第3話 幸せ【上】
無い。無いから。絶対無い!
一体何がどうなったら、恋愛相談から幸祈が佐田さんの胸に
私、ちゃんと知ってるのよ。幸祈はバカがつくほどの大真面目で、老熟しちゃってるくらいに理性的。
あのLIMEだって、初デートの相談してただけでしょ。その流れで佐田さんが幸祈を揶揄ってきただけ。それだけの話よ。
そう――それだけの話……だったのに。
その瞬間、ぷつりと心に針でも刺されたようだった。勇ましく奮い立たせていた心がふしゅーっと一気に萎む。
そろそろ校門も目前という頃。荒々しく学校へと向かっていた足がぴたりと止まった。
ああ……ほんとバカだ――。
なんであんなこと言っちゃったんだろう? 佐田さんに相談すれば? なんて……。
違うのに。厭なのに。他の女の子に相談なんてしてほしくないのに。相談なんてする必要ないんだ、て気づいてほしかっただけなのに。私は幸祈の傍にいられたらそれで良い。幸祈さえ居てくれたら、どこだって良い。私の行きたい場所なんて一つだけ――『幸祈の隣』なんだ、て……その気持ちを幸祈に分かってて欲しかっただけ。
それなのに、なんで……。
いつになったら、ほなみちゃんは成長するんだペン――そんなハンペンマンの声が脳裏をよぎって、きゅっと唇を噛み締めた。
そのときだった。
「坂北さん!」
聞き慣れた、人懐っこいその声にハッとして振り返る。
「やっぱ、坂北さんだ」とコンビニの袋を手に、タッタと軽い足取りで駆け寄ってくるのは、紛れもなく、同じクラスの尾田くんだった。「遅刻なんて珍しいね。今朝、いないからどうしようかと思ったよ」
「尾田くん……」
なんでこんなところに……と一瞬、不思議に思ったけど。
ちらりと尾田くんの背後を見やれば、通りの向こうで、同じようにコンビニの袋を手に信号待ちをしている男子三人組が。
昼休みに皆でコンビニに行ってきたのか――と察しがついた。
「どうしようって……?」
歩き出しながら訊ねると、尾田くんも私と足並み揃えて歩き出し、
「坂北さんに渡したいものがあってさ」
「渡したいもの?」と訝しげに見つめ、「――いらない」
「うわ、即答!」
いたた〜、となぜか嬉しそうに言いながら、尾田くんは胸を押さえた。
「もう持ってきちゃってんの。部室に置いてあるんだよね。帰りに渡すから」
「いらない」
「いや……変なものじゃないんだ。高価なものでもないし、遠慮しないで……」
「いらない」
「頑な!」
「昨日も言ったけど……彼氏いるの。プレゼントとか困るし……いらない」
少しきつめにそう言っても、「プレゼントとかじゃないんだ」と尾田くんは食い下がり、ふいに表情を硬くした。
「お詫びっていうか……」
「お詫び?」
「昨日の……ほら、スマホさ、俺のせいで落としちゃったから」
「あ――」
いつもは飄々として、本気なんだか、揶揄っているだけなのか、軽いノリで言い寄ってくる尾田くん。でも今は、ずんと重いオーラを漂わせ、目も合わせてこない。
本当に気にしているんだ、とひしひしと伝わってくるようだった。
「弁償は無理でも……せめて、と思って。ほんと大したものじゃないんだけど……何もしないのは気が引けるからさ」
頸の辺りを掻きながら、ぎこちなく口許を歪める尾田くん。
こう見えて、俺、結構こういうの気にするタイプ! ――必死にそう訴えかけてきた昨日の声が蘇ってくる。
あれからもずっと気にしてたのかな。
私の不注意だったのに。私が幸祈のバスローブ姿なんて思い浮かべてたせいなのに。居た堪れないというか。なんだか申し訳なくなってきて……尾田くんの気が済むなら、という気持ちが芽生えてきてしまった。
「お詫び……てことなら」
ぼそっと言うと、「マジで!?」と尾田くんはぱあっと顔を輝かせ、振り返った。そのままぐっと詰め寄ってきそうな勢いがあって、つい、距離を取る。
「ただ、それで終わりにして。スマホのこと……そんなに気にされても、私も困る」
「あ……うん。分かった」と尾田くんは降参でもするように両手を挙げて見せ、きりっと顔を引き締めた。「それ渡したら、昨日のことは忘れる」
「ついでに……いろいろ誘ってくるのもやめてほしい」
「それは無理」
へらっと笑う尾田くん。
「なんでよ!?」
苛立ちいっぱいにがなり立てても、尾田くんは何処吹く風。ほくほくと顔を綻ばせ、気にする様子はない
ああ、もお……!
