第10話 誤解【下】
いつのまにか辺りは暗くなり、街灯が燈り始めていた。
キャップのツバの下、潤んだ瞳は淡い輝きを放ち、頰はじんわりと赤らんで、いつもよりもふっくらとして見えた。そうして、どこか自信無さげに俺を上目遣いで見つめる帆波は、いたいけでいじらしく……甘え盛りの子猫のようで。ゴロニャンとでも言われたら、俺の中の庇護欲が一瞬で爆発する気がした。
そんなヒヤヒヤするほどに甘ったるいオーラを放ちまくりながら、帆波は少し尖らせた唇をそっと開き、
「別に……ラブホだって、喜んで行くわよ。幸祈を独り占めできるなら」
んなっ……!? と思わず、ぎょっと目を開け固まった。
さっきまで――佐田さんの全く身に覚えのない『フラれた』発言で――すっかり骨の髄まで冷え切っていた身体が一気に熱くなる。
ら……ラブホ……? 喜んで……行く? 喜んで……!?
「お……お前……」ごくりと生唾を飲み込みながら、たじろぎつつも声を振り絞る。「ら……ラブホが……何をする場所か……ちゃんと分かって言ってんのか? バスローブ着て遊ぶ場所……じゃないからな?」
すると、帆波は涙が残る眼をギラリと光らせ、『はあ!? バカじゃないの!? なに本気にしてんのよ、ヘンタイマン』とそこら中に毒針でもまき散らん勢いで怒鳴りつけてくる――かと思いきや。しゅんとしおらしく身を縮こませると、恥じらうように視線を逸らし、「うん……」と頷いた。
「何をされる場所かは分かってる……つもり。だから……幸祈となら行く」
「ぬあ……」と変な声が出た。
いや……え? ええ……!? なんなんだ? どうなってんの? 帆波が……健気なんだけど!?
いつもの会話じゃない。こんな帆波との会話のキャッチボールを俺は知らない。どんなにそうっと投げても、変化球やらデッドボールやらしか返ってくることはなかったのに。こんなの……まるで硬式ボール投げたら軟式ボールが返ってきたみたいじゃないか――!?
鏡がなくても今、自分がどんな顔しているのかはっきり分かる。間抜けだ。間抜け面だ。絵に描いたような間抜けが、顔を赤くしてポカンと突っ立っている様がありありと思い浮かぶ。
しかし、それでも帆波は視線を逸らしたまま。羞恥が滲むその顔に憂いさえ漂わせて、じっと何かを堪えるように黙り込んでいる。一向に、『何を言わせるのよ!?』とか『何か文句あるわけ!?』なんて毒づいてくる気配はない。
変だ。ものすごく変だ。まるで帆波とは思えない。気が変わった――で済むような変わりようじゃ無い。もはや、人が変わったようだ。
そもそも……なんで帆波はこんなところで俺を待ち伏せしていたんだ? 帆波ならウチでふんぞり返って待っていそうなものなのに。なんで中学生のフリ(?)までして、電車で二十分の距離をはるばるやって来た? しかも、着拒してたのは帆波のほうだぞ。話があるなら、着拒を解いて俺に連絡してくれば良かっただけだろう。それなのに、なんで……?
「か……勘違いしないでよね」
ふと、聞き慣れた台詞――だが、やはり、らしくない棘も覇気も無い声が聞こえた。
「今すぐ……ラブホに行きたい、て言ってるわけじゃないから。ただ、幸祈が行こう、て言うなら私はどこにでも行く……て、そういう話」
「あ……ああ。それはもちろん、分かってる……」
分かってた……だろうか?
