第11話 答え【上】
おかしい。どうなっちゃってるの? 幸祈と顔を合わせただけで、もうダメだ。おかしくなっちゃう。心臓が熱くなって、今にも破裂しそうで。頭の中もぐちゃぐちゃにかき乱されて。見つめられてると思うと、胸が苦しくなって言葉も出てこなくなる。自分が自分でなくなっちゃうみたいで……自分の何かが壊れていくみたいで、怖くなって逃げ出したくなる。――っていうか、逃げ出しちゃった。
こんなんじゃ……無かったのに。
傍にいるだけで安心できる。ずっと傍にいたくなる。幸祈はそういう存在だったのに。だから、好きになったはずなのに。
「ああ、もう……私、どうしちゃったんですか!?」
扉が開くなり、そう泣き言をぶつけると、
「本当にね」とその人は少し困ったように笑った。眼鏡の奥の目をやんわり細め、どこか幸祈を思わせる優しげな眼差しで私を見つめて――。「どうしちゃったの、帆波ちゃん? 焼きそばなんか持って」
「あ……そうだ」
ハッと思い出し、焼きそばがこんもりと乗ったお皿を差し出す。
「お昼です」
「流れが全く分からない」
言いながら、広幸さんは面白がるように、はは、と笑った。
確かに、そうだよね――。なんだか恥ずかしくなって、私はお皿を両手に抱えながら縮こまった。
いきなり、焼きそば持って現れるなんて。困惑されて当然だ。唐突だと……私も思う。
さっき――幸祈に
今まで何度も合鍵を使って上がり込んできたけど、それは平日の夕方だけ。おじさんとおばさんがいないとき――そして、広幸さんがまだ帰ってこないであろう時間帯――を狙って、忍び込んできた。
だから、家でおばさんと鉢合わせするのは初めてのことで。
さあっと血の気が引いていくのが分かった。長年、やってきた悪さを見つかってしまったような……そんな気分だった。
幸祈と出会したときとは全く違う焦りと動揺に襲われ、慌てて謝っていた。勝手に入ってごめんなさい――て、玄関で頭を下げる私に、おばさんは怒る……わけでもなく、『よく来たわね〜』と嬉しそうに言って、『上がって、上がって』と家に招き入れてくれた。
そうやって、『どうしたの?』とも言わずに家に上げてくれるとこ、子供の頃から変わってなくて……まだ少し罪悪感を覚えながらも、嬉しくなった。
でも、ホッとしたのも束の間、靴を脱いで家に上がるなり、『幸祈は出かけてるから、リビングで待ってたら?』と言われ、ギクリとした。幸祈――て、その名前を出されただけで、全身が一気に熱くなって、みぞおちがきゅうって締め付けられて、堪らず、『違うんです!』て叫んでいた。あたふたとしながら『広幸さんに会いに来たんです!』と告げると、おばさんは不思議そうに『あら、そう……』と気の抜けた声で言って――、
「ついでに持って行って、て下でおばさんに頼まれたんです」
「ついでに?」
とりあえず、といった具合にお皿を受け取りつつも、広幸さんは訝しげに眉を顰めた。
「会いに来るついで……」
ぼそっと答えると、「ああ」と広幸さんはようやく合点がいったように相槌打って、ちらりと隣の部屋に――幸祈の部屋に視線を向けた。
「今日は幸祈の部屋で待ち合わせ? 珍しいね。何かあった?」
ふいに戻って来たその眼差しは、いつものそれに変わっていて。
マッチに火が付くみたいに、ぼっと顔が一気に赤くなるのが自分で分かった。
「な……何かあったって……な、なんのことですか!? 私、さっぱり分からない!」
「分かりやすいな〜」のほほんと言って、広幸さんはぐっと親指立てながら、焼きそばと共に部屋の中へと引っ込んでいく。「俺のヘッドホン、ノイズキャンセリングあるから。大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんですか!?」
なんで、いきなり、ヘッドホンの話!? 相変わらず、話が読めない――けど、今はそれどころじゃない。
慌てて、広幸さんが閉じかけた扉を手で押さえ、
「全然、大丈夫じゃないの! だから、広幸お兄ちゃんに会いに来たの! 私、おかしいの! 幸祈と顔も合わせられなくなっちゃって、どうやって会話したらいいかも分からなくて……幸祈に会うだけで、体も頭もめちゃくちゃになっちゃって……自分が壊れちゃいそうで怖いの!」
捲し立てるように一息で言い切り、ハッと我に返る。
しんと静まり返った部屋で、広幸さんが親指を立てたまま、私をじっと見つめていた。余裕たっぷり、にんまり浮かべた笑みはどこへやら。呆気に取られたように目を丸くして、
「まじか」
「やめてください、その冷静な反応―!」
顔から火が出そう――。
恥ずかしすぎて耐えられなくて。両手で顔を覆って、その場に蹲った。
いっそのこと、笑い飛ばしたり……いつもみたいに揶揄って欲しい!
