第14話 危険な気配【下】

「早いって……何が?」


 きょとんとして訊いてくる帆波。その手に持った袋には、まだ切れ込み一つ入っていない。ひとまず、ホッとしたい……ところだが。


「何がって……」


 当然、答えに詰まって口ごもる。

 ――マジで……『早い』ってなんだよ!? 俺はいったい何を口走ってんだ!?

 なんで、『早い』なんて言った? いや、確かに……ゆくゆくは、と思ってはいるけど。いつか使う気は満々だけど。今、それを声高らかに宣言するとこじゃねぇだろ……!?


「血も出てるんだし……『早い』ことはないでしょ。こういうときのためのものなんだから」


 こういうときのためのものでは無ぇんだよ……!

 血じゃないんだ。それが止めるべきものは、もっと別のもので――て、そんなことを考えてる場合じゃねぇ。


「とにかく……落ち着け、帆波! よく話し合おう!」

「はあ? 何を話し合う、て言うのよ。いったい、なんなの? 急にそんな取り乱して……」


 疑るように目を細め、帆波はじいっと俺を見つめてきて、


「なーんか……あやしい」

「……!?」


 ずばり言われて、思いっきりギクリとしてしまった。


「あ……あやしい、て……!?」

「何を絆創膏くらいで、そんなにムキになってるわけ?」と帆波は絆創膏……ではないソレを握り締めたまま、腰に手を当てがった。「――もしかして、怖いの?」

「怖……え!?」


 怖い……とは!?

 いや、確かに怖いけど。全てを知った帆波に、いったい、どれほどの侮蔑を含んだ目で見られるのかと思うと……いろんなものが縮み上がりそうだけど。

 そんなこと、帆波が知る由もない……はず。


「怖いって……何がだよ?」


 必死に笑みを取り繕って惚けると、「ははーん」とばかりに帆波は怪しげな笑みを浮かべて、俺の顔を覗き込んできた。


「そういえば、幸祈って……注射とか苦手だったわよね」


 ん……? なん……だ? なぜ、注射……!?


「注射が……なんだよ?」

「予防接種に行く日はいつもげんなりしてたもんね」

「い……いつの話してんだ!?」

「強がらなくていいわよ」


 意味ありげに笑い含み、帆波は再びソレの袋を開けんと両手で摘む。


「大丈夫。痛くしないであげるから」

「それ、俺のセリフ――じゃなくて……!」


 まずい――と、俺は慌てて手を出し、帆波の手から無理やりソレを奪い取り、


「とにかく、いいから! ――自分でつけれる!」


 苦し紛れに飛び出したその言葉にハッとして、たちまち、ぶわっと顔が熱くなるのを感じた。

 たまらず、帆波に背を向け、あああああ……と声にならない叫びを上げていると、


「なんなのよ、もう……? 変な幸祈……」


 不満げに帆波がぼそっとぼやくのが背後から聞こえた。


 いや――いやいや。変になるのも仕方ねぇだろ。


 元凶は俺だ。コレを持ち込んでしまった俺に非がある。兄貴に押し付けられたとはいえ、ポケットなんかに不用心に入れてきた俺が悪い。それは分かってる。分かっている……が。帆波も帆波だ、と八つ当たり紛いな憤りを覚えずにはいられない。

 知らないとはいえ、カノジョがこんなものを手に詰め寄ってきたら、そりゃあ動揺もするだろう。それも、そんな――淫らな格好で、だ。


 ああ、さっき感じた柔らかな感触が蘇ってくる。


 いきなり抱きついてきた帆波。ふにゅっと押し付けられたその胸元の感触を、生々しいほどに感じてしまって。もしかして……とは思っていたが、その瞬間、確信してしまった。帆波は今、ノーブラなのだ、と。生身の身体にほんの一枚、纏っているだけ。その薄い布の下には――なんて考え出したら、身体が勝手に昂り始めてしまって、平静を保っていらなくなった。押さえ込んでいたはずの欲情が湧水の如く湧いてきてしまって……そんな状態で、こんな四角い袋なんて出されたらたまったものではない。

 頭の中は妄想一色。『帆波がつけてあげるね♡』なんて幻聴まで聞こえてくるようで……いっそのこと、したくなってしまった。

 帆波から奪い取ったソレをぎゅっと握り締める。

  

 危なかった――。


 危機一髪だった。いろんな意味でギリギリだった。

 あとは、とにかく……ティッシュで止血して、自然な形で絆創膏を回避するだけだな。


「さて、と……」ふいに、気を取り直したように帆波が言うのが聞こえて、「あとは私がやるから。幸祈はたこ焼き器の準備してて」

「ああ……」


 こっそりと傷口をティッシュで押さえながら、顔だけ振り返り、


「食材は適当にいろいろ持ってきたから、お前が好きなの――」


 そこまで言って、ハッとする。

 ――いや、ちょっと待てよ。


「なに……よ? どうしたの?」


 口ごもって固まる俺を、不思議そうに見つめてくる帆波。その様は純真そのもの。ぱちくりとさせる瞳は、キラキラと輝くようで。あどけなさを残した顔は、きょとんとした表情が実にしっくりとくる。毒さえ吐かなければ――見た目だけは――無垢な天使そのものだ、とつくづく思う。だからこそ……際立つ。その装いの淫らさ加減が。

 そして、どうしようもなく唆られてしまう。


 ああ、状況は何も変わっていないのだ、と悟った。

 決して、危機を脱したわけではない。

 四角い袋は今もここにあるわけで。腹の底ではゾワゾワと確かに蠢くものがあって。他には誰もいない二人きりの家の中、大好きなカノジョはあられもない姿で目の前にいて……。


「いや、なんでもない……」と口では言いつつ、逃げるように目を逸らす。


 ダメだ。危険すぎる。もはや――誘惑しかない。

 大丈夫なのか? こんな状況で、俺はのんびりたこ焼きなんてできるのか? どうにか、理性を保つ方法を導き出さねぇと……と考えあぐねていると、


「あ、そうだ。私、着替えてくる」


 思い出したように言う帆波の声が聞こえて、「へ……」と惚けた声が漏れた。

 着替え……?

 ぎょっとして視線を戻せば、帆波は自分の服(と言っていいのかも、俺には分からないが)を見下ろし、「さすがに料理には向かないわ」とぽつりと呟いた。

 思わぬ正論というか。まあ、確かに。その通り……だが。

 ――じゃあ、そもそも、なんでそんなものを着てきたんだろうか、という疑問も湧く。


「ごめん。ちょっと待ってて」

「あ、ああ……」


 ギリギリほどに、ひらりとワンピースを靡かせ、帆波はさっさとリビングを出て行った。


 バタンと閉じられた扉を見つめ、「あれ……」と俺は茫然と一人で佇んだ。

 肩透かしでも食らったような……そんな気分だった。

 着替えてくれれば、俺としては万々歳――ではある。どんな服に着替えてくるのかは定かではないが、より刺激的なものはまず無いだろう。帆波を見るたび、理性がグラつくような……そんな危うい状況から逃れられる。


 危機は去った、と今度こそ、ホッとしてもいいくらい……のはずなのに。


 なんなんだろう。

 物寂しいというか。物足りないというか。そこはかとなく……落胆している自分がいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る