第8話 ゆくゆくは【下】

「母さん、運び終わったけど……」


 ガチャリとリビングの扉を開けて入るなり、


「おお、幸祈!」と大袈裟に驚く兄貴の声がした。「まさに、噂をすれば、だな」

「なにが『まさに』なんですか、広幸さん!? 幸祈の噂なんて一ミリもしてなかったでしょう! も〜、ほんと酔っ払っちゃって〜」


 ぱあっと笑う帆波の……なんとわざとらしいこと。

 なんだ、あの慌てぶり?

 しかも……兄貴と二人して立ってるし。どういう状況なんだ……?


「早く寝た方がいいですよ、広幸さん! 明日の実験に響きます!」

「ああ……そうだった、そうだった」


 へらりと笑って、「じゃ、おやすみ〜」と兄貴はのらりくらりとこちらに向かってくる。

 そこまで酔っているようにも見えないが……兄貴はどんなに飲んでも、あんまり顔に出ない。というか、普段からヘラヘラしてて酔っ払っているみたいだから、大して差異がない……だけな気もするけど。

 ただ、酒の入った兄貴は普段以上に面倒臭い。

 一応、警戒していると、


「幸祈もおやすみ〜」


 すれ違いざま、軽い調子でそう言って、


「あ――俺、隣で寝てるから。頼むな」

「は……!?」


 頼むな、て……!? 何をだ――て訊くまでもなく分かる!

 ぎょっとして振り返るが、――非難の眼差しを向ける暇もなく――すでに兄貴はリビングを出て、その背中はバタンと閉じられた扉の向こうにあっさり消えた。

 言い逃げか……と恨めしく扉を睨め付けていると、


「あの……お手洗い、お借りします!」


 慌てたように帆波がそう言う声が聞こえて、ハッとして顔を前に向き直す。

 帆波はそそくさとプリンのカップをゴミ箱に捨てるところで。母親と何か言葉を交わして、くるりとこちらに身を翻した。

 なんとなく……気まずいというか、気恥ずかしいというか。

 内心そわそわしつつも、平静を装って扉の前で佇んでいると、帆波は俯き加減で歩み寄ってきて、ちらりと俺に一瞥だけくれて通り過ぎていった。

 それだけで、ぞわりと背筋が疼く。


 こんなことで――と我ながら呆れてしまうが。

 思わせぶりなその眼差し一つでも、ああ、付き合ってるんだな、なんて実感が湧いて……顔がかあっと熱くなるのを感じた。


 いやいや、まずい。

 さすがに、親の前でたじたじになるわけには……! まさかこんな反応一つでバレるとは思えないが。ちょっとでも勘づかれるようなことがあったら、これから面倒だ。

 今後も変わらず、帆波と二人きりで家で会いたい――と思うならば、親には俺たちの関係は知られない方がいいだろう。もし、付き合ってるなんて知られたら……きっと、今まで通りにはいかなくなる。帆波の出入りに関して、色々と制限をつけられかねない。


 帆波がリビングから出ていく気配を背中に感じつつも、あえて無視を決め込み、俺は平然とリビングのソファへと移動する。

 やがて、パタンと扉が閉じる音が聞こえ、俺は何気なく(の体を装って)テレビを点けた。

 大して興味もないバラエティ番組を適当に流しつつ、ソファに座っていると、


「ほら、やっぱりそうでしょう、お父さん」


 ダイニングの方から、何やらコソコソと――本人はしているつもりなのだろうが、いつも丸聞こえなんだよな――母親が切り出すのが聞こえてきて、


「ゆくゆくは帆波ちゃんも、ウチの娘になるのかしらね〜」


 んん……!? なんて……!?

 思わず、ぎょっと目を見開き、馬鹿正直に振り返ってしまった。

 う……ウチの娘って……もしかしなくても、!? さっきの一瞬でバレたのか? ――と焦る俺をよそに、両親は俺の方をちらりとも見ておらず。母親はいそいそと父親の向かいに座ると、ホクホクとした笑みを浮かべて「私、昔から言ってたでしょう」と得意げに続けた。それに父親は「まったく……」と渋い顔を浮かべ、


「滅多なことを言うもんじゃない」

「ああ、そうね! 今の時代、当たり前のように『お嫁に来る』ものと思っていてはいけないわね。ウチは男二人もいるし、婿に出しても構わないしねえ」

「そういう意味ではなく……当て推量で盛り上がるべきではない、と言ってるんだ」

「でもねぇ……この前だって、帆波ちゃん、わざわざヒロに会いに来たのよ。自分で言ってたんだから。『広幸さんに会いに来たんです』て、それはもう真っ赤な顔で……。あのとき、やっぱり――て確信したのよ。昔からよく懐いているな、とは思ってたけど……やっぱり、帆波ちゃんはヒロのこと好きなのね、て」