「こんな……こんなこと、言うつもりじゃ……ただ、訊きに来ただけだったのに……」
ぶつぶつとそんなことを呟いていると、ふわりと食欲を誘うソースの香りが漂ってきて、すぐ傍で広幸さんもしゃがむ気配がした。
「帆波ちゃん」と改まって広幸さんは切り出し、「それは恋だ」
「知ってます!」
思わず、顔を上げて切り返して、広幸さんの満足げな笑みが目に飛び込む。しまった――て、すぐに失言に気づいた。
かあって身体の奥が熱くなって、全身から湯気でも出るんじゃないかと思った。
「何を言わせるんですかー!?」
「何も言わせてないけども」へらりと笑い、広幸さんは少し開いた扉を背に腰を下ろした。持っていたお皿を床にそっと置き、「俺も知ってたし。ずーっと前からね。――だから、なんで今更、そんなに動揺してるのかな、と驚いてはいる」
穏やかな口調ながら、それはあまりに鋭い分析で。槍でも突きつけられたみたいに、チクリと胸が痛んだ。
自然と顔が強張り、俯いていた。
そう。恋だ、て知ってた。私は……自分が幸祈を好きだ、て知ってた。もうずっと前から。幸祈は男で、私は女だ、て……そういう違いに気づき始めた頃から、きっと幸祈のことを好きだった。
呆れながらも、私のワガママにいつも付き合ってくれて……無愛想なようで優しくて、腹立たしいほどに鈍感なくせによく気が回る。真面目で口うるさいけど、なんだかんだ文句を言っては、最後は私を許してくれる。――そんな幸祈が、子供の頃から好きだった。
だから、戸惑うんだ。
だって――。
「知らなかったの」しゃがみこんで俯いたまま、ぽつりと言う。「幸祈が私のこと好きだった、て。幸祈が本当は……ずっと、隣でいろいろ我慢してたんだ、て」
告白されて嬉しかったのに。天にも上る気持ちだったのに。それでも、すぐに飛びつけなかった。『私も好き』って言えなかった。どうしていいか、分からなくなった。
これからは本気で惚れさせる――なんてこと、言うような奴だって知らなかったから。
思い出しただけで、鳩尾の奥がきゅうって締め付けられて、苦しげな吐息が漏れる。
「別人……みたいだった」
ぽつりとそう漏らすと、「ああ」とぼんやり広幸さんは相槌打って、
「告られたんだ」
「はう……!」
図星、てやつか。ぎくりとして、変な声が飛び出していた。
「おめでとう、帆波ちゃん!」
ぱらぱらと呑気に拍手をし出した広幸さん。ばっと私は顔を上げ、
「おめでとう、じゃないんです!」
「なんで」
「なんでって……いろいろ、変だから」
「変って?」
「幸祈、勘違いしてて……」おずおずと言って、伏し目がちに広幸さんを見つめる。「私が広幸さんのこと好きだ、て思い込んでるんです」
「ん……?」
広幸さんは、眼鏡の奥で目を丸くして固まった。
そうだよね。驚くよね。
「なんで、そんな勘違いしてるか、全然分からなくて……広幸さんなら何か知ってるかも、て思って……だから、訊きに来たんです」
しばらくぽかんとしてから、「訊きに来たんです、てねぇ」と広幸さんはくしゃりと頭を掻いた。
珍しく、表情が硬い。心当たり、広幸さんにも無い、てことかな?
