第12話 今さら【下】

 し……してしまった。とうとう、してしまった。

 ぶわっと顔が赤くなるのが自分でも分かった。顔中熱くて、表情筋はガッチガチに強張って。いったい、どんな顔になっているのやら……。帆波に見られたく無くて――、


「ほんと……今さらだな」


 そんなことを言いながら、俺は帆波の視界を遮るようにキャップを深々と被せた。


 つい――というか。もう我慢できなかった。

 あまりにも帆波がいじらしいことを言いまくるから。しゅんとしてしおらしい姿で、やたらと健気なことを口にするから。ぐわんぐわんと胸が揺すぶられてしまった。

 しかも、施し……なんて見当違いも甚だしいこと言い出しやがって。

 小憎たらしいやら、もどかしいやら。そんなんじゃねぇよ――て胸の中で悪態づいた。

 俺が帆波に『優しい』のだとしたら、それは俺の……『好意』というやつで。きっと『下心』にも近いもので。感謝されるようものでもなければ、褒められたもんでもない。俺が一方的に押し付けていただけ。ただの自己満足だ。帆波が気にするようなことじゃない。別に、何かしてほしいとも思わない。俺が欲しいものがあるとすれば、それは帆波自身で――。


 そんなことを考えていたら、抑えようのない衝動が――もう何年も腹の底で燻っていた欲望が――マグマみたいに噴き上がってきて。『間接キスくらいで照れない』などと性懲りも無く強がりを言う帆波の唇を自分のそれで塞いでいた。


 ほんの一瞬。色気も味気も無い。微かに触れ合う程度だったが。それでも、その柔らかさはまだ唇に残ってる。ふわりとして、儚くて。花びらにでも触れたようだった。

 思い出すだけで、胸が破裂しそうなほどに膨らむ。その感触が恋しくなって、惜しくなって……。今すぐにでも、もう一度――なんて卑しい欲が湧いてくる。

 そんな俺の隣で、帆波は俯いて黙り込んでいた。いきなりで、さすがに驚いているのか――キャップのツバが邪魔して表情は窺えないが――身を縮めて固まっている姿は、また一段といじらしく感じられて。痺れるような愛おしさに身体が疼く。せめて抱きしめたくなって……「帆波――」とその背にそっと手を触れた瞬間、


「ひゃうっん……!?」


 帆波は飛び跳ねん勢いでビクンと体を震わせ、視界の端でその手からミルクティーの缶がするりと抜け落ちるのが見えた。

 あ……!? と思ったときには、カランと辺りに乾いた音が響き、無惨にも缶はコロコロと足元に転がって、ミルクティーをばら撒いていた。


「ご……ごめん……!」


 慌てて身を屈めようとした帆波に「いいよ」と素早く制し、缶を拾い上げる。


 帆波は決して冷静沈着などでは無いが。天然ドジっ子の類でも無い。こういううっかりミスは――数学を除けば――珍しい。


 キスのせい……だよな? もしかして、俺が思っている以上に……相当、動揺してる?

 だいぶ軽くなった缶を手に座り直し、「大丈夫か?」となんとも気の利かないことを訊ねると、


「は……初めて……だったのに……」


 え……?


「な……なんて……」

「初めて……だったのに……」再び、震えた声で言って、帆波は両手で顔を覆った。「いきなり……だったから……」


 いや……待って。ちょっと……待て!? 嘘……だろ。泣いてる? まさか、泣いてる? てか、泣か……せた? キスして……泣かせたのか!?

 

 刹那、さっきまで沸き立つようだった全身の血がさあっと冷え切っていくのを感じた。


 それこそ、今さら……だが。そういえば――と気づく。俺にとっても初めてだけど……帆波にとってもそう、なのか。今まで誰に告られようとその場で断ってきたんだもんな。誰とも付き合ったことは無いはずで……ずっと、帆波も俺のことを好きでいてくれたわけで。そんな『初めて』を俺は、なんの前置きも無く、無許可で、唐突に、盗むような真似をしてしまったのか……! しかも、こんな暗がりの……野外で!?


「悪い、帆波!」


 ベンチの上で土下座でもしたいくらいだった。慌てて帆波に頭を下げ、


「完全に調子乗った! 煮るなり焼くなり踏むなり好きにしてくれ!」

「じゃあ……もう一回して」

「ああ、なんでもする――」


 って……もう一回して?

 はたりとして、「へ……」と顔を上げれば、


「何も……できなかったから……」と消え入りそうな声で言って、帆波はおもむろに両手を下ろす。「さっき……いきなりで、私、バカみたいにぼーっとしちゃって。全然、味わえなかったから……。幸祈との……初めて……」


 キャップのツバの下から俺を覗き込むその瞳は、じんわりと潤み、心許無く揺れていた。怯えるようでいて、覚悟すら感じさせる――そんな張り詰めた表情を浮かべる顔は真っ赤に染まって。そうして、まるで媚びるような眼差しで見つめてくる彼女は、いたいけなようで……それでいて、やたらと色っぽかった。

 思わず、息を呑む。

 もう何年も知っている彼女を――、ずっと傍にいて、小憎たらしくも愛おしく思ってきた幼馴染を――、エロい……なんて思ってしまった。


「もう一回……して」と熱にでも浮かされているかのような、蕩けた声で言って、帆波はそっと俺のネクタイを掴む。「今度は、ゆっくり……がいい」


 ぞくりと背筋が震えた。

 あどけない顔立ちを艶っぽく歪めるその様は、初めて見るもので。なんともいえない背徳感を覚えて。こんな表情もするのか――なんて驚きながら、たまらなく劣情を唆られた。

 つい、苦笑が漏れる。


「こういうときでも……お前はワガママなんだな」

「はあ……!?」目が覚めたようにぎょっとして、帆波はぎゅっと俺のネクタイを掴む手に力を込めた。「な……なによ……!? 悪い!?」

「いや、悪いどころか……」


 すげぇ唆られる――とはさすがに口に出来ず、そのまま、俺はいつものように帆波のワガママに応えた。

 長く細い髪を指に絡め、ほっそりとした首筋に手を這わせ、少し躊躇いがちに瞼を閉じる彼女と唇を重ねた。言われた通り、今度はゆっくりとその感触を余すことなく味わうようにして。

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