「私は……幸祈と一緒にいたいだけ。デートでどこに行こうと……幸祈が傍にいてくれたらいい。ずっと家にいたっていいし、どんなに趣味悪いとこでも気にしない。幸祈と一緒なら――私、どこにいたって平気」
たどたどしくも訴えかけるようなその言葉に、頭の中でビリッと刺激されるところがあった。
ハッと目を瞠る。
潤みを帯びた瞳を伏せ、どこか怯えたようにも見える切なげな表情を浮かべる彼女が、記憶に残るその子に重なった。『幸祈が一緒だから平気だもん』とハンペンマンの人形を抱いて、眼に涙を溜めてた女の子と……。
ああ、そうか――としっくりと来るものがあった。
別に変わったわけじゃないんだ。戻ったんだ。
「ごめん、帆波」という言葉がすんなりと胸から出て来た。「そうだったな」
そうだった――だから、ずっと傍にいてやりたい、と思ったんだ。だから、『彼氏』というものになりたくなった。
何をごちゃごちゃと小難しく考えていたんだろう。別に、佐田さんに相談するようなことなんて何も無かったんだ。
俺はただ、早く帰れば良かっただけだ。この子の傍に――。
堪えようの無い愛おしさがぐわっとこみ上げて来て、今すぐ、目の前の彼女を抱きしめたくなった。
帆波――と突き動かされるように手を伸ばそうとした、そのとき、
「なんで……幸祈が謝るの」と帆波は苦しげに呟くように言って、「謝らないといけないのは私。だって、私が……ずっと、幸祈のこと、雑巾扱いしてたんだから」
「雑巾扱い……!」
ああ、そうだった……! それもあったな!?
「お前……それ、さっきも言ってたけど、なんなんだ!? お前、俺のこと雑巾みたいに思ってたのか!?」
「思ってない!」
涙を散らしながらハッと帆波は眼を見開き、俺を見上げた。
「ちゃんと今治タオルみたいに思ってる!」
「そっか、良かった――てなんねぇよ!? 結局、布じゃねぇか!」
「今治タオルはただの布じゃないから! すごいんだから! 優しく包み込まれるような柔らかさに、吸収力も抜群で……」
そこまで言ってふいに帆波は口ごもり、「幸祈……みたいな」と眼を逸らしてぽつりと言った。
その瞬間、ドキッと――ならねぇよ!?
いや……いやいや……!? 全然、分からん! 喜んでいいのか、それ? 男として誉れ高いこと言われてんの? タオルに喩えられても、どう受け取ればいいのか全然分かんねぇんだけど。
とりあえず、帆波に悪気が無いことだけは伝わってくる。貶しているわけではないんだろう。
「今治タオルは置いといて」とため息交じりに言って、仕切り直す。「雑巾扱いってなんなんだ? 俺はそんな扱いをされた覚えはねぇんだけど……」
「え……ないの?」
「ああ、ねぇよ。あってたまるか」
そうなんだ……と呟く帆波は心底意外そうで。眼をパチクリとさせて俺を見上げている。
よっぽど、俺を『雑巾扱い』していた、と信じ込んでいたようだ――が、なんでだ!? いったい、どこからそんな考えが出て来た?
