第10話 何、それ?【下】

 そういえば、タコなんて切るの初めてだな。

 料理なんて、たまに母親の帰りが遅いときに、適当に――チャーハンとか焼きそばとか――手軽なものを作るくらい。もちろん、たこ焼きなんて冷凍のものをチンしたことしかないわけで……下準備はスマホで検索するところから始まった。

 幸い、検索してみると、ゴロゴロと分かりやすいレシピが溢れていた。

 これは助かる――と、その中で一番、見やすいサイトに的を絞って、スマホでそれを見ながら、とりあえず生地を作り、まずは基本のタコ……と進めていったのだが。


「1.5センチって……どんくらいだ?」


 包丁を手に、まな板の上のタコを睨めつける。

 性格……なんだろうか。こういうとき、きっちり定規でも使って測りたくなる。

 父親のつまみの残りか何かだろう――ウチの冷蔵庫にあった茹で蛸を勝手にくすねてきたわけで。足一本分も無い。替えもきかない。一発勝負だ。俺の切り方次第で、のちのたこ焼き(タコ入り)の個数が決まる。

 脳裏に浮かんでくるのは、さっきの帆波で。やる気満々だったんだから――と、俺の下で涙を流して訴える帆波の姿がまざまざと蘇ってくる。まさか、あそこまで楽しみにしていたとは……。心底意外だったが。その期待をもう裏切りたくないと思えばこそ、包丁を入れるのも躊躇いが生まれる。


 苦手だ……とつくづく思う。


 これが例えば、数学とか化学とか……そういう問題なら――全てが数値化されていれば――ぱぱっと計算して終わりなのに。こう……感覚の塩梅とか、手先のさじ加減とかが絡んでくると、途端に弱くなる。


 そこんとこ、帆波は強いんだよな。


 慣れ、てやつなんだろう。

 塩胡椒少々――とか、何の躊躇いもなく、できるもんな。

 昔から、ぶつくさ俺に小言を言いながらも、手際よくでうまい飯を作れてしまえるところは心から尊敬していた。まあ、そうやって『はあ? バカじゃ無いの!?』なんて毒吐きながら帆波が作った料理に舌鼓を打っては、『料理の一番の隠し味は愛情っていうのは嘘なんだな』と思ったものだが。


 ただ――今思えば、まんざら嘘でもなかったのかもな、なんて……。


「って……何を一人でニヤついてんだ」


 さっさと準備しとかないと。いつ、帆波が風呂から出てくるともしらないんだ。

 顔を引き締め、腹を括ってタコに包丁を入れる。

 きっちり1.5センチかどうかは定かではないが、いい線は行っているだろう。この調子ならば、二十等分……くらいになるか?

 間隔さえ掴めば、あとは単純作業だ。慣れてきて、トントントンとまな板を打つ音もリズミカルになってきたころ、


「何、それ?」


 突然、そんな声が聞こえて、ぎくりとして思わず包丁がタコの上を滑った。

 あ……と思ったときには、包丁の切っ先が人差し指に。


っ……!」

  

 帆波――!?

 いつのまに……風呂から出てたんだ!? 扉が開く音も全然聞こえなかった。そこまで、俺はタコに集中していたんだろうか……?

 なんにせよ、驚いて指切ったとかカッコ悪すぎだ。


「は……早かったな?」


 あくまで自然を装って――手を洗うふりをして――傷口を濯ぐ。

 じわじわと血は流れ出てくるが……幸い、傷は浅そうだ。あとはティッシュか何かで押さえてれば、血も止まるだろう。

 水を止め、とりあえず、ほっとしていると、


「これって……もしかして、たこ焼き器?」


 その不思議そうな声はすぐ背後でした。

 『もしかして』……?

 見ての通り――だが。たこ焼き器、見たことも無かったのか?


「ああ。それが、そう。兄貴がビンゴで当たった例のたこ焼き器――」

 

 振り返って、答えた――その瞬間、「はえ……?」とすっとぼけた声が漏れていた。


 そこにいたのは、帆波だった。風呂上がりの帆波だ。きょとんとたこ焼き器を見つめている。その顔は仄かに上気して、しっとりと濡れた長い髪が妙に色っぽい。――そこまでは予想の範囲内。予期していたし、もしていた。心の準備はできていた。


 しかし……だ。

 それは――その格好は、あまりに予想外……どころか、まるで未知のもので。一瞬、その画を処理しきれずに、思考が完全停止した。


 形状からいえば、ワンピース……なのだろう。頼りない細い肩紐で吊るされた真っ白な布だ。ただ……帆波のそれは、布が明らかに足りていない。ざっくりと開いた胸元からは、鎖骨どころか、ふんわりと柔らかそうな膨らみも谷間も露わになって、チラリ……どころじゃない。ガッツリ見える。そんなに大きかったのか、と驚いてしまうほど。そして、下は……もはや視線を向けるのすら憚られるほどの――短さ。


 そりゃあ、前からだらしない格好は見てきた。いつもゆるいTシャツに、ショーパン履いてやってきて、隣で散々ハラハライライラさせられてきたものだ。


 だが、これは……この格好は、全く別のだ。


 『だらしない』とは違う。どちらかといえば、『はしたない』というか……。あざといほどに扇情的。それなのに――純白のなせる業か、フリフリとした子供っぽいデザインだからか――愛らしさがあって。言い知れない背徳感を煽られ、男心がどうしようもなくくすぐられてしまう。感謝の念のようなものすらこみ上げてくる。


 まずい。最高……だが、最悪だ。

 せっかく盛り上げたたこ焼き気分が失せてしまう。また、それどころじゃなくなってしまう。


「ん……?」


 凝視しすぎたのだろう。何かを感じ取ったように、帆波はふと、たこ焼き器に向けていた眼をこちらに向けた。


「なに……よ?」とくすぐったそうに身を捩りながら、帆波は頰を赤らめて訊いてくる。「そんなに見つめて……」


 いや――見つめるだろう!? 見つめざるを得ないだろう!?

 なんなんだよ? 何考えてんだよ、帆波は? 分かってねぇの? 無自覚……か? まさか、普段は家でこんな格好でうろついてんの? いつから……!? いつから、帆波はこんなもんを着るように……!?


「お前……な……」


 腹の底で激しく沸き立つものを感じていた。一度は鎮めた下心それが、今にも起き上がりそうだった。

 ちょっとでも気を緩めたら、今度は帆波を押し倒してしまいそうで――その衝動を必死に抑え込みつつ、文句を言おうとしたときだった。


「あんた……何……」


 帆波が何かに気づいたようにハッとして、顔を顰めた。そして、いきなり俺のほうにずいっと近寄ってきた。刹那、ひらりと揺れるワンピースの裾から、見てはいけないものが見えそうになって――。

 かあっと一気に全身が熱くなる。

 慌てて身を引き、背中をシンクに打ち付けながら、「お前な――」とたまらず、視線を逸らして、大声を上げていた。


「何を着てんだよ!?」

「何を切ってんのよ!?」


 ん……? 何を……え?

 ――俺と帆波のその怒号は絶妙にズレながら重なった。


 おそるおそる……ちろりと視線を戻せば、帆波は俺の横を――調理台の上に置かれたまな板の上のタコを青ざめた顔で見つめていた。

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