第17話 これからは【上】

 キ……キス……? キス、て言った!?


「キスって……」

「あ……いや、違う!」


 ハッとして、幸祈は身を引き、なぜか降参でもするように両手の平を見せてきた。


「つい、本音が出――じゃなくて、その……可愛いな、て思ってたら、そういう気分に……って、変な意味じゃなくて……!」


 顔を真っ赤にして、目を泳がせ、あたふたとして言う幸祈。本当にない。ちょっと冷めた感じがあって、ため息吐いて呆れ顔ばっかり。そういう幸祈しか知らなかったから。こんなに狼狽えて、照れまくる幸祈は初めてで……もっと見たいな、て思ってしまう――。


「好きにすれば?」


 ぼそっと言うと、「へ……」と幸祈はきょとんとして、


「好きにって……」

「だから……キスでもなんでも、好きにすれば?」

「え……!?」


 目を見開き、幸祈は固まった。落ち着いた顔立ちで、大人っぽい印象――だと思ってたけど、目の前のその顔はまるで子供みたいに締まりがなく、目をまん丸にして、口をあんぐり開けて……思わず、ぷっと吹き出してしまった。


「なによ、その間抜け面?」

「間抜け……!?」ぎょっとして、幸祈は口元を押さえ、「いや……だって、お前、いいのか?」

「いいのか……て?」

「だ……だから、キスとか……早すぎ――だろ?」


 ゆっくり慎重に、言葉を選ぶようにそう訊ねてきた幸祈に、へ……と今度は私が固まってしまった。

 早すぎって……ここまで来て? まだ、そんなこと気にする? こっちは『好きにしていい』とまで言ってんのに!? まったく――『惚れさせる』とか強引なこと言ってきたくせに。やっぱり幸祈ね。こういうところは、腹立たしいほどに幸祈らしい。『好きにして』なんて言っても、がっついてくるような奴じゃないよね。知ってる。ちゃんと知ってる。そういうところも大好きだから。ああ、もう……て、呆れたように出たため息にじわりと熱がこもる。


「別に」言って、ついと視線を逸らす。「遅すぎ……なくらいよ」


 幸祈が息を呑む気配がして……しんと部屋が静まり返る。お互いの息遣いだけが微かに響く中、視界の端で幸祈がじっと私を見ているのが分かった。


 私だけを――見てる。


 正真正銘、今、間違いなく、幸祈は私だけを見て、私だけを想ってる。私とキスすること、考えてる。それが手に取るように分かって、恥ずかしくて……でも、それ以上に嬉しくて。胸いっぱい、何か熱いもので満たされていく感じがする。

 どんな顔で――てふいに気になって、ちらりと視線を戻せば……。


「そっか……」


 照れくさそうに笑って、私を見つめるその目は真っ直ぐで、そして、ぞくりとするほどに真剣で。

 思わず、怯んだ。


「分かった」


 噛み締めるようにそう呟き、幸祈は私の両肩にそっと手を置いた。優しく、でも、しっかりと……もう離さない、とでも言いたげに。そうして、身を屈めた幸祈の顔はすぐ目の前にあって。恥ずかしげもなく、これでもか、ていうほど……熱っぽく、愛おしそうに見つめてくるから――。


「や……やっぱり、ちょっと……待って……」

「もう待たせねぇよ」


 あ――て、それが声になるより先に、幸祈が顔を近づけてきて、反射的に目を瞑っていた。そして、次の瞬間、


「うわあ!」


 と、悲鳴が聞こえた。

 って、悲鳴……!?

 ハッとして目を開くと、ちょうど、幸祈も目を開いたところで。鼻が触れるかどうかの距離でばっちり目が合って……一気に冷静さを取り戻したかのように、恥ずかしさがかあっと駆け上がってきた。幸祈の瞳に映る自分の顔が羞恥に染まるのがはっきりと見えるようで。多分、幸祈もだったのだろう――、どちらからともなくばっと身体を離し、私たちはほぼ同時に声のしたほうを振り返った。

 そこで――開いたリビングの扉の向こうで、空いた皿とお箸を手に佇んでいたその人は、眼鏡の奥で目をぱちくりさせながら私たちを見つめ、


「あ……ごめん。フツーにびっくりした」

 

 いつも通りののんびりとした口調でそう言った。

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