第16話 恋人らしいこと【下】
失敗した、と思った。
服を着替えて戻ってきた帆波は珍しいほどに落ち着き払って、口数も少なくなって――まるで、俺以外の男に対する態度に変わっていた。他人行儀とまではいかないまでも、よそよそしいというか……なんとなく、『距離』を感じた。
たこ焼きを焼き始めてからも、それは変わらず。テンションは下がったまま、時折、ため息を漏らしながら黙々とたこ焼きをひっくり返すその様は、落ち込んでいるようにさえ見えて……。
ああ、間違ったんだな、と悟る他なかった。
いったい、どこで何をどう間違ってしまったのやら。さっぱり分からねぇけど。
泣くほど腹を空かせて、たこ焼きを楽しみにしていたはずの帆波のこのテンションの下がり具合……。明らかに、何かが期待外れだったのだろう。帆波からどんより漂うコレジャナイ感が凄まじい。
思ったより楽しくないな――て心の声が聞こえてくるようで。
不甲斐なさに胸がすり潰される。
カレシとして情けねぇ。
そりゃあ、怒らせて当然だ……と思うが、それにしても、だ。
目を瞑って、口を開け――て、何!?
なんだ? なんなんだ? そんなに顔を真っ赤にして、必死な形相で……いったい、何をする気なんだ?
ものすごく……怖いんだが!?
「ほ……帆波……落ち着いてくれ。怒る気持ちは分かるが……」
「はあ!? 誰が怒ってんのよ、バッカじゃないの!? 目を瞑ってる間に、焼き立てのたこ焼きを口に入れてやろう、と思っただけよ!」
「やっぱ、怒ってんじゃねぇか! なんだよ、その罰ゲームは!?」
「ば……罰ゲーム!?」
ぎょっと目を剥き、帆波は一時停止。しばらく言葉も出ない様子で唖然としてから、しゅんとしおらしくなって俯いた。そして、いじけたように尖らせた唇で「なによ……」とぽつりと漏らす。
「私はただ、恋人らしいことしようと思っただけなのに……」
「恋人……らしいこと?」
無防備に目を瞑る人間の口の中に、アツアツのたこ焼きを放り込むのが? 口内火傷待った無しの鬼畜の所業のどこが……『恋人らしいこと』なんだ!?
「勘違い……しないでよね」と帆波はたどたどしく頼りない声で続ける。「私だって『初めて』なんだから。誰かの『恋人』になるのも……初めてだし。『恋人とたこ焼きする』のも初めて。幸祈とこれからすること、全部初めてなんだから」
ハッとする。
目から鱗というか。ああ、そういえば――と気づかされた。
そう……も言えるんだな。お互いに……。
十年近く、ずっと一緒にいて、いろんなこともしてきたけど。それは全部、『幼馴染として』だったから。『恋人として』は……そのどれもが初めてのことになるのか。
「今は二人きりになるだけで、ドキドキして……嬉しいし、楽しいの。――そう見えなかったのなら謝る。ゴメンなさい」
ゴメンなさい――言い慣れないその言葉に戸惑うような……ぎこちないその片言が
、今はたまらなく愛おしく思えた。
きゅうっと胸が締め付けられる。
ああ、良かった、と心底思った。帆波が着替えてくれて……本当に助かった。
もし、今もあの格好で目の前にいたら、止められなかっただろう。きっと、今にも抱き締めて……何をしていたか、分かったもんじゃない。
「帆波……」
体の奥底からじわじわと滲み出てくるような衝動をぐっと堪え、せめて……と頭を撫でようと手を伸ばしたときだった。
「だから……」と急にばっと帆波が顔を上げ、真剣そのものの面持ちで睨めつけてきた。「目を瞑って、口開けなさいよ!」
「なんで、そうなる!?」
「なんでって、だから……恋人らしく、たこ焼きするんでしょ!?」
どこか意地になったように捲し立て、帆波は皿に乗ったたこ焼きを一つ、近くにあった箸で摘まんで、俺のほうに「ほら!」と突きつけてきた。
「早く……目瞑って、口開けて!」
いや……いやいや……湯気が……! 湯気がすごいから……!?
これのどこが『恋人らしい』んだ!? アツアツなの、たこ焼きだけだろ! こんなもん、ただの嫌がらせじゃねぇか――と、迫り来るたこ焼きに背筋を凍らせた、その瞬間だった。
「ほら……」と帆波は急に勢いを萎ませ、真っ赤な顔を恥ずかしそうに歪めて言った。「目瞑って、あーん……して」
あ……あーん……? 『あーん』――!?
ピシャッと電流でも全身を駆け抜けたようだった。
あ――と気づく。ようやく、理解した。帆波がしようとしていること。このシチュエーションの本来、在るべき姿を……。
そうか。『あーん』か……。『あーん』だったのか。『あーん』をしようとしていたのか。
なるほど。それは確かに、恋人らしい……が。『あーん』するものの温度を考慮に入れてほしかった……と思わずにはいられないが。今は、それは置いとくにして――。
「なんで、目を瞑らせようとするんだ!?」
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