第16話 誰もいないんだけど【下】

「誰もいないって……?」


 立ち止まるなり、そう訊ねると、帆波は「え……あ……」となぜか慌てて――自分から切り出してきたくせに――視線を逸らし、珍しくもごもごと歯切れ悪く答えた。


「ウチの親、二人とも……一昨日の夜から出張行ってて……」

「一昨日から……!?」 


 ぎょっとして飛び出た声が、暗がりの路地に響き渡る。

 マジかよ――と愕然とした。

 一昨日から、おばちゃんたち居なかったのか? 二人とも……? てことは、付き合いだしたあの夜から? ずっと帆波は、誰もいない家に帰って――って、待てよ。


「いや、でも……お前、昨夜、おばちゃんたちと刺身食べに行く、て言ってたじゃねぇか!?」


 すると、帆波はぎくりとして、焦った様子で俺を一瞬見てから、再び、そっぽを向いた。


「そ……そんなの、嘘……に決まってるでしょ」

「嘘……!?」


 な……なんだ、その無駄な嘘!?


「なんで、そんな嘘を吐く!? どんな見栄だ!?」

「う……うるさいわね! あんたに関係ないでしょ!」

「俺にしか関係ないだろ!」


 ああ、ったく……! 

 わしゃわしゃと頭を掻き毟る。

 つまり、帆波は一昨日から一人だった、てことかよ。すぐ隣の家で。夜もたった一人で過ごしていたんだ。

 腹が立って仕方ない。そんな大事なことを今まで黙っていた帆波にも。そして、全く気づけなかった自分にも。

 いつもワガママ放題で、当たり屋の如く理不尽な言いがかりつけては、無茶な要求してくるくせに。なんで、こういう――肝心な時に限って……遠慮すんだよ?

 昔からそうだ。他所ん家に預けられて、本当は肩身狭くて心細かったはずなのに。それを決して口にしようとはしなかった。涙ぐみながらも、つんとした表情で強がって……うちの親に『寂しい?』と訊かれても、『平気』と嘘を吐いた。そういう奴だった。そういう奴だからこそ――。


「なんで、もっと早く言わねぇんだよ」


 吐き捨てるような言葉が漏れていた。

 え……と目を丸くし、あの頃のまま、無垢な顔でこちらを向く帆波に、胸をかき乱されるようなもどかしさを覚える。


「家に誰も居ないとか……そういうことはすぐ言えよ。もう付き合ってんだから。遠慮してんなよ」


 その瞬間、帆波の顔がぶわっと赤く染まるのが暗がりでも分かった。


「え……あ……べ、別に……遠慮してた……わけじゃ……」

「とにかく」と俺は帆波の手をぐいっと引っ張るようにして、駅へとまた歩き始める。「今夜はお前ん家行くから」

「うええ……!?」


 なんだ、その声?


「厭……なのか?」


 ぴたりと足を止めて、念の為訊くと、帆波はびくんと肩を震わせ、「は……はあ? な……何言ってんの? バカ……じゃないの」と全く凄みのない弱々しい声で言って、視線を足元に彷徨わす。


「厭……なわけないでしょ。私だって……そういうつもりで言ったんだし……。ただ、その……思いの外、幸祈が乗り気というか……だから……ちょっと、びっくりして……」

「いや、乗り気って……」つい、苦笑が漏れる。「当たり前だろ。なんのために、わざわざ『彼氏』になったと思ってるんだ」


 繋いだその手の感触を味わうように、ぎゅっと力強く握り直す。

 そうして、思い出していた。

 あの頃のこと――。

 こんな繋ぎ方ではなかったけど……今にも泣き出しそうな彼女の手をしっかり握って、布団の中で一緒に迎えを待った。だいたい、帆波の親が来る前に二人で寝落ちしてたけど……。

 きっと、夜はまた一段と寂しかったんだろう。幸祈が一緒だから平気だもん――と暗がりの中で嘯く彼女の声が、まだ鼓膜の奥で響くから……。


「泊まる……のは無理でも、お前の気が済むまで付いててやるよ。今夜も、明日も」

 

 そんなことが心置きなく言える――そういう立場になれたのだ、という実感を噛み締めながら、そっと囁くように言うと、


「私の気が済むまで……突いて――!?」


 帆波はばっと血相変えて俺を見上げ、裏返った声を辺りに響かせた。

 いったい、何をそんなに驚いているのやら。信じられないものを見るような目で俺をまじまじと見つめ、


「こ……壊れちゃう……」

「何が?」


 家具か?

 分からん……が。

 その後、帆波はすっかりしおらしくなって、まるで借りてきた猫状態。俺に手を引かれるまま、何を問いかけても「うん……」しか言わず、どこか上の空で歩き続けた。


*これにて四章も無事(?)完結です。ここまでお読みいただき、ありがとうございます! いつも応援いただき、本当に励まされております〜。

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