第7話 本音【上】

 大きくて逞しい。まるで知らない背中みたい。

 でも、この匂いは同じ。ずっと変わらない。まるで『我が家』みたいな、馴染み深い匂い。そして――、


「どうした――帆波?」


 降って来たその声は、困惑しつつも慈愛に満ちて。呆れながらも愛おしそうに私を見つめるその顔が目に浮かぶよう。そんな彼らしい声が今はたまらなく涙腺に沁みてしまって……。


 はうう……好きぃいい! て胸が苦しいほどに締め付けられて。爆発しそうな愛おしさが涙となってどばっと溢れ出てくるようだった。


 あんな別れ方したのに。ひどい捨て台詞まで吐いて、(不可抗力にも)音信不通決め込んじゃったのに。

 それでも、責め立ててくるわけでもなく受け止めてくれるんだ。まるで、当たり前のように。


 ああ、やっぱり……好き。大好きだ。私、幸祈のこと愛してる――。


 その存在を確かめるように。彼がここにいる、て実感をもっと味わたいくて。ぎゅっとさらに強く幸祈を抱き締め、その背中に顔を埋めた。そのときだった。


「え……本当に、坂北さん?」


 恐々とそんなことを言う声が聞こえてハッとする。

 微睡んでいたところに、ガンと頭を殴られたようだった。

 そうだ……とこの状況を――この場に居るのは私と幸祈じゃないことを――一瞬にして思い出す。

 ばっと幸祈から身体を離して、声のした方を見やれば、そこにはもう何ヶ月かぶりに対峙する同中がいた。さも意外そうに目をまん丸にして私を見つめている。

 そりゃ、驚く……よね。突然、カノジョが現れたら。今、まさにその彼氏を連れ去ろうとしている現場に……。


 女の勘? 虫の知らせ? それとも――知らせ?

 佐田さんと見つめ合っていると、おぞましいような……ぞわぞわと不穏な胸騒ぎを感じて。段々と、察し始めていた。佐田さんの下心。


 よくよく考えてみれば、不自然だったんだ。あのLIME――『念の為に、近くのラブホも調べておくよ。コスプレ好き?(笑)』だなんて、彼女がいる人に送る? ろくに話したこともない佐田さんあいてから、そんなメッセージが来るなんておかしい……て思ったけど。違う。ろくに話したこともない人に、そんなメッセージを送るほうがおかしかったんだ。

 それに加えて、さっきの行動。

 幸祈の腕を掴み、明らかな目的をもってどこかへ彼を連れて行こうとしていた。どこへ――て想像するのも恐ろしいけど。たとえ、どこだろうと、ただのクラスメイトと腕を組んで行く必要なんてある? しかも、こそこそと二人で身を寄せ合うようにして……。


「帆波……マジでどうしたんだ? なんで、こんなとこに、そんな格好で……?」


 幸祈がおもむろにこちらを向き、そっと優しく私の肩に手を乗せてきた。それだけで……触れられたところがじんと熱くなって、愛おしさが全身に広がっていく。そして同時に、不吉な……言い知れない虚しさがこみ上げてくるのを感じていた。

 ちらりと視線を上げて見やれば、やっぱり……幸祈はいつものように私を見つめていた。まっすぐに、熱のこもった眼差しで。そんな変わらぬ彼の様子が、今は怖かった。


 ――なんだろう?

 幸祈は知ってるの? 佐田さんの下心に気づきながら会ってたの? 分かっていて、その手を振り解こうともせずについて行こうとしてたの?


 幸祈は絶対に浮気なんてしない。そんな人じゃない、て信じてる。信じてる……けど。万が一、浮気されても仕方ないのかもしれない、とも思い始めていた。魔が差しても仕方ない。浮気心が芽生えても仕方ない。佐田さんの胸の中に埋まりたくなっても仕方ない。そこまで幸祈を追い詰めたのはお前じぶんだペン――なんて言われても仕方ないようなことを、私はしてきてしまっていたのだろうから。

 見限られたって当然。そもそも、私にはもう彼を引き止める資格も無いのかもしれない。


 でも……でも……。


 ああ、ダメだ。せっかく止まったと思ったのに。だばーっと涙が溢れてくる。


「号泣!?」と幸祈はぎょっとして、「帆波!? ど……どうした? なんで、そんな泣いて……」

「お願い……行かないでぇ……」


 ひぐひぐと子供みたいにしゃくり上げながら、次から次へと溢れ落ちてくる涙を必死に拭う。


「いや、行かないでって、ずっと止まってるけど……!?」

「もう雑巾扱いしないからぁ」

「雑巾扱い!?」


 幸祈が素っ頓狂な声を上げるや、「まあ」と感心したような声がして、


「そんなプレイまで……」

「どんなプレイ!? って、いや、なんのプレイもしてないから!」

 

 身体中が熱い。息ができない。

 こんなに泣くの、初めてだ。自分の中で……何かがポンと外れちゃったみたいな。堰を切ったように――て、こういうことを言うのかな。いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って溢れ返ってくる。もうわけ分かんない。

 ただ、幸祈の傍を離れたく無い、て気持ちだけははっきりしていて。幸祈に置いて行かれたく無い一心で――、


「どうしても行くなら……私も一緒に連れて行って! ラブホでもどこでもいい。どんな色のバスローブでも着るから。もういっそのこと、三人で仲良くすればいいじゃん!?」


 その涙声はすっかり暗くなった辺りにわんと虚しい余韻を残して消えた。

 じっと縋るように見つめる先――、涙が滲む視界の中で、幸祈はぽかんとしていた。しばらく茫然としてから、かあっと顔を赤くして、


「何の話をしてるんだ、お前は!?」

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