第11話 今さら【上】

 幸祈に連れて来られたのは、駅から少し離れたところにある公園だった。大通りから外れて住宅街に入ってすぐ。人気の無い、こぢんまりとした公園だ。以前、部活の先輩たちに『ちょっとした懇親会を』と連れて来られて、皆でコンビニアイスを買い食いした……らしい。そこのベンチに私は一人で座っていた。幸祈が水飲み場で濡らしてきてくれた部活用らしいタオルを目に当て、ぼうっとしながら……。


 知らなかった。泣くのがこんなに疲れるなんて――。


 いろんなものが全身から溶け出てしまったみたい。なんだか身体が軽い。妙にすっきりして、浮遊感すらする。これがデトックス――ではないか。

 あんなに泣いたの、初めてだ。我ながら引くくらい、ガン泣きしてしまった。思い出すだけでも赤面ものだ。しかも、駅前で。佐田さんもいたのに……。

 なりふり構わないにも程がある。ほんと、みっともない。

 さすがの幸祈だって引いても不思議じゃなかった……のに。幸祈は引かなかった。驚いてはいたけど、必死に理由を知ろうとしてくれた。最後まで、変わらずに――いつもの幸祈のままで――傍にいてくれた。

 そして……。


「んふ……」


 つい、ニヤけた唇から変な声が漏れた。


 まだ、手にその感触が残ってる感じがする。固くて大きな掌に、骨ばった太い指。指の間まで隙間なく、幸祈としっかり繋がった感触。


 あっさり……だった。


 『なんで?』なんて訊かれなかった。

 『なんで手を繋ぎたいんだ?』なんて幸祈は言わなかった。


 手を繋ぎたい――て言うだけ。それだけで、幸祈は応えてくれた。あの間抜け面も無く。当然のように私の手を取って『じゃあ、行くか』と少し照れ臭そうに笑った。しかも、幸祈のほうから、ぎゅって……指まで絡ませて。いわゆる、恋人繋ぎというやつで――。


 ああ、だめだ。やっぱりニヤける。


 なんだろう、この達成感。胸が満ち足りた気分でいっぱいだ。

 ただ、手を繋げただけなのに。大げさだと自分でも思うけど……幸祈と心まで繋がった気がした。あの瞬間、通じ合えた感じがしたんだ。

 顔が全然引き締まらない。いつまでも口許が緩みっぱなし。

 タオルを目に当てながら、一人でニヤけてるなんて――これじゃ、本当に『変質者』と変わらない。


「大丈夫か、帆波?」


 突然、訝しげな声がして「はわっ……!?」とばっとタオルを外して振り返った。

 そこにいたのは――ベンチの傍で、暗がりの中、ぬっと佇んでいたのは――ブレザーの制服を着た男の子だった。目立つような特徴は無いけど、キラリと輝く叡智が垣間見えるような……そんな聡明そうな落ち着いた顔立ちで。眩い夏の海よりも、秋の涼やかな木陰のほうがしっくりくる。そういうオーラのある人。――紛うことなく、私のカレシだ。もう恋人繋ぎも済ました正真正銘の私の『恋人』だ。

 あ、幸祈――て、たちまち胸が高鳴って、だらけていた背筋もぴんと伸びる。


「べ……別に? 全然、大丈夫……だけど、何で?」

「いや……ずっと、変な声出してたから。どうかしたのか?」


 へ……変な声!?

 その瞬間、ぱあっと神々しい光に満ち満ちていた心にピキッと一筋のヒビが入った……気がした。


「は……はあ!? なに……言ってんの!? いつ、誰が変な声なんて……!?」

「さっきからずっとお前、一人で『んへへ』とか『ふへら』とか……」

「言ってないし!? 全っ然、言ってない! ずっと石のように無言だったから! 幻聴じゃないの!?」


 ムキになって言い返し、ふいっとそっぽを向いた。

 嘘でしょ。聞かれてた――!?

 いつから……? いつから、そこにいたのよ!? なんですぐ声かけないのよ!? こっちはタオルで目隠し状態だったのに。何も見えてなかったのに。ゼロ距離で盗み聞きなんて反則でしょ……!


「ああ、じゃあ……気のせいかもな」


 演技じみた口ぶりで言って、幸祈が隣に腰掛ける気配がした。

 百パーセントお情けだ。もはや同情だ。絶対に『気のせい』だなんて思ってないのが言葉の端々から伝わってくる。

 恥ずかしすぎる。穴があったらなんとやらだ。

 悶絶しそうになりながら、ごまかすようにタオルを目に押し当て黙っていると、


「眼はどうだ?」


 夜風みたいな……そっと静かな、優しい声がした。

 ハッとして、「う……うん、ありがとう」と慌てて――必死に平静を装って――応える。


「タオル……気持ちいい」

「そっか。よかった」


 ホッとしたように言ってから、「あ、そうだ」と幸祈は思い出したように続け、


「はい、これ――」


 これ……?