そりゃあ、いろんなワガママを言われてきたが……俺は一度たりとも『雑巾のように扱われている』と感じたことはない。そんな不満を口にしたことも当然無い。帆波自身も俺を雑巾みたいに思ってたわけじゃない、て言ってるし……そんなつもりもなかったんだろう。
となると――。
「もしかして……誰かに言われたのか? 俺のこと雑巾扱いしている、て……」
すると、あからさまに帆波はぎくりとして「はえ……!?」と頓狂な声を上げた。
「あなた、なんのこと、言ってる……!?」
「片言になってんぞ」
やっぱりか。誰かに言われたんだな。
雑巾扱い……とはさすがに言われなかったが、俺は俺で『坂北さんの藤代くんの扱いは目に余るものがあった』とついさっき、佐田さんに言われたばかりだ。佐田さん以外にも、そういう印象を抱いていた奴がいて、帆波に言ったとしてもおかしくない。
「誰に言われたんだ?」
「そ、それは……」
見るからに気まずそうに帆波は顔を強張らせ、
「アンタニ……関係ナイデショ」
「なんでそうなる? ――関係大有りだろ。俺のカノジョに変なこと吹き込んだんだ」
「ふえ……!? え……あ……俺のカノジョって……やだ、そんな……そんな……こと言われても……」
なぜか、頬をかあっと赤らめながら、あわあわと狼狽えだす帆波。
「なにをパニクってんの?」
「な……なんでもないわよ!」と急にいつもの調子に戻って甲高い声を上げると、帆波はふいっとそっぽを向いた。「とにかく……誰かは言わない。言えない!」
「なんで、言えないんだよ?」
「なんでもよ! そもそも、知ってどうするのよ!?」
「文句言うに決まってんだろ」
「そんなことできるわけないでしょ!?」
「『できない』って……なんでだよ?」
「きゃあ……!? なんでもない! なんでもないから、全て忘れて!」
絶対、なんでもなくないな。
しかし、ここまで頑なだと……帆波の性格上、絶対に口は割らない。これ以上、問い詰めても無駄か。
まあ、なんとなく見当はついてきてるけど……。
俺に『言えない』ってことは間違い無く、俺の知り合い。それも、こんなに意地になるんだ。ただの顔見知り程度じゃない。俺もよく知る誰かだ。
俺とも帆波とも親しくて、俺が『文句を言えない』(と帆波が思っていそうな)相手で……余計なことを帆波に吹き込みそうな人物。誰だろうか――なんて考えるまでもなく、眼鏡をかけてへらっと気の抜けた笑みを浮かべる奴の顔が浮かんでくる。
――兄貴だ。
ああ、そうか。いろいろと分かって来た気がする。
着拒中に……さては、兄貴に会ったな? ウチで俺を待ってたら、兄貴に出会した、てところか? それで、俺を『雑巾扱い』しているだなんだと兄貴に言われ……不安になって会いに来た?
一応、筋は通る――けど、腑に落ちないところもある。
普段、兄貴は俺の生活に干渉してくることはない。基本的にお互い我関せず。帆波とのことも、高みの見物決め込んで『自分でなんとかしろ』ってスタンスだったはず。それなのに、なんで急に、そんな余計なことを……?
まあ、どういう話の流れだったのか、今は知る由もないしな。どんな意図で兄貴が『雑巾扱い』なんて言葉を口にしたのかも分からない。
その辺は兄貴にあとで問い詰めるとして。今は――。
「とりあえず、場所変えるか」
切り替えるように明るい口調でそう言うと、俯いて何やら呪詛の如くぶつくさ呟いていた帆波は「へ」と弾かれたように顔を上げた。
なんで、突然? とでも言いたげに俺を見つめるくりっとした眼。涙でしっとり潤った瞳は、星空でも映しこんでいるかのようにキラキラと輝いて、見惚れそうになる……が。その周りは、何度も涙を拭ったせいだろう、痛々しく赤くなっていた。それは俺が傷つけた跡に他ならず。胸が痛くなった。
「眼、冷やしたほうがいいだろ。使ってないタオルあるから。それ濡らして冷やそう。――今治タオルじゃないけど……」
確か、近くに部活の先輩たちと寄った公園があったはず……とうろ覚えながら、くるりと身を翻して歩き出そうとしたときだった。
「あ……コーキ……マテ!」
ガチガチに硬い片言が聞こえて、何事だ!? と振り返れば、
「手……を……」顔を隠すように俯いて、身体の前で手をもじもじとさせながら、帆波は壊れかけのロボットみたいな口調で言った。「手……を……繋ぎ……繋いでも……いい……んだけど……」
言葉は途切れ途切れで、声は不自然に上擦って。内容よりも緊張ばかりが伝わってくるようだった。
そうして必死に紡いだ台詞はといえば、『手を繋いでもいいんだけど』……。
なんだ、それは――とつい、苦笑してしまった。
全く、呆れる。そんな言い方しかできない帆波も。そんな帆波をたまらなく可愛い、と思ってしまう自分も。
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