終章

第1話 バカ【上】

 ウチに……泊まりに来ないか?

 え……なんで? なんで、急に? 今日、学校サボった……から?


「別に……大丈夫、よ?」と私は訝しげに幸祈を見ながら答える。「お母さんの目覚まし時計、あるから。今夜はちゃんとそれセットして寝るわよ」

「いや……目覚ましの心配はしてねぇわ」


 呆れ気味に言ってから、幸祈はあの眼差しで――胸の奥がじんと熱くなるような、慈愛に満ちた眼差しで見つめてきて、


「お前は……大丈夫なのか?」

「大丈夫って……何がよ?」

「明後日まで一人なんだろ?」


 ぱちくりと目を瞬かせてしまう。

 さっぱり理解できなくて。なんで、幸祈がそんなことを確認してくるのか。


「そんなの……今さら、でしょ?」と私はぎこちなく笑って応える。「今までだって、二人の出張被ることなんてよくあったし。スマホ壊れてるのは、まあ……初だけど。――別に、平気よ。もう私も子供じゃないし。それに、ホームセキュリティあるし」


 すると、幸祈はぷっと吹き出した。どこか、皮肉げに……。


「なによ? なんで笑うわけ?」

「いや、ホームセキュリティか、と思って……」

「ホームセキュリティが何よ? なんか文句あるわけ?」

「まあ――そこは『幸祈おれが一緒だから平気だもん』って言って欲しかったよな。昔みたいに」


 ちらりと意味ありげな視線を寄越して、幸祈は微苦笑を浮かべた。

 へ……とぽかんとして、私は固まった。

 幸祈が一緒だから……平気だもん? ……?


「え……? は……? な……何言ってんの!? 私、そんなこと……」


 あたふたと言いかけた言葉がぶつりと途切れる。

 いや……記憶には無いけど。はっきりと覚えているわけではないけど。でも、そんな風に思っていた覚えは確かにあって。実際に、どんなに一人で寂しくても……幸祈が一緒にいてくれたら我慢できたから。


 言っててもおかしくない――!


 かあっと顔が熱くなる。

 別に、もう私の気持ちは幸祈にバレバレなわけなんだし。照れる必要も無い……はずなんだけど。

 でも……なんというか……その頃の私は、私であって私じゃなかったというか……まだ無自覚で、恥じらいとかも無い時期で……そんなこと、今の私じゃとてもじゃないけど、言えないようなことだから……。


「じ……時効でしょ、そんなの! いつの話してるわけ!?」と私はふいっとそっぽを向いて、わあっと夢中でがなり立てる。「もう……全然平気よ! 留守番くらいで泣きべそかくような歳でもないんだから。一人なのもとっくに慣れてるし! だから、心配してくれなくていい――」

「慣れるようなことじゃないだろ」

 

 独り言みたいな……どこか冷ややかな声だった。

 ハッとして視線を戻せば、幸祈がこちらを見ていた。今度は、思い詰めたような険しい表情で。


「言っとくけど……俺はずっと心配してたからな? お前と連絡つかなくなって、昨夜からずっと気になってた。なんなら今朝も、電車に乗り遅れるギリギリの時間まで、門の前でストーカーみたいに待ってたからな」

「え……」


 そう……だったの?


「……ごめん」


 そういえば……結局、幸祈にも知らせ損ねてたんだ。

 一昨日、佐田さんのことで喧嘩して、捨て台詞吐いて幸祈の部屋飛び出して……そのまま音信不通になっちゃって。それじゃまずい、と思って、今朝、学校に行く前に知らせておこうと思ったけど、目が覚めたら十時過ぎてて間に合わなくて、そのまま……。


 そっか――心配させちゃってたんだ。


「謝ることはねぇけど……」


 頭を掻きながら歯切れ悪く言って、幸祈は口ごもった。視線を泳がせ、ぎこちない――何か躊躇うような間があってから、意を決したように息を吸い込み、


「あの……な」と頰を赤らめ、力のこもった目で私を見つめて切り出した。「俺にまで気を遣うこと無ぇからな!?」

「へ……」

「それがお前の癖みたいなもんだ、て分かってはいる……つもりだ。結局、ウチだってお前にしたら他人ひとん家なわけだし、迷惑かけたく無い、とか思うよな。『寂しい』なんて言ったら、ウチの親を困らせるから……我慢してたんだよな」


 思わず、息を呑む。

 

 自分でももう忘れかけていた――それは古びた記憶だった。


 大丈夫? と幸祈のおばちゃんに訊かれるたび、焦っていた。焦って……平気、ていつも笑って答えた。

 心配させたくなかったから。

 幸祈のおばちゃんにもおじちゃんにも……そして、お仕事中の『ママ』と『パパ』にも。

 だから、無理して笑った。嘘吐いて強がった。


「でも、もうそういうのいいから」はにかむように苦笑して、幸祈はそっと優しく私の頭に手を乗せた。「俺には強がらなくていい。寂しいなら寂しい、て俺には言っていい。そのために――そういうとき、傍にいてやりたい、と思ったから……俺は『彼氏』になったんだ」


 あ――とその瞬間、脳裏に響いたのは葵の言葉で。

 さすが藤代くん! とはしゃぐ葵の声が頭の中に蘇ってきた。


 それは、まだスマホが無事だったとき。一昨日の朝のこと。『寂しい』の四文字がどうしても送れなくて……『さしみ』と打ち間違って送ってしまった私のもとに、『間違ってるぞ』って幸祈から返事がきた。

 あのとき、葵は『以心伝心だ』、て言った。ひねくれ者の私のことも幸祈はお見通しだ、て。

 結局、勘違いだったけど。幸祈は『さしみ』の真意に気づいてはいなかったけど。そのまま、『刺身』と受け取っていたけれど。


 でも……でも……葵の言う通りだったんだ。


 メッセージを送る必要もなく、幸祈は――幸祈だけは分かっててくれてた。お見通しだったんだ。ずっと分かってて、傍にいてくれてたんだ。


 ああ、ダメだな、本当に。今日はもう……涙腺がおかしい。

 ぐわっとこみ上げてくるものがあって。瞬く間に歪んでいく視界の中、幸祈がぎょっとするのが見えた。


「え……なんで……どうした、帆波!?」

「どうした、じゃないわよ」


 涙声になるのも構わず言って、私はばっと幸祈に抱きついた。


「大好きだな、て思っただけよ。――バカ」

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