第20話 何も分かってない【下】

 言い返す暇もなく。帆波は再び布団にくるまり、ベッドに潜ってしまった。

 一難去った――とホッとすべきところなのかもしれないが、どこか落胆している自分がいるのも確かで。惜しいことをしたのではないか、というモヤッとしたものが胸の奥に残っている。


 一緒に寝るのが嫌……なわけがない。嫌どころか……!


 あんなキスのあとで、こっち来れば? なんて誘われたら、男としての本能その他諸々が奮い立たされ、当然、良からぬが膨れ上がりそうになるわけで。だからこそ、行けるわけがない!

 こんなおあつらえむきな状況で、しかも、不可抗力ながら準備も万端で……正直、我慢できるとは思えない。

 帆波はどうせ昔のノリで誘ってきたんだろうが。俺は……無理だ。すぐ隣に帆波の存在を感じながら、ただベッドに大人しく横になってるなんて拷問どころの騒ぎでは無い。『幼馴染』だった頃ならまだしも。そのも無い今、いったい、どれほど理性を保てるか……。正直、耳元でその息遣いを感じた瞬間、理性なんて吹き飛ぶ自信がある。


 万が一……だ。万が一、ここで手を出して、何かあったら。


 想像しただけでゾッとする。

 ――たとえば、に親が入ってくるとか。

 

 兄貴にも忠告されたっけな。これからは彼氏なんだから、俺が気をつけていかないと……て。せっかく付き合えることになったってのに、帆波が出禁にでもなったらたまったもんじゃねぇ。

 ウチの……特に父親はそういうことに厳しいタイプだ。だからこそ、兄貴もカノジョができても親に紹介するようなことは一切してこなかったし、そもそも家族のいる場でカノジョの存在を仄めかすようなことを口に出すこともなかった……のだろう。


 だから、とにかく。今夜は大人しくするのみだ。


 とりあえず、親が寝静まるのを待って……それから、帆波を下の和室へ送り届けよう。

 改めて気合を入れ直し、くるりと体を机に向き直す。


 ――とはいえ、背後で帆波が俺のベッドの中にいると思うと集中ができるわけもない。参考書を開いてみても、気持ちはどこか浮ついて、頭の中ではモヤモヤと煩悩が漂い、思考を曇らせ、落ち着かない。


 そんなこんなで、参考書を読むをして一時間ほど経ったくらいか。

 先に父親が鼻歌混じりに、しばらく経ってから母親が。ノシノシと二階に上がってきて、俺の部屋の前を通り過ぎて行く足音がした。


 ようやく、ほっと息をつく。


 さっさと参考書を閉じて振り返ると、ベッドにはこんもりと盛り上がった布団が。


「帆波」


 こっそり押し殺した声で呼びかけるが、丸まった布団はピクリとも動かない。

 しんと静まり返った暗い部屋の中、一人、つい渋面になってしまう。


 いや……うん。まあ、な。この一時間、うんともすんとも言わないし、物音一つしかなかったし、嫌な予感はしてたよな。


 そろりと椅子から立ち上がり、ベッドへ歩み寄ると、


「――帆波」


 ギシリとベッドに手をかけながら身を屈め、再び声をかける……が、反応は無し。

 ここまで来れば、確信せざるを得ない。


「やっぱ……寝てんのか」


 苦笑しながらベッドに腰かけ、項垂れた。


 こいつ……マジか――。


 どっと疲労感が押し寄せる。

 まさか……とは思ったが。呑気というか、なんというか。腹立たしいほどに、だ。


「ほんっと……よく寝れるわ」とため息混じりに、つい、吐き捨てるように呟いていた。「人の気も知らないで。無防備もここまでくると嫌がらせだよな。――俺がどんだけ耐えてると思ってんだ」


 こっちは眠気なんて覚えてる余裕もなかったんだぞ。理性と煩悩の荒波に揉まれに揉まれて、船酔いする勢いだった、てのに。よくもまあ、すやすやと寝てくれるよな。


 緊張の糸がプツリと切れた音がした――ような気がした。


 身体からふにゃりと力が抜けて、投げやりにゴロンとベッドに横になる。

 なんだろう。ここまで安心しきってもらえるというのは、恋人として嬉しくもあり……反面、情けないものもあるな。

 煮え切らない想いを胸の奥に覚えつつ、天井を見上げ、


「そろそろ俺も限界だ、ていい加減、分かれよな。マジで襲うぞ」


 やけくそ気味に、そんなことを独りごちた――瞬間だった。


「襲うって……?」


 ぽつりとか細い声が聞こえた。

 ヒュッと心臓が縮むような感覚があって……。

 恐る恐る、隣を――声のした方に顔を向ければ、


「襲うって……言った?」


 ひょっこりと布団から顔を覗かせながら、どこか眠たそうなとろんとした眼で帆波が俺を見つめていた。

 げ……! と一瞬にして血の気が引いて、


「あ、いや……違っ……!」と咄嗟に上体を起こし、慌てて声を上げていた。「決して、危害を加えよう、とか、金を奪うとか、そういう意味の『襲う』ではなく……言葉のあやというか……」


 あたふたとそんなことを捲し立てる俺に、帆波は顔を顰めてムッとした――かと思えば、「分かってるわよ、ばか」と掛け布団に鼻まで潜らせ、ぽそりといじけたように呟いた。


「ほんと……あんたって、何も分かってないんだから。――我慢しないで……てもう言った」

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