第6話 ダメ【下】
――これ、落としたよ。
その声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
背筋をぞわっとムカデでも這い上ってくるような……おぞましい悪寒を覚えた。
『これ』って、まさか――いや、そんな……? 無い無い。大丈夫だ。アレはしっかりとポケットの中に突っ込んでおいたはずで……そう簡単に溢れ落ちるはずは……。
そうだ。帆波ん家に上がってものの数分。そんな不運に見舞われてたまるか。
落ち着け、落ち着け……と自分に言い聞かせながら、ゆっくりと振り返ると、
「幸祈って、こういうの……持ち歩いてるんだ」
しゃがみこみ、ぼそりと呟く帆波がその白い指先に摘んでいたのは四角い袋で。
「んぐお……!?」
出したこともない声が出た。
己の目を疑った――というより、疑いたかった。
見間違い……だと思いたかった。良く似た他の何かだと思い込みたい。しかし、ソレは、紛うことなく……ポケットにしまい込んでいたはずの――兄貴から半ば無理やり託された男の『責任』で。
せっかく、風呂に入って温まってきた身体が、一気に芯までひゅっと凍りつくようだった。
最悪だ。いろんな意味で最悪だ。よりにもよって、なんてものを……ポロリしちまったんだ……!?
「ねえ、幸祈……」
きょとんして、気のせいか、帆波はいつにも増してあどけなく無垢な表情で俺を見上げ、
「これ、なあに……?」
へ……?
『これ、なあに』――?
「なにって……」
言うなれば、ナニにつけるモノだけど……。
なんだ、その質問? なんで、そんなこと訊いてくる?
まさか、ソレを知らない……わけは無いよな? 中学んときの保健の授業で女子が何を習っていたかは、
じゃあ、これは……質問ではなく尋問か?
ウチの母親もよくやっている。『お父さん、これ、なあに?』と脱ぎっぱなしで置いてあった靴下を父親に突きつけ、回りくどく罪悪感を煽る――あれか!?
「違うんだ、帆波!」
どさっと荷物を床に置き、俺は帆波の前で正座するなり、声を大にして言った。
「な……何よ、突然? 何が違うの? てか、なんで、いきなり正座……?」
「それは兄貴からもらったもので……別に、今から使おうと思って、わざわざ買ってきた、とかじゃない!」
ゴムをポケットにしっかり忍ばせといて、『その気は無かった』なんて……誰が信じる、て話だろうが。
信じてもらえるまで、訴え続けるしかない。
俺ははっきり帆波に言った。キスの続きとか……これっぽっちも期待してない――と。だからこそ、帆波だって誰もいない家に俺を呼んだんだろう。俺の言葉を信じて……。それなのに、こんなものを持って来ていた、となれば……信用問題だ。これで一気に、彼氏としての帆波の信頼を失うことにもなりかねない。
なんとしてでも、誤解を解かねぇと。
このヘンタイマン! とひっぱたかれて済めばまだ良い。もし、フラれでもしたら……。
「信じてくれ、帆波」と俺は力強く続け、誠意を込めてまっすぐに帆波を見据えた。「さっき、家を出るとき、兄貴に押し付けられただけなんだ。お前を守るために備えだけでもしておけ、て……」
「私を……守る?」
目を丸くして、帆波はまじまじとソレを見つめる。
「じゃあ、これ……やっぱり絆創膏なんだ」
「ああ、そう――」
つい、勢いで答えかけ、ハッとする。
絆創膏……?
「可愛いね。広幸さん、こういう趣味あったんだ。意外かも」
フフッと微笑み、ソレを見つめる帆波の眼差しは実に穏やかで。とてもじゃないが、いつの日かナニを
どう……なってるんだ? ソレの話……だよな? 絆創膏? 可愛いって……?
「それにしても、『イチゴの香り』がする絆創膏なんて珍しいね」
「イチゴの……香り!?」
「幸祈も気づいてなかったの? 私も今、気づいたんだけど。ほら――」と帆波はソレをくるりとひっくり返して、俺に見せてきた。「端っこに書いてあるでしょ。『イチゴの香り』って」
「なっ……!?」
ぎょっと見開いた目に飛び込んできたのは、可愛らしいクマだった。どこかで見たようなクマのキャラクターが大きなイチゴを抱えている。そして、確かに、端っこには小さく『イチゴの香り』の文字が。
全然、気づいていなかった。
兄貴がたこ焼き器の紙袋に放り込んだのを慌てて取って、ろくに見ずにポケットに突っ込んだから……。
なんだ? なんだ、それ? なに、そのファンシーなパッケージ……!? しかも、『イチゴの香り』って……どういうことだよ、兄貴!?
