第13話 危険な気配【上】

 幸祈の左手の人差し指をダラリと赤いものが伝っていた。先っぽから流れ出るそれは、明らかに血で……。

 ぞっとした。


「ああ、これは……」と幸祈は思い出したように苦笑して、ダイニングテーブルの上に置かれたティッシュ箱からティッシュを一枚さっと取った。「さっき、タコ切ってるとき……ちょっとな。大したことねぇよ」

「大したことないって……でも、血が……」

「こうしてればすぐ止まる。大丈夫だ」


 ティッシュで傷口を押さえ、はは、と笑う幸祈の笑みに無理した様子は無い。私に言われるまで、忘れていたみたいだし……そこまで痛く無い、てことなんだろう。血も『おびただしい』って量でも無い。大ごとにするほどでもなさそうだ……けど。


 厭だ……な。


「本当に……大丈夫?」


 そろりと幸祈の傍に寄り、きゅっとスウェットの袖を掴んで訊ねる。


「ああ……大丈夫だ、て。ちょっと包丁が擦っただけだから」

「ちゃんと見せて……」

「見せてって……」

「傷、よく見せて」


 じっと見つめる先で、傷口に当てられたティッシュが赤く滲んでいた。

 料理をしていれば、怪我をすることだってある。慣れていれば――慣れているからこそ、うっかり手元が狂うこともある。珍しいことでもない。私もたまにこういう怪我はする。これくらいの出血ならどうってことない、て分かってる……はずなのに。

 それが幸祈だと……厭だ。大したことないって頭で分かっていても、その血を見るだけで身体が竦む。すごく――怖い。


 幸祈の視線を感じる。

 渋るような間があってから、幸祈はゆっくりとティッシュを外した。


 きゅっと唇を引き結ぶ。

 一センチほどの傷だ。ザックリ切れてしまっているけど、深くも無さそう。

 良かった――と思いながらも、まだ背筋はヒヤリと冷えたまま。ゾクゾクと悪寒がして落ち着かない。


「な? 大丈夫だから。心配すんな」


 優しくそう宥める声は、今は逆効果で。愛おしいと思えばこそ、込み上げてくる不安がある。

 漠然とした……そこはかとない心細さに襲われて、がばっと――幸祈の顔も見ずに――彼に抱きついていた。


「ほ……帆波!? どうした……!?」


 私よりずっと逞しいその身体をぎゅっと強く抱き締め、厚い胸板に顔を埋める。


「ちゃんと……気をつけなさいよね、バカ」

「え……あ、ああ……」


 そういえば、もうずっと幸祈の生傷なんて見ていなかったな――。


 昔から『やんちゃ』ってタイプじゃなかったし。いつも腹立たしいほどに冷静で落ち着いてて、『ドジ』とか『おっちょこちょい』とかとは無縁の奴だから。

 急に怪我なんてされちゃうと……思い出しちゃうじゃない。幸祈も無敵じゃ無いんだ、て。当たり前のように、この先もずっと一緒にいられる保証は無いんだ、て。何があるか分からないんだ、て思い出して不安になっちゃう……。


「幸祈は怪我しちゃダメなんだから」

「なんだ、そのワガママは……?」

「今夜はもう……何も切っちゃダメ」

「何も……!? それはさすがに……」

「何よ? 文句……あるわけ?」

「いや、文句とかは……無ぇけど」ともごもごと言ってから、幸祈は気を取り直すように咳払いして、「――てか、いったん、離れろ! 今、抱きつかれるのはちょっと……まずいというか……」


 まずい……?


「なんで……よ?」

「なんでって……だって、お前、その格好――」

「格好?」

「いや、ほら……それ、白いから! すごい……白いだろ!? 俺の血がついて汚したら悪いな、と……」

「何、それ……」


 まったく……て呆れる。その鈍感さ。バカみたいに真面目なところ。気づいて欲しいことには気づかないくせに、余計なことには気が回る。そういう幸祈が好き。大好き……だけど、もどかしい。


 もし――正直に言ったらどうなるんだろう?

 汚されてもいい、て。汚されるつもりで……着てきたんだ、て。


 いや……無駄よね。

 だって、今、幸祈の頭の中にはたこ焼きしかないんだ。それ以外のことは何も考えてない、てはっきり言われちゃったもん。幸祈はきっと、ぽかんとするだけ。

 潔く、今夜は諦めよう。

 これ以上は、暖簾相手に一人相撲するようなもの。不毛すぎる。

 そんなことより、今は――。


「広幸さんにお礼言わないと……ね」


 気持ちを切り替え、私はそっと幸祈から身体を離した。


「兄貴……?」

「これ――さっそく、役に立ちそうだから」


 ずっと握り締めていた拳を幸祈の目の前で開く。すると、そこには可愛らしいデザインの四角い袋が。広幸さんから幸祈が押しつけられたという絆創膏だ。玄関でのゴタゴタがあって……うっかり返しそびれて、お風呂場まで持って行ってしまっていた。

 広幸さんは、私を守るため、とその絆創膏を幸祈に渡したようだけど……幸祈がどうしても返して欲しそうだったから、ちゃんと返そうと思って持っていたのだ。


「指出して。貼ってあげる」


 袋を両手で持ち、封を切ろうと指に力を込めた。

 そのときだった。


「ちょ……待て、帆波! それは、まだ――早い!!」


 幸祈のひどく取り乱した声が辺りに木霊した。


「は……『早い』……?」

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