第9話 何、それ?【上】

 まさか……これを着る日が本当に来るなんて。

 しかも、こんなに早く――。


 お風呂に入っても、当然、リラックスできるわけもなく。まるで滝行でもするような心持ちで身を清めるだけ清め……脱衣所に出てきた私は、まだ火照った体にバスタオルを巻いて、を両手に握り締めていた。


 もはや、白装束にすら思える――真っ白なキャミワンピ。


 レースのフリルが随所にあしらわれ、ふわふわとした印象で、一見、子供っぽいくらいの愛らしさ。でも、体に当てたら分かる。その大胆な胸元の開き加減に、レースでごまかしているけど、実はかなりスレスレな丈の際どさ。


 決して、自分で買ったわけじゃない。――買うわけがない!


 もらったのだ。受け取ってしまったのだ。去年のクリスマス前に。親友の葵から、クリスマスプレゼントとして……。

 これ着て、クリスマスに『幸祈』を誘惑しなよ――ニヤニヤしながら、そんなことを言ってきた葵の顔がまざまざと蘇ってくる。

 するわけないでしょ! と言いながらも、突き返さなかったのは……どこかで、それもいいかも、なんて思ってしまったからに違いなかった。

 去年のクリスマス時期は、高校受験真っ只中。勉強も、幸祈も……全く手応えがなくて、焦っていたところもあったんだろう。着実に卒業は近づいていて、どこに受かろうが落ちようが、三ヶ月もすれば、幸祈と離れ離れになるのは決まっていた。だから、いっそのこと、文字通り、身体でぶつかってしまえば――なんて、半ば投げやりなことも考えた。どんなに理性でガッチガチに固めた彫刻のような幸祈だって、体当たりでもすれば、どこかにヒビも入るだろう、と……クリスマスのテンションも手伝って、一人、奮い立ったりもしたものだ。


 まあ、もちろん、実行することはなかったけど。


 試しに着てみた自分の姿を鏡で見て、あまりの恥ずかしさに撃沈したのだ。

 こんな格好で幸祈の前に出れるわけがない! 出れたところで、幸祈はデレるどころか、『え、なに、その格好?』とぽかんとするに決まってる。そんなことになったら……立場がないどころじゃない。女としてのプライドが粉々になって再起不能になる。――そうし、封印したのだ。クローゼットの奥深くに押し込め、それ以来、手に取ることもなかった。もしかしたら、いつか……と思いながら。


 バスタオル越しにそっとそれを身体に当てる。

 やっぱり……かなり、あざとい。しかも、カップ付きだから……つまり、感覚的にはノーブラのようなもので。素肌にこれ一枚とショーツだけで、彼の前に出るのかと思うと……。

 湯船に浸かって火照った身体が、さらに熱を帯びて茹で上がるよう。


 いい……のかな? 大丈夫……だよね?


 だって、仕方ないじゃない。急だったんだもん。バスローブがあれば良かった……のかもしれないけど。あいにく、ウチにはそんなものは無い……はず。手持ちで代わりになるようなものは、これくらいしか思いつかなかったんだ。


 いきなりこんな格好して現れたら、さすがにびっくりはされる……かもしれないけど。引かれたりは……しないよね? そういうつもりだ、てお互いに分かってるんだし。向こうだって、ピクニックに行くのか、てくらい準備してきてるんだし。少なくとも、『お前、どうした?』ってポカンとされることは無い――それだけは安心できる。


 ちょっとは……悦んでくれたりしたらいいな。可愛い――なんて言ってくれたら、嬉しいけど。それどころじゃなくなっちゃったりしちゃったりしたら、それはそれで……。


「へへ……」


 つい、ニヤケてる自分がいてハッとする。

 こんな妄想している場合じゃない。

 きっと、今、幸祈は私の部屋で準備してる。もう終わって、待ってるのかも。あんまりのんびりしてたら、また幸祈の気が変わっちゃうかもしれない。

 慌てて、私は髪をドライヤーで乾かし、白装束――ならぬ、キャミワンピを身に纏い、さっき返し損ねた絆創膏を持って脱衣所を後にした。


 分かってはいたけど、かなりの短さだ。丸見え……ではないにしろ、歩くたびにひらひら揺れるフリルの下からショーツが覗きそう。普段からミニスカートは履いてるけど、危なっかしさが比じゃない。別に、幸祈に見られているわけでもないのに、すでに恥ずかしくて悶絶しそうになりながら歩いて――階段に差し掛かろうというときだった。


「あれ……」


 階段の横にあるドア――リビングに繋がるそのドアの向こうから、物音がした。

 この家にいるのは、私以外は幸祈だけで。となると、幸祈なんだろうけど。

 なんで……そこ? 私の部屋で準備してたんじゃ?

 まさか、リビングでするつもりではないだろうし。リビングはダイニングとキッチンと繋がったかたちになってるから……もしかして、喉でも乾いてキッチンに水を飲みに来た、とか?

 でも、それにしては、何やら騒がしいというか……。

 念の為、そろりと扉を開けて、中を覗く。

 様子だけ窺ったら、静かに部屋に行こうと思っていた……のだけど。


「へ……?」


 きょとんとして、思わず、惚けた声が漏れた。


 自分の目を疑った。それは思ってもいなかった光景で。どう解釈したらいいのか、全く分からなかった。


 確かに、葵から……聞いてはいた。男の人は、そういう気分になるとものだ、て。行為の前には必ず立つんだ、て。だから、驚かないように……なんて揶揄われてたものだけど。でも、多分――ううん、間違いなく、意味じゃない。


 なんで……だろう? なんで、幸祈は台所に立ってるの? しかも、なんだろう? トントンとまな板を鳴らす幸祈の背後にあるダイニングテーブル――そこには、何やら見覚えのあるホットプレートのようなものが置かれていた。

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