第12話 答え【下】

 慌てて家を出たから、持っていたのは帆波に渡すはずだった合鍵だけで。スマホも財布も無く、コンビニに行ってもやることもなかった。ただただ、腹が減り、店員から煙たそうな視線を向けられ、虚しさが増すばかり。

 結局、一時間も経たずにのこのこと家に帰って来てしまった。

 自分ん家だというのに、コソ泥のようにそうっと玄関の扉を開けて忍び込み、すぐに目に飛び込んできたのは、見慣れたサンダルで……。


 その途端、胸がぐっと締め付けられて、苦い味が口の中に広がるようだった。


 まだいるんだな――と、つい視線が目の前の階段へと向かっていた。

 今、二階で二人きりで話しているんだろうか。何を……とふと考えて、冷笑が漏れる。いや、俺には関係ないことだよな。帆波が兄貴と何を話そうが自由だ。何を話しているのかなんて俺が考えるようなことじゃない。

 俺がずっと帆波を好きだったように、帆波も――どれくらいかは知らないが――兄貴を好きだったわけで。その兄貴に好きな人がいた、て分かったんだ。今は俺の告白に構っていられる場合じゃない……てのが正直なところだろう。帆波は帆波で兄貴に伝えたいことだってあるはずだ。俺が帆波にそうしたように……。

 俺は言うべきことは言った。身勝手なほどに、伝えるべきことは全部伝えた。今、俺ができることは待つことだけだ。

 気を落ち着かせるように深く息を吸い、ぐっと拳を握りしめる。

 階段を視界の外に追いやるように身を翻し、リビングへと向かった。

 扉を開ければ、ガチャガチャと食器を洗う音がして、


「ただいま、母さん。昼飯、まだある?」


 さあ、どんな小言が飛んでくるだろうか……なんて、もはや、怖いもの見たさでキッチンに向かって言った。

 すると、


「おかえり」と予想を裏切り、遠慮がちなしおらしい声が返って来て、「焼きそば……あるけど」


 母さんらしからぬ――というよりも、母さんじゃなかった。

 キッチンに佇むその影は、母さんよりもずっと小柄で華奢で……そして、愛らしくて。きゅっとシンクの水を止め、手をタオルで拭きながら振り返り、「温める?」と小首を傾げるその姿は、穏やかな光に包まれているかのよう。

 まるで、甘く暖かな春の陽気でも纏っているみたいで。家庭的――て言葉がぽんと脳裏に浮かんだ。


 思いっきり、硬球でも胸にガツンと食らったような衝撃があって……息が止まる。幻覚でも見ているんだろうか、と本気で疑った。

 だって、帰って来たら、帆波がキッチンで穏やかに迎えてくれるなんて。まさに夢みたいで……。


 何度も目をぱちくりさせることしかできなくて。そうして固まる俺に、帆波は少し気まずそうに眉を曇らせ、視線を落とす。


「あの……違うから」と帆波はきゅっとスカートを掴みながら、震えた声で言って、「勝手に、お茶碗洗ってたわけじゃないから! ちゃんとおばちゃんに許可とったから!」

「いや、そこは全く気にしてねぇけど!?」


 てか、許可取ってなくても、母さんは普通に喜ぶと思うし……そもそも、俺はどっちでもいい!


「そんなことより……なんで、お前、にいるんだ?」


 戸惑いつつも、ズバリ訊ねた。すると、帆波はびくんと肩を震わせ、「あ、それは……」とらしくなく自信なさげに言って俯く。


「おばちゃんたち、町内会の集まりがある、て……お昼食べた後、すぐ出かけちゃって。だから、ここで待ってていい、て言われて……待ってた」

「待ってた、て……」


 ハッとして、思わず、天井を見上げていた。

 思い返してみれば……俺は今朝、兄貴に一度も会ってない。だいたい、休日は(ほぼ、平日もらしいが)昼過ぎから行動を始める兄貴のことだ。どうせ、部屋にいるだろう、と勝手に思い込んでいたが。


「兄貴、二階にいないのか?」


 確信を持って訊ねると、帆波は弾かれたように顔を上げ――そして、目が合うなり、ぴょんとポニーテールを勢いよく弾ませ、また俯いてしまった。


 その瞬間、ああ、そうだった……が現実だよな、と思い出す。


 俺の顔を見れない――そう言われて、まだ一時間ちょっとだ。口を聞いてくれただけでも御の字、てやつだよな。相当、無理して、会話してくれてるのかもしれない。実際、帆波の様子は明らかに変だし……空気も気まずい、もんな。

 いつもだったら、このまま、兄貴の帰りを一緒にここで待つところだが……さすがに、今の状況じゃ、それこそ『ムリ』だよな。ただの幼馴染だと思ってた俺に告られるわ、片思いしてた兄貴には好きな人いるわ……帆波の心の中はきっと今頃ぐちゃぐちゃで、混乱を極めているに違いない。だからこそ、藁にもすがる思いでウチに……兄貴に会いに来たんだろうに。その肝心の兄貴が不在で話もできず、その上、俺が隣にいたんじゃ、気持ちの整理どころじゃないよな。

 心なしか、肩を震わせ、身を縮こめるようにしてキッチンで俯く帆波を見つめ、ひっそりと溜息をつく。


「ちょっと待ってろ」努めて明るく言って、身を翻す。「兄貴に連絡してみるよ。待つなら、何時に帰ってくるかくらい知っときたいだろ。下手したら、朝帰りになるかもしれないし……」


 まずはスマホを部屋に取りに行って……と、リビングを出ようとした、そのときだった。


「待って、幸祈!」


 取り乱したような、裏返った声が響き渡り、ぎょっとして振り返ると、

 

「か……勘違いしないでよね」言葉だけは刺々しくも、頼りなく弱々しい語調で帆波は言って、「広幸さん、いるから」

「いる……?」

「もう会って、話した。話して……『答え』、もらった」


 答え――ぎくりとしてしまう。「そ……そうか」と相槌打つ声が震える。

 どういう……ことだ? 兄貴はいる? もう話して、答えももらった? じゃあ、なんで、まだここにいる? 誰を……待ってた?

 緊張が一気に全身を駆け抜け、金縛りにあったみたいに身体が硬直する。

 ごくりと生唾を飲み込んでいた。

 もしかしなくても……だよな。考えるまでもなく、明らかだ。


 ――俺だ。


 帆波は俺を待ってたんだ。今度は俺に『答え』を伝えるために……。


「それで……」帆波は一呼吸置き、強張った声色で続けた。「分かったの。広幸さんじゃなかったんだ、て。私が『答え』をもらわなきゃいけなかったのは……幸祈だったんだ、て」

「へ……」


 思わず、惚けた声が漏れた。

 答えをもらう? 俺から……? いや……俺が、今、帆波の答えを待っている側……のはずなんだが?

 きょとんとしていると、帆波はゆっくりと顔を上げ、


「幸祈に……訊きたいことがあるの」


 決意――のようなものが伺える、見たこともないほど真剣な表情で、帆波はまっすぐに俺を見つめて言った。


「もう何年も、ずっと……幸祈に訊きたいことがあって、私はいつも幸祈をここで待ってたんだ」


 まるで独り言みたいに言った帆波の言葉に「え……」と眉を顰めていた。

 違和感があった。

 いつも、て……? いつも俺を待ってた……て、どういうことだ?

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