「待たせてごめんな。自販機、思ったより遠かった」


 タオルを外し、ちらりと幸祈を見る。

 ぎこちなく笑う彼の手には、上品なデザインの缶飲料が。


「あ……」と惚けた声が漏れた。


 そういえば、飲み物を買ってくるから待ってろ、て言われたんだった。『恋人繋ぎ』の後遺症か――よっぽど夢見心地だったのだろう――その辺の記憶もなんだかぼやっとしてるけど……。


「ありがとう」


 受け取ると、じわりと缶の熱が手のひらに広がった。

 そっか――わざわざ、買いに行ってきてくれたんだ。しかも……と、その見慣れたデザインの缶をじっと見つめ、胸の奥がじんと痺れるのを感じた。


 ――私の好きなブランドのミルクティーだ。


 これが好きなのよ、覚えておきなさい! なんて……言った覚えは無いのに。きっと、見ていてくれたんだ。見ていて、覚えていてくれたんだ。

 本当に……呆れる。絶望的に鈍感なくせに。私の気持ちにはこれっぽっちも気づかなかったのに。こういうところはよく気がつくんだから。昔から、ずっと……。

 プルタブを開け、こくりと一口飲む。

 たちまち、身体中が暖かくなって、甘みが全身に染みていく。まるで、優しさの味だな――なんて陳腐なことを思ってしまって。


「幸祈は……優しいね」


 そんな言葉が、温かなため息とともに自然と漏れていた。


「な……なんだよ、急に!?」

「急――でもない。ずっと思ってた。ずっと……言わなかったけど」

「なんで言わないんだ……」


 左手には冷たく濡れたタオル。右手には温かなミルクティー。どちらも幸祈から受け取ったもので。幸祈の優しさを文字通り肌で感じる。

 それに比べて、私は――と思わずにはいられない。


「私、いつも……幸祈に貰ってばかりね」


 ああ、やっぱり……泣きすぎたせいなのかな、涙腺が壊れちゃったみたいだ。またじんわりと視界が歪んでいって、堪えきれずに涙が溢れ落ちた。


「え……ほ……帆波、どうした!?」

「ごめん……。ただ、なんか……情けなくて……」

「情けない? お前が……!?」


 なに、その……今日一番の驚愕の声は?


「だって」と溢れる涙をタオルで押し留め、必死に震えそうな声を尖らせる。「私……正直、幸祈に何してあげたらいいか、分かんない。今まで、何をしたら幸祈は喜ぶのか……なんて、ちゃんと考えてこなかったから。いつも、幸祈に何かしてもらうことばかり考えて……甘えてた。そんなことに――今ごろ、気づいた」


 だから……浮気されても仕方ない、て思ってしまったんだ。幸祈のことを心から信じていても、佐田さんと二人きりでいるのを見て危機感を覚えた。幸祈を信じながらも浮気されると信じ込んだ。その矛盾を生み出していたのは私の罪悪感に他ならなくて。思い当たる節があった証拠だった。当然の『報い』に思えた。

 だから――。


「だから……これからは、私、幸祈に尽くす!」ぎゅっと力強く幸祈の『優しさ』を両手に握り締め、私は勢いよく幸祈に振り返って言い放った。「尽くすカノジョになるから!」

「いや、いい」


 即答……!?


「なんでよ!?」

「別に、お前に何かしてほしい、と思って『彼氏』になったわけじゃないし」


 呆れたように苦笑して、幸祈は私のキャップをそっと外した。

 解き放たれた髪がふわりと落ちる。それを整えるように撫でながら、幸祈はあの眼差しで――身体の奥がじんと熱くなるような、慈愛に満ちた眼差しで――私を見つめ、


「俺は……お前が甘えてくれたら嬉しいよ」


 ぼっと全身に火でも点いたようだった。かあっと身体中が焼けるように熱くなって、


「は……はあ!?」て咄嗟に顔を背けるようにして正面を向く。「な……何言ってんの!? どんだけ今治タオルなのよ!」

「だから、その喩えが全然分かんねぇんだよ! 結局、貶してんのか!?」

「もお……ほんと……ダメなの! これじゃあ……やっぱり、ダメだってば」


 結局――私ばっかり……喜んでるじゃない。


「私だって……幸祈に何かしてあげたい。幸祈に施しを受けてばかりじゃ……カノジョとしてダメな気がする」

「施し……ね」


 やれやれ……と言いたげに幸祈が隣でため息吐いて、が空いた。

 何か考えるような間――。

 公園の真ん中にぽつんと佇む古びた電灯が朧げに照らし出す暗がりに、しんと沈黙が降り立つ。やがて、すうっと息を吸うのが聞こえて、「じゃあ、今……貰ってもいいか?」と幸祈が落ち着いた声で言った。

 え、今? 何を――て聞くまでも無い。

 夢中で飛び出して来た私の手持ちは、壊れたスマホと財布。あとは、膝の上に握る濡れタオルとミルクティーで。

 幸祈がスマホやお金を要求してくることはまず無い。濡れタオル……なわけも無いだろうし。となると……ミルクティー? 幸祈も喉乾いてた!?


「そっか、ごめん。気づかなくて」と慌てて振り返り、ミルクティーの缶を差し出す。「さっき、一口飲んじゃった。間接キスだけど……」


 それで良ければ――と言いかけ、ぎょっとする。

 え……私、何言ってんの? か……間接キス!? そんなこと……なんで、わざわざ言う!? しかも、今さらすぎじゃ……!? もう付き合ってるのに。そもそも、幸祈と間接キスなんて子供の頃に散々してたのに。

 幸祈も『え、何言ってんの?』みたいな惚けた顔してて。かあっと顔が熱くなって、頭から湯気でも出そうだった。

 たまらず、ばっと視線を逸らすと、


「何、照れてんだよ」


 揶揄うように言われ――ズバリと――ぎくりとする。


「は……はあ!? 別に、照れてないわよ! 今さら、間接キスくらいで……!」


 フッと勝ち誇ったように笑って、強がろうとした――瞬間、視界が暗く翳った。え……と思ったときには、幸祈の顔が目の前にあって。唇に何かが触れるのを感じた。


 重ねると言うには控えめな。掠めたと言ってもいい程の。そっと優しく触れるような……幸祈らしい感触キスだった。


 それはほんの一瞬の出来事で。

 まだ、ぴくりとすら反応もできない間に幸祈は私から身を離し、


「ほんと……今さらだな」


 私の頭にキャップを被せると、どこか照れくさそうにそう言った。

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