 確信を持ってきっぱり言い切る母親。

 俺は口をあんぐり開けて固まってしまった。


 あ……兄貴かよ――!? と心の中で叫んだのは言うまでもなく。


 ホッとしていいのやら、憤慨すべきなのかも分からず……ただ、茫然としていると、


「帆波ちゃん、ヒロの前だと雰囲気がガラッと変わるのよね」と母親はしたり顔で捲し立てる。「子供らしくなる、ていうか。気を許している感じがあってね。きっと信用しているのね。さっきもやたら慌てて……なんだか怪しい、ていうかね。あんなに動揺する帆波ちゃんも珍しいでしょう。見ていて、微笑ましかったわあ」

「ヒロが酔っ払ってたから困っていただけだろう。そういうくだらない憶測はやめなさい」


 やれやれ、と全く相手にしていない様子の父親の言葉に、全くだ――と胸の内で頷くべきところのはずなのに。

 何か……もやっとしたものが胸の奥で渦巻くのを感じた。

 なんだろう?

 父親の言う通り、くだらない憶測……だろう。帆波にとっても兄貴は『お兄ちゃん』で特別な感情は無い、て帆波本人から聞いた。俺も納得して、付き合い始めた……はずなのに。

 確かに――と思ってしまったんだ。母親の言葉に……。

 そう……なんだよな。帆波が昔から兄貴に懐いていたのは事実で。今でも、兄貴の前だと態度を変える。しおらしくなって、たじたじになって、すぐに平静を失って……無くなる。

 そんな帆波を目の当たりしていたからこそ、『広幸さんに会いに来ただけだから』と言われてくだらない憶測をしてしまったわけで――。


 ゾワッと身の毛がよだつようなおぞましい感覚が全身を駆け抜け、思わず、立ち上がっていた。


「ああ……幸祈!」


 そのときになって、母親が思い出したような声を上げ、


「羽毛布団、重かったでしょう。運んでくれてありがとうね」

「ああ、いや……」


 曖昧に返事して――それくらいしかする気にならなくて――俺は逃げるようにリビングを出た。 

 背後では「羽毛布団って、この前、お義母さんにもらったやつか?」と今度は羽毛布団の話が始まっていた。――帆波用に、と母親に頼まれ、二階の押し入れから一階の和室までさっき俺が運んできた羽毛布団だ。

 後ろ手にリビングの扉を閉めながら見つめる先……廊下を挟んだ向かいには、その和室の襖がある。

 今夜、帆波が止まる部屋で、昔はよく一緒に寝ていた部屋だ。

 

 あの頃は単純だったよな、なんて一人佇みながらぼんやり思う。

 幸祈が一緒だから平気だもん――そんな一言で奮い立てた。それだけで十分だった。守りたい、て純粋に思えた。

 でも、今は……余計な感情が邪魔をする。

 

 はあ、と重いため息が漏れていた。

 

 自分でも驚いた。まだ、己の中にそれが――兄貴への嫉妬が――残っていること。

 もう全部勘違いだった、て分かってるのに。その件は片付いたはずなのに。ちょっと揺すぶられただけで、蘇ってくるとは。

 我ながら面倒臭い奴だ、と辟易する。

 決して、帆波の気持ちを疑ってるとかじゃない。そういうことじゃない……んだが。

 なんとも言えない息苦しさを覚えて、グッと拳を握りしめた、そのときだった。

 

「はあ!?」


 突然、そんな素っ頓狂な声がすぐ横の階段から響いてきて、ぎくりとして振り返る。


「な……なんだ?」


 間違いなく、兄貴の声……だったけど。あんな調子の外れた兄貴のそれは、聞いたことがない。

 何か……あったんだろうか?

 酔ってる、て話だったし……一応、様子を見に行くか――と階段に足をかける。一段一段と登っていくにつれ、暗がりの中、段々と話し声がするのが聞こえてきた。

 兄貴の声……ともう一つ。コソコソと話す聞き覚えのある声がした。


 帆波だ――と気づいて、はたりと足を止めた瞬間、


「広幸さんだけが頼りだったのに。広幸さんが分からないなら、私、もうどうしたらいいか分からない……」


 今にも泣き出しそうな……帆波の張り詰めた声がした。

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