第18話 これからは【下】

 あ……兄貴!?


「なんで、いるんだよ!?」


 ぎょっとして声を上げると、


「住んでるからね」と相変わらず、のんびりとした調子で返し、兄貴はスタスタとリビングの中へと入ってくる。「ずっと騒がしかったから、てっきり、また喧嘩してるのかと思って、すっかり油断してたよ」


 ごめんね〜、とすれ違いざまに言って、兄貴はキッチンへと向かい、


「あんなに喚き散らしてたのに、まさか、キスしてるとは思わないよね」

「キ……」


 げ――! と目を見開き、


「してねぇよ!」

「してないです!」


 咄嗟に上げた声は見事に帆波のそれと重なった。あ、と振り返るなり、ばちりと帆波と目が合って、思い出したようにかあっと顔が熱くなる。

 ほんのついさっき、キスをのが――唇が触れるかどうか、の距離でその息遣いを感じていたのが――嘘みたいだ。今じゃ目が合うだけで、恥ずかしくてたまらなくて……まるで示し合わせたかのように、どちらからともなく、顔を逸らしていた。

 な……なんだ、これ? なに、この気恥ずかしさ!? 気まずい――わけじゃないけど、全身がむず痒くて落ち着かない。雄叫び上げて駆け出したくなってくる。もう何年も帆波と一緒にいたのに……こんなの、初めてだ。


「初々しいなぁ」


 ザーッと食器を濯ぐ音に混ざって、噛み締めるように呟く兄貴の声がキッチンから聞こえて、ハッと我に返る。


「そんなに必死に否定しちゃって……。好き同士なんだから、キスでもなんでもしていいでしょう」


 まだ、言うか!


「だ……だから、してねぇって!」

「またまた〜」


 流しで手を洗いながら、兄貴は「ははは」と呑気に笑う。全くもって聞く耳を持つ様子はない。信じきっているんだ。俺と帆波がキスした、て。角度的に兄貴からはそう見えたんだろう――が、それほどまでにあとだったのか、と思えばこそ、なんとも言えない煮え切らない気持ちが込み上げてくる。悔しいというか、腹立たしいというか……。あと一秒でも、兄貴が来るのが遅ければ――と思うと、『ははは』じゃねぇよ! と兄貴の胸ぐらに掴みかかりたくなってくる。無論、八つ当たりのようなものだ、と分かってはいるけど……。


「いやあ、でも……」きゅっと蛇口を閉め、兄貴は手をタオルで拭きながら、おもむろに振り返った。「良かったねぇ、帆波ちゃん。俺に会いに来た、なんて言われたときはどうなるかと思ったけど……無事、訊きたいことは訊けたみたいだね。これからはもう変な嘘吐かないで、ちゃんと素直になるんだよ。会うだけで、体も頭もめちゃくちゃになっちゃうの、なんて言われたら、男は嬉しいもん――」


 その瞬間、まるで兄貴の言葉をかき消すように、帆波が「ひやあ!?」と妙な悲鳴のようなものを上げ、


「わたし、いえ、かえる!」

「え!?」


 なぜ片言!?


「いや、帰るって……今!?」


 まるでロボットのような固い動きで身を翻す帆波に慌てて声をかけると、帆波は真っ赤な顔で振り返って、


「ト……トンカツが待ってるの!」

「トンカツが……!」


 って……なんで、いきなりトンカツ!?

 

「さよなら!」


 呆気に取られる俺に帆波は雑にそう言い捨て、バタバタと逃げるようにリビングを去って行った。

 バタン、と閉じられた扉をただ呆然と見つめることしかできなくて……そうして佇む俺の背後で、「ほんと照れ屋だねぇ、帆波ちゃんは」とのんびり呟く声がした。

 ハッとして振り返ると、


「だからこそ、てわけでもなく、常識的な話――ね」と急に声を低めて続け、兄貴はペシンと俺の頭を軽く叩いた。「リビングで扉も閉めずに、何をいきなりおっ始めてんの? 俺じゃなくて親に見られてたら、気まずいじゃ済まなかったからな? 下手したら、帆波ちゃん、出禁になるぞ、出禁に」

「え……」


 ぽかんとして、ややあってから、あ――と気づいた。

 確かに、そうか……! 何もおっ始めてはいなかったが……未遂だったのだが……そういう問題じゃないよな!?


「ウチでイチャつくな、とは言わないけど」と頭をガシガシ掻きながら、兄貴は憫笑にも似た苦笑を浮かべて言った。「ちゃんとお前が気をつけていかないとな。これからは、帆波ちゃんの『彼氏』になるんだろ」

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