第16話 好きな人【下】
ふわりと鼻先を柔らかな髪が掠める。よく知る甘い香りがいつもより一層強く漂って、一つ息を吸うだけでその香りで体の中が満たされる感じがする。充足感と歓びに満ち満ちて苦しいくらいで、思わず、深いため息が漏れた。
やっと、届いた――そんな気分だった。
ずっと隣にいたのに、ずっと手の届かないところにいたような……そんな気がしていたから。
ほんの一時間前は、泣いている帆波を前に何もできなかった。胸の中に飛び込んできた帆波を抱きとめてやることもできなくて――、蹲って肩を震わす帆波に謝ることしかできなくて――、そんな自分が情けなくて、不甲斐なくて……虚しかった。
でも、今は、ちゃんと抱き締めてやれる。もう抱き締めていいんだ。――その事実を確かめるように、ぎゅっと強く帆波を抱き締める。
腰に手をあてがって、いつも偉そうに踏ん反り返ってたくせに。その身体は、想像していたよりずっと柔らかく、そしてか細くて。簡単に壊せそうな……その感触に背筋がぞくりと震えた。守ってやりたい、という愛おしさと、それとは似ているようでどこか違う――激しく荒ぶるような衝動が全身を駆け抜ける。
抱き締めたい、て思い焦がれていたのがもうずっと遠い昔みたいだ。純粋に慰めたい、と思っていたはずなのに。そんな想いを裏切るかのように、どんどん欲望が湧いてくる。もっと――という気持ちが腹の奥底から込み上げてくる。
ああ、まずい……と思ったときだった。
「こう……き……」
ふいに、苦しげな帆波の声がして――って、苦しげ……!?
ハッとして、帆波の両肩を掴み、「悪い!」と身体を引き離す。
「きゃっ……!? なに、突然……?」
「いや、その……声が苦しそうだったから……力、強すぎたのかと……」
我ながら情けない声で歯切れ悪くそう答えると、帆波はきょとんとしてから、呆れたようにため息吐いた。
「ほんっと……ド真面目ね。それでいて、意外と強引なんだから……びっくりする」
「ご……ごめん……」
「別に、謝らなくてもいいけど。――嫌じゃなかったし」
ぼそりとそう呟いたかと思えば、帆波は赤らんだ顔をムッとさせ、
「勝手に……離さないでよね、バカ」
その瞬間、背筋に電流でも走ったかのような衝撃があった。
不機嫌そうなその表情も、鋭く睨みつけてくるその眼も、刺々しい口調も、全部、いつも通り。憎たらしく、可愛げがなくて……ずっと、片思いをしていると思っていた彼女だ。あまりに脈が無くて、諦めかけていた――けど、今、ようやく分かった。冷ややかに思えた瞳が、不安げに揺れていること。突き刺さるような眼差しは、必死に何かを訴えかけてくるようで。気づいてよ――て帆波の声が、今はしっかりと聞こえてくるようだった。
ああ、そっか、と力無く苦笑が漏れる。こんなに、あからさまだったんだな。
「なに、笑ってんのよ?」
「いや――」とやんわり言って、滑らかなその頰にそっと触れる。「可愛いな、と思って」
「は……はあ!? 急に、何言い出すわけ!? 誰!?」
「『誰』!?」
「そんなこと、こんな状況で言われても……困る」
じんわりとまた瞳を潤ませ、羞恥に歪んだ表情で視線を逸らす帆波。手のひらを通して、その頰がさらに熱くなるのが生々しく伝わってきて……。
「やばいな……キスしたくなってくる」
ふと、緩んだ口元からぽろりとそんな本音が溢れ出て――次の瞬間、「え……!?」と帆波と声が重なった。
ハッとして俺を見る帆波の顔は驚愕の色に染まり……そして、おそらく、その瞳に映る俺の顔は、真っ赤に染まっているだろう、と思った。
ちょっと……待て……? なんだ? 何が起きた? 俺は……何を馬鹿正直に言ってんだ!?
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