第2話 幸祈のがいい【下】
家に帰るなり、さっさと風呂に入って部屋着に着替える。あれやこれやと準備をし、最後に俺は隣の部屋に向かった。
「兄貴?」
扉をノックし、そう呼びかける。しかし、応答は無し。
帰ってから物音一つしなかったし、もしかして寝ているのかもしれない。何度かノックし続け、しばらくすると、ガタンとようやく大きな物音がした。
欠伸なのか、なんなのか。獣の唸り声のようなものが聞こえてきて、
「なに……?」
ガチャリと開いた扉の向こうから顔を覗かせてきたのは、メガネに無精髭を生やした――変わり果てた兄貴。長めの髪もぐしゃぐしゃで、見る影も無し。シャツもしわくちゃで、帰ってくるなりそのままベッドにぶっ倒れたのだろう、と想像ついた。
徹夜明けなのは一目で分かった。
「夕飯……? もう母さん帰って来てんの?」
ふああ、と欠伸をしながら、部屋を出てこようとする兄貴を「あ、いや――」と引き止め、
「まだ母さんは帰って来てない。今夜はちょっと遅くなる、てさっき連絡来た」
「あ、そう」
「俺も今から帆波ん家行ってくるから。兄貴は自分でなんか作って食っといて」
「あー……はいはい」
ぼんやり相槌打ちつつ、メガネの奥のその眼はキラリと怪しげな眼光を放った――気がした。
ぼうっと眠そうだったその顔つきが、徐々に意志を持ち始め、
「それで……?」と腕を組んで訊ねてきたときには、いつものへらっとした笑みへと変わっていた。「わざわざ、俺にそんなこと言いに来たわけじゃないよな? 本当は何の用なんだ?」
相変わらず、なんでもお見通しかよ――。
まあ、別に隠そうとしてたわけでもないからいいんだけど……。
「今夜、兄貴に借りたいものがあって」
ぼそっと言うと、兄貴は「――分かってる」としたり顔で言って、俺の肩をぽんと叩いた。
分かってる?
「は? 何を……?」
「みなまで言わんでいい。こうして俺んとこにわざわざ貰いに来ただけで、もう十分、勇気を出した。あとはもういい」
なぜか、感慨深げにそんなことを言って、兄貴はくるりと部屋の中へと戻って行った。
え? なに? 俺、何を借りたいか、までは言ってないはずだけど……何が分かったんだ? まさか、そこまで――今夜、俺と帆波が何をしようとしてるかまで、お見通し、てこと!? いや……さすがに、それは超能力じみてるだろ。俺らただの兄弟で、双子ってわけでもないんだし……まさか、そんな――!?
「はい、これ。あと三つ残ってるはず。『貸す』ようなもんでもないし、余っても返さなくていいから」
戻って来た兄貴がそっと手渡してきたのは、小さな箱で。俺は呆然としてそれを見つめた。
「まあ、最初は自分では買いづらいよな。分かる、分かる」
いや、待って。何を分かってんの、この人? 何も分かってなくね?
なんで、こんなもん……ていうか、これって……。
「ちょ……な……なんつーもん、渡してくんだよ!?」
ぎょっとして後退ると、「は?」と兄貴は眼鏡の奥でさも不思議そうに眼をぱちくりと瞬かせた。
「なんつーもんって……失礼な。世界最薄よ? すごいから」
「何がすごい……って、いい! 聞きたく無ぇ!」
まあ、聞くまでも無く……なんだが。
コンビニで普通に見かけたことあるし、学校に冗談で持って来てた奴もいた。授業で知識として学んだこともあるし……それが何かくらいは分かる。何に使うものなのか、も知ってはいる。
所謂、ゴム――というやつで、用途は……。
「何を今更、照れてんだよ?」
「て……照れてねぇよ!」
「そんな顔真っ赤にして言われてもねぇ……」
「赤くねぇから!」
「まあ、とりあえず……そういうのいいから。俺も徹夜明けで疲れてんのよ。――はい」
『はい』……て!?
ずいっと突きつけられるそれの存在感たるや。パッケージに誇り高げに書かれた『0.01』という意味ありげな数字が異様な迫力を醸し出している。
俺はごくりと生唾を飲み込み、固まった。
どうすんの、これ? 受け取るべき……なのか?
確かに……帆波とはもう付き合い始めたんだし、そういうこともするようになるのかもしれないけど。正直、したい――という気持ちはあるけど。
でも、まだ早い……だろ。
一昨日、付き合い始めたばかりで、さっきキスもしたばかりで……。
「何を躊躇ってんの? 世界最薄だって言っただろ。つけてる感じ無いから」
「別に、そこで躊躇ってるわけじゃ――!」
「世界最薄。世界で最も薄っぺらい……男の『責任』というやつだ」俺の言葉をぶつりと遮って、コツンと兄貴はそれで俺の頭を小突いた。「だから、持ってなさい、て言ってんの」
「え……」
思わぬ返しにハッとする俺に、兄貴は憫笑にも似た苦笑を浮かべ、
「もう付き合ってるんだから、備えくらいはしておけ、て話。どんな流れで何が起こるか分かったもんじゃ無い。『若気の至り』で済まないことだってある。
こんなもんで好きな子を守れるんだから安いもんだろ。ちなみに、八百円ね。次からは自分で買いなさい」
好きな子を――。
そんな言い方をされると……『いらない』なんて言えるわけも無い。
「ああ……分かった」
それでも、兄貴から受け取るというのは、なんとも気恥ずかしいものがあったが。確かに、買いに行くのに比べたら……まだマシなのかもしれない。
おずおずと兄貴の手からそれを受け取り「ありがとう」ともごもごと言う。
「まあ、でも……それでも百パーセントじゃないから。よく気をつけるように。じゃあ……あとは、健闘を祈る――てことで。今夜は頑張って」
ん……? 今夜は……頑張って?
欠伸を噛み殺しながら身を翻そうとする兄貴を、「って、ちょっと待て!?」と俺は慌てて引き止め、
「別に……今から、そういうことをするつもりは無ぇよ!?」
「え……無いの!?」
「無いに決まってるだろ! 帆波の親が今、出張でいないから、夜に一人じゃ危ないと思って付いててやろうと思ってるだけで。変なことする気は全く無ぇよ!」
「ああ……そう」
へえ、と言いつつも、兄貴はぬるーい眼差しで見つめてくる。『強がっちゃって〜』とでも言いたげだ。
全くもって本気にしてねぇ。
まあ、当然……だよな。
『カノジョ』の家に行くんだ。男として、ちょっとくらいは期待して当たり前。やましい気持ちは全く無い……なんて、ありえない。実際、俺だって、そういう気持ちが無いわけじゃ無い。
でも――。
つと目を逸らして、ぼそりと言う。
「そもそも、帆波にその気は無いんだ。無理やりそういうことする気は無ぇよ」
はっきり言われておいて良かった、と今はつくづく思う。
今すぐ家でキスの続きをしたい、なんて、これっぽっちも思ってない……と、あそこまで言い切ってくれると、悶々とすることもなくて助かるというもんだ。微塵も期待せずに済む。たとえ、二人きりになって妙な気になっても……迷う必要もなく、ただ、我慢しようと思える。
今夜のところは、兄貴から貰った『責任』というやつも使うこともないだろう。
「帆波ちゃんに、ねぇ……」
何やら意味ありげにぼんやり呟いてから、「ん?」と兄貴が怪訝そうな声を漏らすのが聞こえた。
「じゃあ……お前、何を借りに来たんだ?」
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