第4話 幸せ【下】

 さすがに遅くまで佐田さんを待たせるのも悪くて。急用が――なんて我ながら嘘っぽい理由をつけて、部活を早めに抜けた。

 うちは県内でも最弱(らしい)ハンドボール部で、入部しただけで救世主のように扱われ、練習に参加すれば初心者でもエースの如くちやほやされまくる。今日も抜けることを告げても部長は怪しむ様子も無く、「明日も来てね」と快く送り出してくれた。「お疲れ」と手を振る先輩たちの若干ながら悲壮感漂う様子に、そうやって一人ずつ部員がフェードアウトしていった経験があるのだろう、となんとなく察してしまって……明日はちゃんと最後まで参加しよう、と思った。


 部室で着替えながら佐田さんに連絡すると、すぐにLIMEが返って来て、予定通り駅で待ち合わせることに。

 着替え終え、まっすぐに駅へと向かう。

 早めに抜けたといっても、もう六時を回っていて、赤く焼けた空は薄黒く濁り、宵闇の様相を帯び始めていた。

 そんな空を振り仰ぎながら、今ごろ、帆波はどうしてるだろう――なんて考える。


 俺の部屋で待っていてくれているんだろうか。何事もなくケロッとして、昨日みたいに『おかえり』って迎えてくれるだろうか。

 なんだ、心配して損した――て小憎たらしく思いながら、思いっきり抱き締めたい。『返事くらいしろ』って説教しながら。どんだけ心配したか、その体に思い知らせてやるように、きつく抱き締めたい。


 そうなるといい――けど。


 もし、いなかったら……?

 家について、玄関を開け……そこに、もしあのサンダルが無かったら――とその画を想像するだけで、心臓がきゅうっと縮むようだった。

 着拒なんて今まで無かったから。それだけで異常事態だ、て分かる。今回ばかりは今までの喧嘩とは違うんだ、てそれくらいは察してる。思えば、付き合って初めての喧嘩だし……勝手が違って当然なのかもしれないけど。結局のところ、そんな違いさえも俺はよく分かってない。

 きっと何かを見逃してるんだ。まだ、どこかで……俺は幼馴染のままで。彼氏になりきれずにいる部分がある。『自覚』というものが足りてない。だから、何かやらかして……着拒させるほど帆波を追い詰めた――んだよな。

 具体的に何がいけなかったのかは分からない。ただ、だけは分かってる。だから、今はそれを正すしか無い。まずはそれを正してから、帆波に謝ろう。


 今、俺が考えられ得る誠意なんて、そんなもんしかないから――。


 気を落ち着かせるようにため息吐いて、顔を前に向ければ、もう駅が見えて来ていた。駅ビルもない簡素な駅舎。本屋とハンバーガー店に挟まれたその建物の前で、一人、佇む人影があった。すらりとした長身に、ぴしっと背筋を伸ばした立ち姿はブレザーの制服がよく似合って、遠目でも異彩を放っている。


 佐田さん……だ。


 俺に気づいて手を振るその姿に、ズキリと良心が痛む。

 今から佐田さんに言うことを考えれば当然だ。


「藤代くん」


 近くまで行くと、佐田さんもゆったりと歩み寄って来て、


「別に、部活を早退してくることなかったのに」

「いや……あんまり待たせると悪いし」

「私だって勉強があるからいいのに」さらりと髪を耳にかけながら、うっすらと佐田さんは笑む。「藤代くんって、悩ましいほどに誠実よね」

「悩ましい……?」

「だから――坂北さんの横暴にも耐えちゃうのね」


 聞き逃しそうなほど何気無く。ぽろっとこぼした佐田さんのその言葉に、ハッとして目を見開く。

 今、なんて……言った?


「電車に遅れちゃうから急ぎましょうか」


 ちらりと腕時計を見て身を翻す佐田さん。思わず、「ちょっと待って」と俺はその腕を掴んで引き止めていた。


「今の……どういう意味?」

「そのままの意味だけど」と振り返りながら佐田さんはなんでもないかのように答え、「藤代くんって、本当は無理して坂北さんと一緒にいるんじゃない?」

「は……!?」


 寝耳に水? 藪から棒? 青天の霹靂? 目玉が飛び出る? もはや、この心境をどう喩えればいいのかも分からないが、とんでもないにとにかく驚愕して、


「なんで、そんな……!?」とあたふたとして、その腕から手を離しつつも佐田さんに詰め寄る。「そんなこと……誰から聞いたの!?」

「誰からって……言うなれば、藤代くん」

「俺!?」

「坂北さんと付き合いだしてからのこの二日間、藤代くん、ずっと昏い顔して、全然幸せそうじゃないから。よっぽど無理してるんだろうな、と思って」


 ガン、と頭を殴られたような気分だった。呆気に取られて絶句する。

 ああ、これは分かる。『言葉も出ない』ってやつだ――。

 幸せそうじゃない? 無理してる? いや……何言ってんの? 何年、片思いしてきたと思ってんだ? 苦節うん年。せっかく、帆波と恋人になれたってのに。幸せじゃないわけがない。想いが通じた瞬間、まさに天にも昇る心地だったんだ。

 でも……なんだろう。

 鼻で笑って受け流してもいいだろうに。そんなことない――てきっぱり否定すればいいだろうに。できなかった。何もできずに、愕然として佇んだ。

 何か、胸にチクリと針でも刺されたような痛みを覚えて。それは、厭な……居心地の悪い痛みで。言うなれば、『痛いところを突かれた』みたいな……。


 幸せじゃないわけがない――けど。幸せそうじゃなかった、という言葉には思い当たる節があった。


 確かに、昨日から俺はずっと悩んでばかりだ。昨日は初デートのことで。今日は昨日の喧嘩のことで。ずっと辛気臭い顔をしていた自覚は確かにある。無理している、と思われても仕方ない態度を取っていたのかもしれない……。


