第22話 誘い【下】
母親の力は絶大だよな、と思う。
スマホの向こうから『あ、幸祈!?』とその声が聞こえてきただけで、一瞬にして冷静さを取り戻せてしまった。
さっきまで、帆波に覆いかぶさってキスをしていたのが、まるで嘘のよう。このまま、兄貴から譲り受けた『絆創膏』を使うことになるんじゃないか、とさえ思えたのに。腹の底からフツフツと滾るようにこみ上げてきていた勢いはふっと消えて。まさに、冷水でもぶっかけられた気分。そこはかとない虚しさだけが、すっかり熱の引いた身体に消し炭の如く残っている……。
そんなこととはつゆ知らず、スマホの向こうでは母親が相変わらずの早口で捲し立ててきていた。
『あんた、帆波ちゃん家にいるのよね? 母さん、さっき、棚卸し終わって帰ってきたんだけど……今、
夏海ちゃん――とは帆波の
家に様子を見に行ってほしい、とはどういうことだ? そんなの、帆波に頼めばいいことじゃないのか?
訝しげに思っていると――『なんで?』なんて問いかける隙もなく――、母親が一際息巻いて畳み掛けてきた。
『あんた、本当に帆波ちゃん家にいるんでしょうね? まさか、ヒロみたいに『友達の家に行く』なんて嘘吐いて変なとこ行ってないわよね? 帆波ちゃん、そこにいる? 一緒なの? 帆波ちゃん、無事!?』
え……? なに……? なんなんだ?
『友達の家に行く』なんて嘘吐いて、兄貴、変なとこ行ってたの――て、そこは心底どうでもいい!
「いや、帆波は……」
戸惑いながらも、そろりと帆波に視線を向ける。
帆波は『どうしたの?』とでも言いたげに心配そうにこちらを見ていた。
無事か――と言われれば無事なんだけど。
ちょこんとソファに座る帆波。その髪は乱れ、顔はほんのりと上気して……ぷるんとした唇はいつにも増して艶めいて見えて。
何をもって『無事』と言うのか、なんて哲学じみたことを考えそうになる。
ついさっき、帆波を押し倒し、散々キスした挙句、本能に流されるままにその唇の間に舌までねじ込もうとしていたのは、他でもない俺であって。母さんから電話が無ければ、あのあと、いったい何をやらかしていたか分かったもんじゃない。そんな俺が、果たして『無事だ』と軽々しく言っていいものやら。
帆波のおばちゃんからしたら……さっきの状況も充分、『無事』ではないだろう。
でも、まあ……だからといって、『俺が襲いかけたけど、大丈夫』なんて馬鹿正直に母親に言えるわけもないし、言うわけもない。
後ろめたさはぐっと胸の奥に押し込むことにして。「無事……だけど」と歯切れ悪くなりながらも答える。
すると、母親はスマホの向こうで――疑うふうもなく――『ああ、良かった』と安堵のため息を漏らし、
『担任の先生から夏海ちゃんのところに連絡があって……今日、帆波ちゃんが学校を無断欠席したみたいなのよ。珍しいでしょう。それで、帆波ちゃんに電話したらしいんだけど、ケータイは全然繋がらないし、家に電話しても誰も出ないし……何かあったんじゃないか、て心配してるのよ』
「……は?」
なん……だって?
無断欠席? 電話が……繋がらない?