どうすればいいの!? なんで全然退いてくれないの!? 葵の言う通り、冷たくしてるのに。これでもかってくらいに素っ気なくしてるはずなのに。全然効いてる様子無いんだけど。それどころか嬉しそうなんだけど!? どうしたら諦めてくれるわけ!?
こうなったら……と意を決して立ち止まる。
ちょうど校門をくぐったところだった。
尾田くんに体を向け、「あのさ……」と私は低い声で切り出した。
「はっきりさせておきたいんだけど」
「え、なに?」
尾田くんもぴたりと立ち止まり、私に向かい合う。
愛嬌たっぷりに浮かべるその笑みをきっと睨め付けるように見つめ、
「私、本当に……彼氏のこと好きなの。小さい頃からずっと好きだったの。彼以外は無理。考えられないし、考えたくも無い」
きっぱり言い切ると、尾田くんはくりんとした目をまん丸にして、しばらく茫然としてから、「おお……」と感心したような声を漏らした。
「愛してんだね」
あ……愛してる!?
思わず、ビクンと身体が飛び跳ねる。かあっと顔が熱くなった。
な……なに、急に!? 愛してるって……そんなこと急に訊かれても困る。だって、一昨日やっと『好き』って伝えられたばかりで。まだ『好き』と『愛してる』の違いだって分からないくらいで。――ただ、幸祈のことを想うと、体の奥が疼き出す。骨の髄まで幸祈に満たされたい、なんて気持ちが湧いてきて。幸祈になら何されてもいい、て本気で思っちゃう。この感情は子供の頃には無かったもので。ただ漠然と幸祈を『好き』だったときには無かったから。きっと、これは……『愛してる』なんだと思う。
でも、それをこんなところでクラスメイトに言うの?
すっかりたじろいで、ごまかしたくなる。逃げてしまいたくなる。
でも――ときゅっと拳を握りしめる。
ここで照れて引っ込んじゃダメだ。はっきり言って、すっぱり諦めてもらわないと。もういい加減、分かってもらわないと。私は幸祈のものなんだ、て。
覚悟を決めてすうっと息を吸い込み、真剣な表情で尾田くんを見上げる。
「あ……愛してるわよ! 悪い?」
もうヤケだ。顔が真っ赤に染まるのを感じながら、これでもかときっぱり言うと、
「いや……悪い、ていうか」と尾田くんは呆気に取られた様子で目を瞬かせた。「彼氏が羨ましいわ。そこまで坂北さんに愛されて幸せ者だな、て」
幸せ者――?
思わぬ言葉に「へ」と惚けてしまった。
考えたこと……無かった。『幸せ』なんて。幸祈は幸せなのか、て。
どう……なんだろう? 幸祈は幸せ者? 私に愛されて、幸せ? そう……なのかな? そうだと……いいけど。
なんだろう。自信が持てない。ええ、そうよ――なんて虚勢を張る気にさえならない。
最後に見た幸祈の顔は、笑顔でも無く、呆れ顔でも無かったから。困惑と焦りをそこに浮かべ、縋るように私を見つめて……とてもじゃないけど幸せそうには見えなかったから。そんな彼に、私は『また、佐田さんに相談でもすれば!?』なんて心にも無いこと言って突き放してしまった。
ズキリと鋭い痛みが胸を貫く。
目の前が真っ暗になるようで。ずしりと重く冷たいものが伸し掛かってくる感じがした。
「坂北さん……?」
心配そうな尾田くんの声が――すぐ側にいるはすなのに――ずっと遠くに聞こえた。それ以上にはっきりと脳裏に響く声があって……。
今、こうきくんは雑巾みたいな気分でいるペン――そんなあいつの言葉が何度も頭の中に木霊しては、頭痛でもするようだった。
こんなに好きなのに。愛してる……のに。私、何してるんだろう?
「私……帰る」
無意識に、そう口にしていた。
「え、帰る!? なんで……? 今、来たのに!?」
「ちょっと……気分悪い」
踵を返して歩き出すと、「大丈夫? 送っていこうか!?」と焦った声が聞こえて、
「いい!」と慌てて振り返って言う。「一人で帰れる。ありがとう」
それでも心配そうに顔を曇らせる尾田くんを残し、私は駆け出した。
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