第16話 証拠【下】

 幸か不幸か。もはや分かんねぇわ。

 俺の部屋に来て神妙な面持ちを浮かべる母親。何を言い出すかと思えば――。


 ――ヒロの部屋に帆波ちゃんが来てる様子、ないわよね? 


 ヒソヒソ声でそんなことを訊かれ、一瞬、惚けたのは言うまでもない。

 なんで兄貴!? と全身全霊でツッコミたくもなったが。帆波なら俺の部屋にいるから……なんて言い返したところで、もはや失うものしかない。喉元まで来た文句は飲み込んで、「なんで……だよ?」と訊いてみると、


「一応、預かってる身として、何かあったらお前の親に申し訳が立たない――てさ。だから、一応、偵察に来たんだろうな」

「何かって……?」


 訝しそうにぽつりと言う帆波。いまいち、ピンと来ていない様子――って、マジか。この状況でよくピンと来ないな?

 俺は意味ありげな視線を向け、「まあ……ようなことだろ」とボソッと言う。

 すると、帆波は「こういう……?」と眉根を寄せてから、ハッと目を見開いた。


「え……あ……ちょっ……違うから!? 別に、私は……変なことしようと思って来たわけじゃなくて! さっきは……その、勢い余って乗っかっちゃったけど……! ただ……幸祈に抱いて寝てもらおうと思っただけだから! このハンペンマンを!」

「ああ……それは分かってるよ……」


 いや――分かってなかったけども。思いっきり良からぬ期待したけども。

 不可抗力……だよな。

 そりゃあ、ベッドの上で、いきなりカノジョが跨ってきて、『朝までずっと抱いててほしい』とか言い出したら、思考はやましい方向に一直線だし、反射的に身体も反応するわ。まさか、ハンペンマンのことだと思うわけない――って、ハンペンマン!?

 

「いや……ちょっと待て!? ハンペンマンって……!? 朝までずっと抱いててほしい――て、そのぬいぐるみのことか!?」

「は……? 何よ、今さら? 当たり前でしょ。他に何を抱いて寝るっていうのよ?」

「何って……!?」


 お前だよ――なんて言えるわけもねぇ!

 思わず、ぐっと口を噤む俺を不思議そうに見てから、おもむろに「てか……さ」と帆波はドアの方へちらりと視線をやった。


「やっぱ、納得いかない、ていうか……不思議なんだけど。なんで、おばちゃん……私が広幸さんのこと好きだ、なんて誤解してるんだろ? 小さいころは、確かに遊んでもらってた記憶はあるけど……最近は顔を合わせたら話すくらい。幸祈とのことがバレるんならまだしも、なんで広幸さん……?」

「あ……ああ……」


 そこ……やっぱ、気になるか。

 まあ、俺も下で聞いたときはギョッとしたしな。兄貴かよ!? と渾身のツッコミを心の底から叫びたくなったもんだ。

 ただ……母親の言うことを聞いて、納得してしまったのも確かで。ほんの少し……だけど。まだ、モヤッとしたものが胸の奥に残っていることに気づいてしまった。

 ふと、脳裏に蘇ってくる。うっかり聞いてしまったさっきの会話――。


「まあ……兄貴に会いに来た、なんて聞いたら誤解もするだろ。お前、昔から兄貴に懐いてたし、兄貴のこと頼りにしてるもんな。俺よりも……」


 気づけば、ぽろりとそんな嫌味のような言葉が溢れ出ていた。

 あ――と思ったときには、時すでに遅し。


「なによ、それ? どういう意味?」と帆波はすっかり表情を険しくして、訊いてきた。「俺よりも……て何よ?」


「あ、いや、違っ……!」


 慌てて言いながら、何が違うんだ? と我ながら思った。

 失言だ。

 言えるわけもないのに。さっき、実は兄貴との会話を盗み聞きしたんだ、なんて……。広幸さんだけが頼りだったのに――と弱々しい声で漏らす帆波の泣き言を聞いてしまったんだ、なんて……。


「あんた、まさか……」


 ハッとするなり、グイッと顔を寄せてくる帆波。

 バレた――!? とぎくりとして、思わず、身を退いた。


「ち……違う……違うからな!?」

「何が違うのよ!?」


 おっしゃる通り……!


「やっぱり、あんた――あんたまだ、疑ってるわけ!? 私が広幸さんのこと好きだ、て!」

「いや、悪い、わざとじゃ――!」


 事情はどうあれ、盗み聞きなんて最低だ。誠心誠意謝らねば、と潔く頭を下げた……のだが。

 ん……? とはたりとして、つい閉じていた瞼を開く。 


「違う、て……ちゃんと言ったのに」とぶつくさ不機嫌そうに呟く声がして、「やっぱり……論より証拠なのね」


 論より……証拠?

 なんだ? 盗み聞きの話じゃ……ない?

 ゆっくりと顔を上げるや、グイッと胸ぐらを掴まれ――、瞬間、ふわりと唇に触れるものがあった。

 身に覚えがあるようで……新鮮な。甘く柔らかいその感触を味わう暇も無く、そっと掠めるようにしてそれは離れ、


「こ……これで身をもって……分かったでしょ」と俺の胸ぐらを掴んだまま、ムッとしつつも今にも泣きそうな――これでもかと羞恥に歪んだ帆波の顔が目の前にあった。「こんなこと……あんたにしかしないから。バカ……!」

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