第2話 バカ【下】
またか。人をバカバカ、と好き放題罵りやがって。
全く……と呆れながらも怒る気なんて起きやしない。それどころか、愛おしさがより一層募るだけだった。
そりゃあ……大好き――なんて言われたら、お手上げだよな。どんな罵詈雑言も痛くも痒くもない。もはや、可愛くすら思えてくるんだから……参る。
「バカで悪かったな」
冗談混じりに言って、帆波の背に手を回してぎゅっと抱き寄せる。すると、俺の胸の中で帆波ぴくりとして、ぐすん、と嗚咽を漏らした――かと思いきや、
「もっとバカなら良かったのに……」
おい――!?
「どういうワガママだ!?」
「そしたら……同じ学校行けたのに」
聞き逃しそうな……くぐもった声だった。
ハッとする。
同じ学校――か。
なるほど。そういう意味で、もっとバカなら……なんて言ったのか。
なんつー……健気なワガママだよ、とため息が漏れた。
昔から、手先は器用だった帆波だが。勉強となると途端に不器用になった。特に、『算数』が苦手で。いつも隣で涙目になりながら宿題をやっていて……ついつい、手伝ってしまっていた俺にも責任がある気もするが。
とにかく。
だから、いつかは……高校に上がったら、離れ離れにならざるを得ないのだろう、と覚悟はしていた。予言とか占いとか不確かなものとは違う。それは――その未来だけは、はっきりとした数字となって目に見える形で表れてしまっていたから。
でも、受験が本格化して、いよいよ、その未来が確かなものになるにつれ、やっぱり焦った。
それまで、一緒にいるのは当然のことで。そこに、別に俺らの意志があったわけでもなく。偶然、家が隣同士で、同い年で……帆波の両親が共働きだから、ウチで預かることになっただけ。運命――とでも言えば、少しはロマンチックにでもなるのかもしれないけど。そんな風に考えられるほど、当時の俺に余裕は無かった。
帆波との関係性は、偶然が重なって築かれた……脆いものに思えた。
ちょっとでも状況が変われば――、通う学校が変わった瞬間――、あっさりその関係は崩れてしまう気がした。
脈無しだと……信じ込んでいたから。まさか、帆波が自ら望んで俺の傍に留まろうとしてくれるなんて思ってもいなかったから。
別の高校に入って離れ離れになったら、それまで。当然のように一緒にいる日常は無くなって……疎遠になるのだろう、と思っていた。
それが、まさか――。
思いもしなかったこの
今となっては、だが。離れ離れになって正解だったのかもしれない……とも思う。
もし、同じ学校で……まだあの『偶然』の延長線上にいたら、きっと今も『幼馴染』という成り行きの関係に甘んじていたのだろう。お互いの気持ちに気づけぬまま――気づくきっかけもなく――ずっとすれ違い続けていたのかもしれない。
結果オーライというか。終わりよければ全て良し、というか。これでよかったのだ、と思いつつ……。
でも、やっぱ……それでも――と思ってしまう自分がいるのも事実で。
『恋人』として学校でも一緒にいたかった、なんて贅沢を言いたくなる気持ちもある。
ウチの制服を着た帆波と、一緒に電車に乗って登校する様を想像するだけで、胸が高鳴ってしまうから……。
「――そう……だな」
苦笑を零しながら、呟くようにそう相槌打って、
「確かに……お前のブレザー姿も見たかった、と思うよ」
気恥ずかしいのをごまかすように、そんなことを冗談めかして言うと、
「バカじゃないの」と吐き捨てるように呟き、帆波はそっと俺から身を離した。「それくらいなら、別に……同じ学校じゃなくても……いつでも見れる……じゃない」
「へ……」
同じ学校じゃ……なくても? いや、同じ学校じゃなければ、うちの制服は着ないだろう?
何を言ってるんだ?
帆波の言った意味がよく分からず、きょとんとしていると、帆波は赤らんだ顔を少しムッとさせ、まだ潤んだ瞳で俺を上目遣いで見つめながら言った。
「幸祈が見たい、て言うなら……どんな格好でもしてあげる、て言ってるのよ。この鈍感」
どんな格好でも、て……。
そのとき、ふっと思い浮かんでしまったのは、ウチの品行方正な制服などでは無く。決して大っぴらには口にできないような、あられもなく生々しい己の願望で。言うなれば、さっき見たワンピースに近いそれで。
念の為に、近くのラブホも調べておくよ。コスプレ好き?(笑)――そう送ってきた佐田さんからのメッセージが脳裏をよぎった。
ぞわっと疼くものを腹の底に感じて、たちまち、全身が熱くなる。
いや、待て。いやいや……!
絶対、違うだろ。帆波はそんな……いかがわしいコスプレとか、そういう意図で言ったわけでは無く……じゃあ、どんな意味かと問われたら全く分からねぇけど。
とりあえず、俺が想像してしまったようなものではないはずだ……!
興奮と困惑の波に翻弄される俺をよそに、帆波はちろりと視線を逸らし、その
「バスローブでも、なんでも……」
え……バスローブでも――!? って、いや……だから、なんで、バスローブなんだよ!?
ああ、そうだった……と思い出す。付き合い始めた頃から、ずっと引っかかっていたんだ。ことあるごとに帆波の口から飛び出すようになったその単語。この唐突で謎めいた帆波のバスローブへの執着……!
さすがに、もう――気になって仕方ない。
「帆波、お前、バスローブと何が……!」
問い詰めようとしたときだった。「ああ、もお……!」と帆波はふいっとそっぽを向き、
「何言わせるのよ、バカ!」
「俺!?」
「とにかく……さっきの、ありがと」
あり……がと?
何が……だ? 急に、しおらしくなって……どうした? バスローブは……もういいのか?
「私も……同じ」ぎこちない手つきでそっと髪を耳にかけながら、帆波は真っ赤な顔でもにょもにょと言う。「幸祈の傍にいたい、て思ったから――ううん、幸祈に傍にいてほしい、て思ったから……『彼女』になりたかった。幸祈の傍が一番安心できるから。ずっと一緒にいたい、て思う。だから……朝も、学校でも幸祈がいないのが厭。幸祈と同じ学校が良かった、て思っちゃう。
夜だって……ベッドの中で幸祈のこと考える。ここに居てくれたら――ていつも恋しくなる。昔みたいに……来てくれたら、て思う」
それは、たどたどしい口調ながらも……あまりに真っ直ぐで――、あまりに帆波らしからぬ素直な言葉で――、ズガン、と思いっきり心を打たれた。
その衝撃に息すらできなくなって、石像のごとく固まる俺に、帆波はふいに視線を戻した。――その眼差しは真剣で。その表情は、どこか申し訳なさそうにも見えた。
「でも……」と躊躇いがちに帆波は口を開いた。「幸祈の家には、もう泊まれない」
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