第9話 恋と事故【上】

 間違いなく、幸祈が私の初恋だ、て……そう自信を持って言えるくらい、ずっと前から幸祈のことを好きだった。

 気づいたときには、幸祈が傍にいるのが当たり前になってて、幸祈が傍にいるだけで安心できた。

 そのうち、幸祈が他の女の子と話してるとモヤッとするようになって、それがなぜなのかも分からなくてイライラして……その得体の知れない苛立ちを幸祈にぶつけるようになって。

 いつから、それを『恋』だと自覚したんだろう――。はっきりとは覚えていないけど、少なくとも、中学の頃には確実に幸祈を『男の子』として見るようになってて、幸祈に悟られないように、こっそりと……幼馴染じゃなくて、『恋人』としての幸祈を想像するようになってた。


 でも……いつも、うまくいかなかった。


 何度も、幸祈とキスしようとしたことだってある。もちろん、頭の中で……だけど。

 たとえば――、ちょっと幸祈の肩に頭をもたれかけて、『キスして』とか言ってみたり。

 いっそのこと――、ソファに押し倒しちゃって、『キスしよ』とか言ってみたり。

 ドラマやネット、友達(ほとんど葵)の体験談から得た数少ない知識を頼りに、いろんなシチュエーションを考えて試してはみたけど、その先に進むことができなかった。ただ純粋に想像がつかなかったんだ。幸祈が私にキスしてくれるとこ――。

 そりゃあ、幸祈は優しい。いつも、どんなときでも、優しくて……なんだかんだ、私を甘やかしてくれた。でも、優しい――だけだった。そこに下心なんて一切感じさせなくて……どんなにスキを見せようと、そこにつけいってくるようなことは無かった。常にパーソナルスペースをキープ。一切近づいて来る気配は無くて、私の気持ちに気づく様子も皆無。

 だから、私にデレデレして、甘いことを囁いて、ベタベタしてくるような幸祈を想像しようにもできなかった。そんなことあり得ない、て脳に刻み込まれてしまっているかのように……。

 どれほど妄想の中で幸祈を誘惑しようとしても、そのたび、『なんで?』て幸祈に困った顔で言われて終わり。あっけなく我に返って虚しくなるだけだった。


 でも、今は――。

 

 学校を出て、しばらく歩いたところで、交差点に差し掛かった。ちょうど信号が赤に変わって、ぴたりと足を止め、おもむろに鞄からスマホを取り出す。

 なんの通知も無し。

 あれから、幸祈からのLIMEはない。私も返事をしてないし、当然といえば当然……で、。付き合いだしたからといって、幸祈のメッセージに変化は無い。別に、長文を送ってくるわけでもないし、スタンプべたべた貼ってくるわけでもないし。用件だけ、そっけないほどに簡潔に。付き合う前と何も変わらない……ように思えるけど。

 間違ってるぞ――の一言で途切れたままの幸祈とのトーク画面を見つめながら、思い出していた。昨日の幸祈のこと……。

 本当にびっくりした。

 あの幸祈が『本気で惚れさせる』なんて言うなんて――、『可愛い』なんて言ってくるなんて――、『キスしたくなる』なんて口にするなんて――。

 まだ、思い出すだけで胸の奥が熱くなる。

 もう十年以上も一緒にいたのに、あんな幸祈を私は知らなかったから。どこか達観した雰囲気があって、冷静で、一歩引いた感じがあって――そういう幸祈しか知らなかったから。


 ――藤代くんも意外と積極的〜! そのペースなら、あっという間に最後までやっちゃいそうね〜。次に『幸祈』の家に行く時は覚悟して行きなよ。


 今朝の葵の言葉が脳裏に蘇って、きゅうっと鳩尾の奥が締め付けられる。

 ただの……葵の冗談だったのかも。茶化されただけかも。葵は本気で言ったわけじゃない――のかもしれない。でも、今の私にはそれはあまりにも真実味を帯びて聞こえてしまうんだ。

 愛おしそうに私を見つめる、幸祈の熱い眼差し。緊張が窺える、幸祈の強張った表情。もう待たせねぇよ――て覚悟を滲ませた声色で言って、キスしようとしてくる幸祈が、瞼を閉じれば、まざまざと思い浮かぶから。

 あの幸祈なら――て、今は想像できてしまう……。

 部屋で二人きりになって、キスしてくる幸祈も。そのまま、『好きだよ、帆波』とか甘く囁いて、私を抱きしめてくるバスローブ姿の幸祈も――て、え?


「なんで、バスローブ!?」


 ハッとして目を開くと、ちょうど、信号が青に変わるところだった。

 犬を連れたおじいさんが、ちらりとこちらに一瞥くれて、横断歩道を渡って行く。

 かあっと顔が熱くなって、あまりの恥ずかしさに、たまらず俯き、足早に横断歩道を渡る。


 な……なにを想像してたんだ、私は!? まだ下校途中に、こんな道端で……! しかも……なんでバスローブ――て……いや、考えるまでもない。


 あの夢だ。

 

 バスローブを着た佐田さんに、バスローブを着た幸祈を奪われる夢。ペンペンペンペン言いながら、ハンペンマンが見せてきたあの悪夢のせいだ。

 キスの先を想像しようとすると、どうしても、あの夢に引っ張られる。幸祈がバスローブを着ちゃう……!

 ああ、もお……なんて余計なものを脳に刷り込んでくれたんだ。

 呪いだ。これは、間違いなく、ハンペンマンの呪いだ……。


「ハンペンマンめ……」


 横断歩道を渡り終え、ぼそっと呟いた、そのときだった。


「ハンペンマン? え、なに? 懐かし」


 聞き覚えのある声がすぐ背後からして、「ひやっ!?」と弾かれたように振り返った――瞬間、するりと手からスマホが滑り落ち、ガン、と嫌な音が辺りに響いた。

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