第6話 お願い【下】

「『もう連絡しないでほしい』?」と佐田さんは眼鏡の奥で目を丸くした。「それが……頼み?」

「ああ……」


 気まずいなんてもんじゃない。

 申し訳ないやら、居た堪れないやら、情けないやら……。

 昨日、連絡先を交換して、散々、相談にも乗ってもらっておいて。こっちの都合が悪くなるや『もう連絡しないでくれ』なんて……何様だ? て話だ。これこそ、横暴ってもんだろう。

 佐田さんの真っ直ぐな視線が痛い。

 でも――と悲鳴を上げる良心を押し殺し、せめてもの思いで佐田さんをしっかりと見つめ返して言う。

 

「ごめん。もう帆波を不安にさせたくないんだ。余計な誤解を招くようなことはしたくない。だから、今後は、クラスの用事以外では連絡は取り合わないようにしたい」

「それは」と佐田さんはわずかに眉をひそめ、口許にそっと指先を置いた。「私とのLIMEを見られて……着拒されたから?」

「ああ……そうなる、かな」


 実際、何が引き金になって着拒に至ったのかは分かっていない。

 佐田さんからのLIMEを見て、確かに帆波は動揺してたけど。そのあと、ちゃんと『話を聞く』って俺の弁解を聞いてくれたんだ。ひどく取り乱したのはその後で……きっと、俺の弁解に問題があったんだろう、と思う。ただ、何が問題だったのか分からない――それが問題で。

 だったら、もうその問題の根っこを断とうと思った。今後、また同じようなことが起こらないように、佐田さんと連絡を取るのはめよう、と。

 もちろん……それは全部、俺の事情だ。そんなもんを一方的に押し付けられても、佐田さんはたまったもんじゃねぇよな。はた迷惑な上に無礼千万。『最っ低!』なんて罵られてもいいぐらいなのに。佐田さんはいたって落ち着いた様子で「なるほど」と呟いた。


「つまり、今後一切、連絡して来ないで欲しい、て私にお願いするために連絡して来た――と?」

「ああ……そう、だ」

「私との仲を坂北さんに疑われたくなくて、『話がある』て私を呼び出し、今、こうして二人きりで会ってるということ?」

「そう……だけど」


 なんだろう。責められている感じではないが……妙な含みを持たせた言い方だ。何かに引っかかっているのは明らか。こんな話をするためにわざわざ呼び出されたのが不快だ……とか?


「こんなこと、LIMEとかで伝えるのは違う気がして。せめて、直接、会って言うべきだと思ったんだけど……それも迷惑だった、か」


 頭を掻き、「ごめん」とぎこちなく謝ると、佐田さんはフッと笑って、


「本当に……悩ましいくらいに誠実ね」

「え……?」

「そういうところ、いいな、て思ったのに。そのせいでアプローチさえ叶わなくなるなんて。――不毛だわ」


 アプローチ……?

 なんの話だ――と聞き返す間も無く、佐田さんはそっと身を寄せて来た。

 刹那、ふにっと腕に柔らかな……まるで吸い込まれるような弾力を感じて、ぎょっとする。

 身体中の全神経にビリッと電流でも駆け抜けたかのようだった。


 これは……もしかしなくとも、……!?


 ぱっと脳裏をよぎったのは、体操着姿の佐田さんで。慎ましやかな雰囲気の中、胸元だけ無邪気に弾ませる様が頭に浮かんでしまって――あまりにはっきりとした映像きおくに、何をガッツリ見ちゃってんの!? と我ながらドン引きした。

 違うんだ、違うんだ、帆波……! 佐田さんの胸に興味があったわけではなく……動くものに目がいく狩猟本能の一種というか……! と居もしないカノジョに必死に弁明する俺をよそに、佐田さんはさらにぐっと身を寄せ、「藤代くん――」と耳元で囁いて来た。

 え――なに、これ? なんなの、この状況!? なんで、急に佐田さんはこんなに近くに寄って……!?

