第5話 ダメ【上】
こんなもんかな――と、隅々まで整頓した部屋を見回していたときだった。
ピンポーン、と呑気なインターホンの音が一階から聞こえて、弾かれたように振り返る。
「き……来た……」
たちまち、鼓動が激しさを増す。
ちょ……ちょっと……待って――て、もう遅いんだよね。十二分に心の準備をする時間はあったし、部屋の準備だってバッチリ出来た。
あとは、私の……身体の準備だけ。
お風呂に入って、アレに着替えて……次にこの部屋に戻ってくるときは、そのときは幸祈と一緒で――。
「……っ!」
ああ、もう……ダメだ、ダメ!
シミュレーションしただけで、頭が茹で上がりそう。
こうなったら……考えない!
もう何も考えない!
どうせ、考えたって私にはなんの知識もないんだ。頭を捻ったところで無駄。頼みの綱の葵ともスマホが壊れて連絡取れないし。
孤島だ。もはや、孤島に一人取り残されているようなもの。
ノウハウも物資も無ければ、外部との連絡手段も無し。悪あがきすらできない状況。
開き直るしかないんだ――と自分に言い聞かせがら、一段一段踏み締めるようにして階段を下りる。
その間にも、焦ったそうに何度もインターホンが鳴らされていた。
リビングに入ってすぐのところにあるインターホンのモニターで、一応、そこに映る人物の顔を確認してから、通話ボタンを押し、
「……なによ?」
『まじか、お前』とモニターに映るそいつは、小さい画面でもよく分かるほどに顔をしかめた。『いつもそんな応対してんの?』
「はあ!? あんただけに決まってるでしょ、バカ! ――鍵開けるから、勝手に入って」
『バカって、また――』
何か言いかけたようだけど、無視して通話ボタンから手を離す。
そして、ふうっと息を吐く。
「大丈夫……だよね」
うん。大丈夫。自然だった……はず。いつも通りに振る舞えた……気がする。
ちゃんと腹を括えた――フリはできた。
そうよ。こういうの、私は昔から得意だったじゃない。強がりは……慣れてる。
今までみたいに、動揺を悟られないよう――本心に気づかれないよう――虚勢を張ってごまかせばいいだけだ。
本当は私が今にも卒倒しそうなほど緊張してる、て……幸祈が気づいたら、あいつ、何を言い出すか分かったもんじゃないもんね。
玄関へと向かいながら、そっと耳に触れる。
怖い? ――そう囁かれた声がまだ
昨日、幸祈の部屋で……うっかり、幸祈の脚の間に嵌ってしまったときのこと。せっかく恋人同士になったのに、後ろから抱き締めるだけで幸祈はあっさり退いた。怖くない、てちゃんと答えたはずなのに。それでも、幸祈は何もしてこなかった。
多分、だけど……遠慮したんだろう、と思う。
私が実は緊張しまくってたことに、きっと気づかれちゃったんだ。
幸祈らしい……よね。呆れるくらいに優しくて、鈍感なくせに余計なことには気が回る。
だから――フリでもいい、幸祈みたいに平然として見せなきゃ。
私もやる気満々だから、て……そう態度に出していかなきゃ。
今夜は、遠慮されたら厭……だもん。
きっと顔を引き締め、玄関の鍵をガチャリと開ける。
するとすぐに、ドアの向こうで物音がして、
「帆波、お前な……そんなにバカバカ言ってくんなら、もう課題手伝わねぇからな」
開かれていくドアの間からぐちぐち小言を言う声が流れてきて、幸祈がひょいっと顔を覗かせた。
その瞬間――たった一瞬、その顔を見ただけで。もう何年も傍で見てきた、しかめっ面なのに。たちまち、熱風でも身体の中で吹き荒れるかのように、ぶわあっと全身が熱くなって、
「べ……別に!? 手伝って欲しいなんて思ってないし!?」
ふいっとすぐさま背を向け、私はさっさと土間から家に上がった。
「お……遅かったわね!?」
気取られちゃダメなんだから。絶対、幸祈に悟られちゃダメ。どんなに動揺しようと、それを見せちゃダメ。余裕ぶるんだ。
平常心、平常心……と自分に言い聞かせていると、
「ああ……兄貴に捕まっちゃって。ちょっと説教というか、説法というか……な」
「広幸……さんに?」
説教? 説法? なに? 怒られてた、てこと?
「あんた、何した……」
思わず振り返り、問いかけた――そのとき。
目に飛び込んできたその光景に、私はぎょっと目を見開き、「ひや……!?」とよろめいた。
「え? なに?」
靴を脱いで上がってくる幸祈。お風呂上がりの……まだしっとりと濡れた髪が色香漂う、スウェットにジャージ姿。その右手には大きな紙袋をぶら下げ、左肩には――きっと保冷バッグにもなるのだろう――しっかりとした作りのこれまた大ぶりのエコバッグを提げ――。
「な……なんなのよ、その大荷物!?」
「は……?」
『は……?』じゃないわよ!
ど……どういうこと? なんで、そんな……何をそんなにいっぱい……詰めてきたの!?
