪魔【下】
まさか……ハンペンマンに行く手を阻まれるとは。
押し付けられるように渡されたそれを改めて見下ろす。見慣れた三角形の輪郭に張り付いた、その気の抜ける笑み。思わず、苦笑が溢れた。
はあっとため息を漏らすと同時に、身体の中にこもっていた熱も抜けていくようだった。
危ないところだった――。
完全に持っていかれていた。欲望とその場の勢いに見事に呑まれてた。
まだ、この手に残ってる。ほっそりとしたその身体のラインをなぞるようにして確かめた、帆波の滑らかな肌の感触。思い出すだけで、高揚感とも罪悪感ともつかない胸騒ぎを覚えてしまって――それを掻き消すように、グッとハンペンマンを握り締めた。
惜しかった、という気持ちが無いと言えば大嘘になる。あと少しだったんだから。何度もチラリと見えては、その感触を想像した膨らみに――、男の夢とも言えるその頂きに――、とうとう手をかけようかというとき、ハンペンマンが立ちはだかった。帆波がしっかりと胸に抱いたそれが、通せんぼでもしてくるようにその先へと進む道を塞いだ。
既のところで手を止めざるを得なくなり、そのときは心底『邪魔だ』と思ったが……。
今は、救われたような思いがしている。お陰で勢いを削がれて、冷静さを取り戻せたんだ。
さすがはハンペンマン。良い子の……帆波の味方、か。
「……どうしたの? いつまでハンペンマン見つめてんのよ」
ふいに、訝しげな声が下から聞こえ、ハッと我に返って「あ、いや……」とそちらに視線を戻す。
「助けられたな、と思って……」
「は……?」
見つめる先には、きょとんとする帆波。覆いかぶさる俺の影の中で、眼をパチクリとさせる様は純真無垢そのもの。濡れた唇と、乱れたTシャツがやたらと倒錯的に映る。
すぐにでもさっきの続きを――と腹の底から激しく訴えかけてくるものはあるが。
「今、多分、隣で兄貴も起きてるし、奥の部屋では親も寝てんだよ……」
「何、急に? だから……何?」
「何、て……万が一、声でも聞かれたら――」
「声? 別に……小さい声で話せば大丈夫でしょ。今みたいに……」
「えっ……」
心底不思議そうに言われ、思わず、言葉を失くす。
ああ、やっぱ……こいつ、全然分かって無ぇじゃねぇか――と呆れるのを通り越し、もはや心配になった瞬間だった。
「とにかく、バレたらまずいだろ」と吐き捨てるように言って、帆波の上から身を退ける。「今夜はもう……下、戻れ」
「え……な……何よ、いきなり!?」
ガバッと起き上がった帆波に、「ほら、返すから」とハンペンマンを突きつける。
「返すって……要らないわよ!」
すっかり不機嫌そうにムッとして、帆波はそっぽを向いた。
「要らないって……これが無いと寝れないだろ」
「はあ!? いつの話してんのよ!? てか、もはや……それのせいで、全然寝れてないくらいなのに!」
「これのせいで……?」
「そうよ!」と帆波はムキになってこちらを睨め付け、ビシッとハンペンマンを指差す。「さっきも言ったでしょ!? その人形、呪われてるの! 毎晩のように悪夢見せてくるんだから!」
「あ……悪夢?」
「そう、悪夢! 幸祈が佐田さんとお揃いのバスローブ着てどっか行っちゃう夢とか散々見せられたし、昨夜なんて、私が幸祈のこと雑巾扱いしてる、て夢の中で責めてきて……ひどい奴なんだから! スマホも壊れるし! だから、元の持ち主の広幸さんにも相談したけど、広幸さんにはそういう経験無い、て言われて……正直、お手上げなの! だから、返さないでいいの!」
ばあっと一息にそう言い切ってから、帆波ははたりとして……それから、我に返ったようにハッとした。
しんと部屋は静まり返り、俺はしばらくポカンとしてしまった。
呪われてる……? この人形が? 俺が佐田さんとお揃いのバスローブを着てどっか行く……夢? 『雑巾扱い』……? 元の持ち主である兄貴に相談……?
あ――とその瞬間、全てが繋がった気がした。
今まで不可解だったいろんなことがようやく腑に落ちた。
スッと全身から力が抜けるような感覚があって。拍子抜けにも似た安堵感を覚えて。フッとつい口許が緩んでしまった。
「あ……笑っ……!」と帆波が途端にかあっと顔を赤らめ、「いいわよ、もう! 笑えばいいわよ! 私だってバカみたい、て思ってるんだから! でも、本当なんだから! 一晩、それ抱いて寝てみなさいよ! あんただって、赤点の山に埋もれる夢見せられてうなされるんだから!」
いや……どんな悪夢だよ? こいつの考える俺の悪夢ってそんなんか。
なるほどな――と改めて、呪われているというその人形を見つめる。
そういうことか。だから、これを一晩抱いて寝ろ、て言ってきたわけな。そういえば、論より証拠だ、とか、身をもって知ってもらう、とか……そんなことも言ってたっけ。
「本当……なんだから」
ハンペンマンをまじまじと見つめていると、ボソッといじけた子供みたいに言う声が聞こえて、
「さっきだって……そいつが邪魔したせいで、幸祈、やめちゃったんだし……」
「へ……」
「せっかく、恋人になれたのに……」
視線を戻せば、帆波はしゅんと身を縮こめてベッドの上に座っていた。俯き、唇を尖らせ、しょんぼりする様は……いじらしすぎて、たまらなく唆られるものがある。せっかく鎮めたものもまたぶり返してきそうになるが。
「恋人になれたから……だろ」と諭すように優しく言って、帆波の隣に座り直す。「これからいくらでもチャンスはあるんだし……わざわざ、こんな危ない状況で焦ってしなくてもいいだろ、て話」
帆波の視線を感じつつ、手に持ったハンペンマンを見つめながら「それに……」と俺は呟くように続ける。
「たぶん……さっきは邪魔したんじゃなくて、守ってくれたんだと思うぞ」
「は……? 何言ってんの!? そんなわけないでしょ!?」
即答……!?
どんだけ恨んでんだよ?
「でもまあ……そう、ね」
急にしおらしい声でぽつりと言ったかと思うと、帆波はコテンと俺の肩に頭をもたれかけてきた。
「私も……もうちょっと可愛い格好でしたい、し……今日はいい」
「可愛い格好……」
いや、そういう流れになれば、脱がすだけだから――というのは余計な一言だろう。
そっか。女の子はそういうのも気にするんだな……。
「その代わり」と帆波は俺に寄りかかりながら、囁くように言った。「しばらく……このままでいさせなさいよね、バカ」
なぜ、そこで『バカ』がつく?
黙っていれば、純情可憐を絵に描いたようなのに。相変わらず、口を開けば悪態ばかり。健気な見た目に反して、やっぱ、トリカブトみたいな奴だ。可愛げがない……と思いつつ、そういうところがまた可愛いと思ってしまう自分もいるわけで。
「仕方ねぇな」なんて冗談っぽく言って、そのか細い肩に手を回し、ぎゅっと抱き寄せる。「好きにしろ」
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