「形も珍しいのね。丸い……?」
不思議そうなその声にギクリとする。
ハッと我に返って見やれば、帆波がソレをクニクニと指で揉むようにして中を探っていて……。
そういえば――と気づく。
帆波のこの様子。演技じゃ無ぇ……よな。
本気だ。本気でソレを『イチゴの香り』つきの可愛い絆創膏だと思い込んでいる。
もしかして、帆波はソレの存在は習っていても……実物は見たこと無いのか? いや、見たことがあっても、こんなファンシーなパッケージじゃ気づかなくてもおかしく無ぇよな。実際、俺も今、度肝を抜かれて、若干、兄貴に引いているわけだし。
それならば、だ。このまま、ソレの正体に……本来の使命に気づかれる前に、『可愛い絆創膏』として取り返せば――と閃いた瞬間だった。
「これ……私のため、てことは、貰っていいの?」
貰っ……!?
まずい――と、つい、焦った。「いや、それはもしものときのためで……!」と訳の分からんことを口走って、慌ててソレを奪い取ろうと手を伸ばし、身を乗り出した。
刹那、正座を崩して踏み出した足に、びりっと痺れが走った。
げ……!? と思ったときには、バランスが崩れ、踏ん張ることもできず、そのまま帆波に倒れかかっていた。
ぎょっとする帆波の顔が一瞬見えて、ゴツンと鈍い音が辺りに響き、
「
弱々しいその声がすぐ耳元でした。
ハッとして、「悪い!」とガバッと体を起こせば、
「なに……突然……」
涙目で俺を見上げる帆波が、玄関マットの上に倒れていた。ゴムの入った袋を握り締めたまま、その右手は頭の上で……俺に手首を掴まれ、床に押さえつけられる形で。まるで――馬乗りになった俺に、組み敷かれるように。
「え……あ……」
ばちりと俺と目が合ってから、数秒の間があって……帆波もその状況に徐々に気づいていったのだろう。
みるみるうちに、俺の影の中でその顔が赤らむのがはっきりと分かった。
早く
ドクンドクンと波打つ心臓は妙に落ち着いていて、不気味なほどだった。
すぐにでも退くべきなのに。こんなことしてても仕方ないのに。
動けなかった。
動く気が湧いてこない。
あまりにあっさりで。その身体は、いとも簡単に組み伏せてしまえて。こんなときに限って、帆波は大人しくて、文句の一つも言ってこないし。抵抗する気配が全く無いから……。
ああ、ダメだ。揺らぐ。
もうキスまでしてしまったから余計に、揺すぶられる。
思い出してしまう。あの感じ……。唇を重ねた、あの感覚。抱き寄せた腰のほっそりとして華奢な感触。ぴたりと合わせた身体のぬくもり。もっと――て、何かを言いかけた、鼓膜をくすぐる甘い声。その全てが目の前にあると思うと……。
ごくりと生唾を飲み込む。
視界の端で、帆波の手に握られている小さな袋が見えていた。
ああ、クソ兄貴。逆効果じゃねぇか――。
アレさえ無ければ、そもそも、こんな状況にもならなかった。『これ、なあに?』なんて言われず、押し倒すことにもならなかった。すんなりたこ焼きを作る流れになって、今頃、準備を始めていたはずだ。
それなのに、どうしてくれんだよ?
アレがあるせいだ。アレがすぐそこにあるせいで、今から……シてもいいんだ、なんて気持ちになってしまっている。このまま、出来てしまえる、と思うから、すっぱり諦めて退く気にもなら無い。
せっかく、やましい気持ちを抱かずに、ここまで来たのに……。
ただ一緒にいてやりたい、と純粋にそれだけだった。あわよくば――なんて考えは微塵も無かった。手を出す気なんて、本当にこれっぽっちも無かったんだ。今の今までは……。
「ごめん、帆波……」と苦しげな声が漏れていた。「やっぱ、俺……ダメだ」
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