「なんなのって……」と白々しいほどに不思議そうに幸祈は自分の荷物を見遣り、「お前が何を入れてもいい、て言ったからいろいろ持ってきたんだろ」
はあ!? て声が口から出ることも無かった。
あ……え……ええ……? それ、全部……入れるもの……なの? そんなに……入るの? 何を……入れるの?
あれ……嘘……待って。私……『何を入れてもいい』なんて言ったっけ?
「こんだけあれば、まあ……腹一杯になるだろ」
お……お腹いっぱいに……されちゃう……?
「大丈夫か? 顔、真っ赤だぞ」
「はええ……!? そ……そう!? 気のせい、じゃない? ぜ……全然、大丈夫だし!? 勘違い……しないでよね!?」
全然、大丈夫じゃないんだけど!? 勘違いじゃ無いんだけど……!?
なんなの? どうして、幸祈はそんなに……いろいろ持ってるのよ? ウチでしよう、て話になったのは、ほんの数時間前よね? そういうものなの? 男子は皆……前もって用意してるの? 家庭には一つ、防災セットがある……みたいな?
「帆波……?」
そんな重装備を前にして、平常心なんて保っていられるはずもなく。視線を泳がせ、おろおろとする私に、さすがに不審に思ったようで、幸祈が怪訝そうに顔を覗き込んできた。
「やっぱ……様子、変だぞ」
ああ、まずい。この流れはよく無い。今にも、今夜はやめとくか、て言われそう……!?
ごまかさなきゃ。何食わぬ顔でごまかさなきゃ。早く平静を装って、『はあ!? 何言ってんの?』て言い放つんだ。
早く……早く……と焦っていた、そのときだった。
幸祈がその手に持っていた紙袋を床に置き、ゴガチャッと重々しい音がして――。
「ゴガチャッて……!?」とぎくりとして、体が飛び跳ねる。「な……なに? ソレ、ナンダ!?」
なんで? なんで、金属音……!?
身を強張らせてソレを睨みつけていると、「なんだ、て……」と幸祈は私の視線を辿るようにして紙袋を一瞥する。
「電車の中で話したやつだよ。これが、例の――」
例の……?
その瞬間、脳裏にパッと葵の妖しい笑みがよぎって、咄嗟に私は「いい!」と遮っていた。
「やっぱり、いい! 言わないで! 何も解説しないで!」
分かってしまった――というか、思い出してしまった。そういえば、葵に前、ちらりと聞いたことがある。ニマニマしながら、葵が教えてくれた。この世には、オトナのオモチャというものがあることを……。
「そ……それ……」と私は俯き、あまりの羞恥に火でも吐き出さん想いで言う。「オ……オモチャ……なんでしょ」
「おもちゃ……?」
しんと玄関は静まり返って……ああ、そういえば、今、二人きりなんだ――という事実を思い知らされる。
だからこそ……こうして、幸祈はいろんなもの持ち込んで、やる気満々で来たわけで。
どうしよう――足が竦む。
虚勢なんて……張ってる余裕ない。
「いや、おもちゃ……ではないけど」
え……?
「違う……の?」
きょとんとして顔を上げれば、「ああ」と幸祈はケロリと頷いた。
「結構、本格的だよ」
「ほん……!?」
ホンカク……テキ?
「いろいろ調節もできるみたいだし、使い勝手も良さそうだ」
「そ……そう。イロイロ、チョーセツ……できるんだ」
調節ってなに? 何を調節するの? そもそも、本格的、てどういうこと!?
もう幸祈が何を言っているのか、分からなくなってきた。でも、それでいい……のかもしれない。知らぬが仏、というやつだ。
どちらにしろ、私は幸祈に身を任せることしかできないんだし……。『調節』も全部、幸祈に任せて……私は幸祈に言われた通りにしていれば、たぶん、いいはず……。
いい……んだよね、葵? ――とクラクラとする頭で親友に語りかけていると、幸祈が「あ……」と何か思い出したようにしゃがみこんだ。
今度は何!? と半ば泣きそうになりながらギクリとする私をよそに、幸祈は脱いだ靴を揃え始め……肩透かしというか、相変わらずの律儀なその姿に、少し和んで苦笑が漏れた。
「私しかいないんだから……別にいいのに」
ぼそっと言うと、「ああ、まあ……なんとなく」と照れ臭そうに笑って、幸祈は立ち上がる。
すると、ぽろりと……ジャージのポケットから何かが落ちるのが見えた。
「じゃあ……とりあえず、荷物置いてくるな」
まるで気づいていない様子で荷物を手に身を翻す幸祈。
「あ、幸祈、待って」と今度は私がしゃがんで、それを――正方形の小さなパッケージに入った『何か』を手に取った。「これ、落としたよ」
なんだろう……?
片側は何も書かれていない無地のパッケージ。でも、裏返すと大きなイチゴを抱えた可愛らしいクマさんの絵が描かれている。
キャンディー? それとも、絆創膏……?
中身が何かは……よく分からないけど。幸祈がこんなファンシーなキャラクターものを持っているなんて。『本格的なオトナのオモチャ』を持っていた以上に、意外で……。
「幸祈って、こういうの……持ち歩いてるんだ」
まじまじと見つめて呟くと、
「んぐお……!?」
聞いたこともないような……幸祈の声が辺りに響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます