第12話 奴【下】

「尾田くん……か」


 真っ暗な部屋でベッドに横になりながら、ぽつりとその名を口の中で繰り返す。

 珍しい苗字でも無いはずだが、不思議と今まで一度も『尾田くん』と出会ったことがない。俺にとって全くもって馴染みのない苗字。それが……帆波の口からさらりと出てきたことに、少なからず衝撃を受けた。

 俺の知らない奴が、今、帆波の周りにはいるんだな――と当然のことを思い知った気がした。

 別に、引っ越したわけでもない。帆波は隣に住んでて……今や、カノジョだ。前よりも距離は縮まった……はずなのに。ここにきて、別の学校だという事実が重くのしかかってくる。


 ――私、てっきり、奴が……。


 帆波が言いかけたその言葉が脳裏に蘇る。それだけで、また、なんともいえない苛立ちが込み上げてくる。ムシャクシャして、いてもたってもいられなくなる。

 奴って誰なんだ? 本当に『尾田くん』じゃないのか? 他にも誰かいるのか? 、そいつに何されたと思ったんだ?

 思い返してみれば、ウチに泊まる、と言い出したときも変だった。あんなに頑なに泊まるのを断ってきたのに、急に俺を追いかけてきて『今夜は一人になりたくない』なんて……。しかも、夢中で抱きついてきて、ガタガタと震える様はまるで怯えてるみたいで。泥棒でも入ったのか、と思ったくらいだ。

 もし、あれが……『奴』に関係しているとしたら――。


「ストーカー……とか」


 無意識に口から漏れ出ていたその言葉に、自分でゾッとした。

 まさか、と思いたいが……納得できてしまう。

 俺が置いてきた人形を見つけて、てっきり、それをストーカーからの物だと思い込んだのなら――。

 しっくりくる。全ての辻褄が合う。いきなり家を飛び出してきたのも、あんなに取り乱して抱きついてきたのも、急にウチに泊まる、と言い出したのも……筋が通ってしまう。

 

 ただ、それなら尚更、なんでだ――という気持ちが湧き起こってくる。


 なんで、俺じゃないんだ? なんで兄貴なんだ? 俺じゃ……そんなに頼りにならないのか? 確かに、モテた試しは無ぇけど。帆波が初恋で、初めてのカノジョだ。そういう意味では……兄貴の方が恋愛経験も豊富だし、頼りになると言えばそうなんだろう。さすがにストーカーの経験は無いと思うが。

 でも、やっぱ……頼ってほしいと思ってしまう。たとえ、役に立たなくても……いや、どうにかして役に立ちたいと思うから。帆波のためなら、俺はなんだってできる。どんな手を使ってでも、帆波を守る――それくらいの覚悟は、もうずっと昔に決まっていて。だからこそ、彼氏になったんだ。それなのに……。


 なんて……ウダウダと頭の中で考えていたところで、どうにもならねぇよな。


 俺を頼れ――なんて無理強いするようなものでも無い。いくら彼氏とはいえ、そんなことを強要するのは間違ってる……よな。帆波が誰を頼るのかは帆波が決めることだ。俺は……頼り甲斐のある彼氏というものになれるよう精進するだけ、だよな。

 ふうっと息を吐き、瞼を閉じる。

 とりあえず、しばらくは帆波の様子を注意深く見守ろう。少しでも様子が変なことがあれば、そのときは……もうなりふり構ってられねぇ。兄貴に訊くだけだ。本当に帆波がストーカーに困っているのなら――帆波の身に危険が迫っているとなれば――兄貴もきっと口を割るだろう。

 そうと決まれば……まずは明日、帆波にさっきの態度を謝るか。

 ストーカー……と決まったわけじゃねぇけど。何かしら困っていることは確かで。きっと不安だろうに。勝手なエゴでムキになって問い詰めた挙句、突き放すような真似をしてしまった。


 大丈夫だろうか――。


 未だに一階からはテレビの音が聞こえてきていた。

 まだ、両親は……というか、父親が晩酌を続けているのだろう。帆波はまさか、こんな時間まで付き合わされているなんてことはないよな? もう寝てるはず。あの和室で、俺が運んだ羽毛布団の中で一人くるまって……。


「……」


 不安と焦りが混ざったような……モヤッとしたものを胸の奥に覚えた――そんなときだった。

 何か、物音がした気がした。兄貴もまだ起きてるのか、なんて思ったのだが、


「んぐお……!?」


 いきなり腹に重石でも落とされたような衝撃があって、ハッと目を開けば、


「なっ……!?」


 暗がりにうっすらと白く浮かび上がる影があった。三角形の輪郭に、二つ並んだつぶらな目。のっぺりとした笑みが、すぐ目の前に浮かんでいた。


 目をパチクリと瞬かせながら、突如として現れたそれを見つめる。


 意味が……分からなかった。

 どういう……ことだ? なんだ? なんなんだ、この状況? なんで、いきなり――ハンペンマンの人形が!?


「『奴』よ」


 ふと、静かな声が落ちてきて、暗闇に馴染み始めた視界に人影が浮かぶ。

 白いハンペンマンの影の向こう。ハンペンマンを俺の目の前に突き出しながら、俺の腹の上に乗っかる小さな影があった。

 はっきりと姿は見えないものの。その声にシルエット。そして、何より……今、ウチでをするような奴は一人しかいない。


「ほ……帆波?」


 何をしているんだ、と訊ねようとした瞬間、帆波はさらにずいっとハンペンマンを俺の顔面に近づけてきて、


「これが『奴』よ! ――分かった!?」

「わ……分かんねぇよ!?」

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