 あたふたとして、「さ……佐田さん!?」と身を離そうとしたとき、


「変な人がいる」


 こそっと佐田さんが囁いた。

 

「変な人……?」


 ハッとする俺に、「藤代くんの後ろ」と佐田さんは不安げに続ける。


「少し離れたところから、ずっとこっち見てるの。キャップ被ってて、顔はよく見えないけど……たぶん、格好からして中学生くらいの男の子? こっち向いて何もしないで突っ立ってる。なんだか……不気味で」


 なに、それ……怖い。

 そうっと振り向こうとすると、


「見ないで」と佐田さんは鋭い声で制し、「刺激したくないから。気づいてないフリして、一旦、ここを離れましょう」

「離れるって、駅はここ……」


 俺が言い終わらぬうちに、佐田さんはぱっと身体を離し、「こっち」と俺の腕を掴んで駅とは反対方向に歩き出した。


「通りの向こうに交番がある。そっちに向かいましょう」

「交番……!?」


 そこまで!?


「そんな危なそうな奴なのか?」

「気のせい……だといいんだけど」と佐田さんは顔を曇らせる。「なんだか……ただならない気配する」


 ただならない気配とは……!? なに? まさか、殺気……とかいうやつじゃないよな?

 俺、何も感じなかったんだけど。佐田さん、第六感でもあんの? それとも、女の勘?


「大丈夫、佐田さん?」


 とりあえず、佐田さんを落ち着かせることにして。寄り添うように近づき、努めて優しく声をかけると、


「藤代くん」佐田さんはすっかり青ざめた顔で俺を見上げ、「ただならない足音がする」

「え……?」

「追いかけて……来てない?」


 ぎゅっと俺の腕を掴みながら、震えた声で言う佐田さん。

 ぞっと背筋が凍りついた。

 いや? いやいや……そんな? 他にも人いるし? 足音なんていくらでも響いているし? 確かに、背後から近づいてくる足音もするけど。着実に距離を詰めて来ている感じがするけど。通りすがりのジョギング中の人かもしれないし、部活帰りの遊佐って可能性だってあるわけで……。

 まあ、何にしろ。確かめる方法は一つだけだよな。

 ごくりと生唾を飲み込み、


「ちょっと……振り返ってみるわ」

「え……危ないよ!?」

「危ないかどうか、確かめてみないことには逃げられないだろ――」


 意を決し、振り返ろうとした、そのときだった。

 ドン、と背中にものすごい衝撃が走った。

 え、ウソ――刺された!? と思った瞬間、


「行かないで……!」


 『逝かないで』じゃねぇよ……!? とぎょっとして、すぐにハッとする。

 背中に痛みが無い――どころか。じんわりと暖かくて、優しい感触がした。そして、するりと腹に回って来た手にはナイフなんて握られてなくて。ぎゅっと俺のブレザーを掴むその手は小さく、華奢で……頼りなく震えているように見えた。

 きゅうっと胸が締め付けられるような既視感を覚え、そういえば――と唐突に気づく。

 さっきの声って……。


「まさか……」


 咄嗟に身をよじって背後を見やる。

 そこには確かに、佐田さんの証言通り、キャップを被った中学生らしき奴がいた。小柄なその身を震わせながら、俺にひっついて……嗚咽のようなものを漏らしている。

 やっぱりそうか――と安堵しながらも困惑した。

 意味が……分からなかった。状況が全く掴めない。

 確か、喧嘩していたはずで。着拒されてて。昨夜から音信不通で。何を間違ったのだろうか、とずっと悶々としていて。だから、こうして佐田さんと会って、身勝手極まりないお願いをしていたわけで。

 それなのに……なんで、ここにいる? なんで、いきなり『行かないで』なんて言って抱きついて来る? なんで……泣いているんだ?

 分からないことだらけだ。でも、少なくとも、が誰かだけは分かるから。


「どうした――帆波?」


 宥めるような声色で、やんわりとそう俺は声をかけた。

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