「この際だから、訊いちゃうけど」佐田さんは体ごとこちらに向け、俺と向かい合い、「藤代くん、本当に坂北さんでいいの?」

「な……!?」とぎょっと目を丸くする。「なに……言ってんの?」

「端から見てて、坂北さんの藤代くんの扱いって目に余るものがあったから。親しき仲にも礼儀あり……でしょう? いくら幼馴染だから、て横暴に過ぎる、と思ってたの」

「あ……ああ……」


 そんな風に思われてたのか。

 まあ、実際……横暴ではあったからな。

 いつからか、帆波は俺に冷たくなって、一緒に登校はするものの、口を開けば毒ばかり吐きやがり、学校で会えば刺々しい態度で邪険にされ、俺んとこに来るのはお願い事があるときだけ。だからこそ、脈無しだと信じ切っていたわけで。一昨日、その全てが俺を好きだったからだ、という真相を知って、どれだけ驚いたことか……。

 そんな帆波の俺への態度に違和感を覚える奴が周りにいてもおかしくないよな。


「いや、実はそれな……」と照れ臭くなりつつも、帆波の誤解を解かねば、と頭を掻きながら言う。「どうやら、全部、俺のこと好きだったから、らしくて……」

「皆、知ってた」

「知ってたの!? って、皆って……!?」

「それでも……素直じゃないにも程がある。好きだからって何してもいいわけじゃないでしょう?」


 正論すぎる。

 悪い、帆波――と思いつつも、俺は何も言い返せずに口を噤んだ。


「ただ、まあ……」とふいに佐田さんは溜息吐いて、視線を落とした。「それも一種のプレイで、二人きりになった途端、藤代くんが坂北さんに辱めの限りを尽くしている可能性も無きにしも非ず、とも思ってたの」

「え……なんて?」

「でも、昨日、まだそういう関係じゃない、て言ってたし、初デートの行き先だけで入試並みに真剣に考え込む藤代くん見て……藤代くんが坂北さんのことを大事に想っていることが伝わって来た。誠実な人なんだな、て思った。だから、納得いかなくなっちゃった。――なんで、坂北さんなんだろう、て」


 ゆっくりと佐田さんは視線を上げ、真剣というよりも緊張が伺える硬い表情で俺を見つめてきた。


「ずっと冷たくされてきた上に、付き合ってからも悩まされて……挙げ句の果てに、いきなり着拒までされて。なんで、それでも坂北さんなの? もっと他に……楽に付き合える相手なんていくらでもいるでしょう。その方が、藤代くんも幸せなんじゃない?」


 もっと他に……? 帆波以外の……相手?

 あまりに突拍子もない提案だった。

 帆波以外――なんて想像すらしたことない。気づいたときには、帆波のことを好きになってたから。だからこそ、なんで……と訊かれると戸惑う。

 ただ、仮にもし……て考えたとして。帆波以外の誰かと付き合うことになったとしても……きっと、俺は帆波のことが気になって仕方ないんだろう、と容易に想像がつく。今頃、寂しい思いはしていないか、と……カノジョの傍にいながらも、心の片隅ではいつも帆波のことを想うんだろう。

 幸祈が一緒だから平気だもん――とハンペンマンの人形を抱いて、涙を必死に堪える帆波がいつまでも頭の中にいるから。


 フッと口元が緩んでいた。


 ちょうど、佐田さんが「例えば……」と何か言いかけたときだった。


「『幸祈が一緒だから平気だもん』、て言われたんだ」


 呟くようにぽつりと言うと、佐田さんは「は?」とらしくない惚けた声を漏らし、怪訝そうに眉をひそめた。


「坂北さん……に?」

「小さい頃……で、帆波は覚えてもいないだろうけど。覚えてても『そんなこと言ってないわよ!』て否定してきそうだけど……。

 帆波の親は共働きでさ、よくウチで帆波を預かってたんだ。ほとんど毎日、夜遅くまで……。帆波はいつも平気そうな顔してたけど、夜になって俺と二人きりになると寂しそうにしてた。好きな人形抱いて、目に涙溜めながら……それでも泣き言も文句も言わず、親が迎えに来るのを待ってた。そんな子にさ、俺が一緒だから平気だ、なんて言われたら……ずっと一緒にいてあげよう、なんて気になっちゃうよな」


 もちろん、そのときはまだ『恋』なんて感覚は無かった。ただの子供じみた正義感。漠然と……この子を守らなきゃ、と思った。それが根っこにあって。その想いがいつのまにか、一緒にいたい、なんていう欲望に成長していったんだろう。今ではもう、帆波のいないウチを想像するのも耐えられないほどに。


「それ……だけ……?」


 しばらく茫然としてから、佐田さんは心底不可解そうに顔をしかめた。


「そんな一言で……どんな仕打ちにも耐えて来ちゃったの?」


 仕打ちって……とつい、苦笑してしまう。

 いったい、帆波の『照れ隠し』はどれほど酷いものに佐田さんの目に映っていたのやら。


「まあ……そうだな。どんな仕打ちにも耐えれちゃったんだろうな」


 冗談っぽく返してから、改めて真剣な面持ちで佐田さんを見つめる。

 本当は、電車の中でゆっくり話すつもりだったけど。もうここまで話したんだ。この流れで一気に言ってしまおう――と思った。


「佐田さんのアドバイスは有難い……んだけど。俺は帆波がいいんだ。たとえ、帆波の傍にいたい、て思う。――だから、佐田さんに頼みがあるんだ」

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