帆波を見つめる目が疑るように鋭くなるのが、自分で分かった。
それからしばらく、母さんの小言が続いたが、俺はもうそれどころじゃなくて。「ああ」「ああ」と適当に相槌打ってあしらって、俺は電話を切った。
スマホを手に、ふうっと一息吐く。
さて、どこから問い詰めたものか――と、まだ考えも纏まらないうちに、
「どうしたの?」と隣から訝しげな声が聞こえた。「なんで、私の話……」
いや、『なんで』じゃねぇだろ。
「どうした――はこっちのセリフだ。今のはお前の安否確認の電話。うちの親がおばちゃんに頼まれたんだ、て」
「安否……? なんで? 私……元気だけど」
「そう――元気なくせに、なんで学校休んでんだよ!? 担任からおばちゃんに連絡行ってんぞ」
ぴしゃりと言うと、帆波は一つの間を置いて「あ……」と目を丸くした。
「そういえば……」
「『そういえば』……!?」
「ね……寝坊したのよ! 悪い!?」
「悪いだろ! 要はサボりじゃねぇか!」
「仕方ないでしょ! スマホ壊れて、アラーム鳴らなかったんだから。文句あるなら、あんたが朝、起こしに来てくれれば良かったでしょ!」
「無茶を言うな! お前のスマホが壊れてるなんて、俺、知らねぇ――」
があっと勢いよく言い返そうとして、はたりとする。
スマホが……壊れてる?
その瞬間、カッと脳裏に閃光でも走ったようだった。
ああ、そういうことか――と一瞬にして、全てが繋がった気がした。
すっかり忘れかけてた……けど。帆波に電話が繋がらなくてやきもきしていたのは、おばちゃんだけじゃなくて。何を隠そう、俺も……だ。昨夜からずっと、帆波からの連絡が無くて……電話もLIMEも無視されて……それでずっと悩んでて、佐田さんにも相談して……。
なんだよ――。
「お前なぁ……」がくりと項垂れ、頭を抱えていた。「スマホが壊れたなら壊れた、て……連絡くらいしろよ。
今までの心労がどっと一気に押し寄せてくるようだった。
走馬灯のように昨夜から悶々と悩んで過ごした時間が脳裏を駆け巡る。
ああ、ったく……どんだけ悩んだと思ってる?
着拒なんてらしくないから……よっぽどのことを俺はしてしまったんだ、と自責の念に駆られて、いったいどこから何をどう間違ってしまったんだ、てそればっかり考えて、授業にも全く身が入らなかった。いつ、スマホに帆波からの連絡が入るやら、と机の下でスマホを確認してばかり。俺は俺でもう……実質、今日一日、学校サボったようなもんだよ。
それが、なんだ。スマホが壊れただけ、て……。
はあっと気の抜けたため息が漏れる。
腹立たしいけど。呆れるけど。それ以上に、やっぱりホッとしてしまう自分がいる。
どんな不平不満も吹っ飛ぶほどの安堵感。着拒させるほど帆波を追い詰めたわけじゃない――て分かれば、もう十分だ、て気になってしまう。
「急に連絡つかなくなったら……心配すんだろ」
苦笑混じりにやんわり言うと、「別に……」と帆波がぽつりと答える声がして、
「心配する、なんて思わないじゃない」
いじけた
ハッとして顔を上げ、
「いや、心配する……だろ」
何言ってんだ、と責めるように言えば、帆波はケロリとした様子で肩を竦めた。
「だって、気づかれなきゃ心配もしないでしょ」
「は……?」
「学校休んだことも、電話が繋がらないことも気づかれると思ってなかったもの。今まで、出張中にわざわざ連絡してくることも無かったし。まさか、高校生にもなって先生から親に連絡が行くとは思わないし」
あ……と息を呑む。
これ、俺の話じゃない。
心配する、なんて思わない――て、俺じゃなくて……。
「うちの担任、真面目そうだしな……。たしかに、家電使って連絡入れとくんだった。家電の存在、すっかり忘れてた。仕事中に余計な心配かけちゃったな」
さらりと髪を耳にかけながら、そんなことを呟く帆波はいたって普通で。落ち着いているというよりは……機械的にも思えるほど淡白な感じがして。
目に涙溜めながら、ハンペンマンを胸に抱き、『幸祈が一緒だから平気だもん』なんて強がっていた彼女とはまるで別人に思えた。
それは『成長』というよりは『慣れ』のような気がして……。
「おばちゃんにも謝っておいて」と帆波はこちらを見て、申し訳なさそうに苦笑した。「ただの寝坊だから大丈夫です、て。スマホも手を滑らせて、落としちゃっただけだから」
「帆波――ウチに泊まりに来ないか?」
気づけば、そんな言葉が口から転がり出ていた。
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