縋るような思いでじっと見つめていると、「とりあえず」と広幸さんはため息吐いて、
「本当に俺に会いに来ちゃダメでしょ」
「へ……」
「うーん」と広幸さんは唸って、頭をもたげた。「まあ、それが分かってたら、そもそもそんな勘違いも生まれてなかったんだろうなぁ。帆波ちゃん、俺のこと、たまにお菓子くれる近所のおじーちゃんくらいに思ってるよね」
「お……おじーちゃん……?」
「おじーちゃんだってね、歴戦の強者だったりするんだからね」
「何の……話です?」
「とにかく、そういうことは、俺じゃなくて幸祈に直接訊きなさい。隣の部屋にいるから」
「今、いない……けど」
「あ、そうなの?」
なぜか、「ああ、良かった」とホッとしたように呟き、広幸さんは「それじゃあ」と焼きそばのお皿を手に立ち上がった。
「帰ってくるまで、いつも通り、リビングで待ってなさい。俺も暇じゃないのよ。レポート明日までで、手もつけてないんだから。たぶん、帆波ちゃんよりピンチよ」
「え……でも、待って」
慌てて私も立ち上がり、
「――それだけじゃないの!」
「それだけじゃないの!?」
「佐田さん……!」と私は意を決してその名を口にする。「佐田さんのこと好きだ、て……幸祈、広幸さんに言ってましたよね!?」
「さださん……?」
「GWの前……ハンペンマンの人形、広幸さんにもらった日、私、鍵を取りに戻ってきたんです。そのとき、偶然、広幸さんと幸祈が話してるの聞いちゃって……」
思い出すだけで、ずんと気持ちが沈んで、つられるように自然と視線が落ちる。
「学校に好きな人がいる、て……同中だった『佐田真由子』ちゃんが好きだ、て……幸祈が広幸さんにそう言ってるの聞いて、私、びっくりして……そのまま、鍵も置いて、逃げ出しちゃって。それから、幸祈と連絡も取ってなかったんだけど……さっき、幸祈が鍵を届けに来てくれて、久しぶりに会ったんです。それで、好きだ、て言われたの。これからは男として見て欲しい、て……でも――」
息が詰まって、言葉が出なくなる。
その続きを全身が拒絶しているみたい。言いたくない、て。認めたくない、て。だって、もし、あの告白がそれだけだったら……まだ、浮かれていられたかもしれないから。きっと、GW中に心変わりしたんだ、なんて自分をごまかす余地だってあった。
『でも』――。
きゅっと拳を握り締め、じわりと目に熱いものを感じながら、広幸さんを見上げた。
「でも、幸祈、言ってたの。私のこと『ずっと好きだった』って。『佐田さんがどんな子かも知らない』って……嘘吐いた」
嘘――て、その単語を吐くだけで喉が引き裂かれるようだった。それは、幸祈には無縁のものだと思ってたから。不器用で鈍感で……でも、呆れるくらいど真面目で誠実で。そんな幸祈しか、私は知らない。平然と嘘吐いて、私を騙そうとするような幸祈を、私は知らないから。
そんなバカな、とでも言いたげな広幸さんの訝しげな眼差しが居たたまれなくて。ついっと私は目を逸らしていた。
「なんで、そんな嘘吐くのか、分からなくて……幸祈が何考えてるのか、全然分からなくなっちゃって……」
ああ、ダメだ。広幸さんの前で、泣きそう。
今にもこぼれ落ちそうなそれを堪えるように、ぐっと唇を噛み締めた――そのときだった。
「それで……帆波ちゃんは、俺に何を訊きに来たの?」
何を、って……それを散々、話してたつもりなんだけど。全然、伝わってない!?
ぎょっとして視線を戻すと、
「幸祈が何考えてるかなんて、俺も分かんないから」へらっと笑って、広幸さんは肩を竦めた。「そういうことは本人に訊いて。俺、パス」
「パス……!?」
そんなのアリ? いや……ダメ。広幸さんのペースに乗せられたら、丸め込まれちゃう。
「幸祈に訊けないから、広幸さんに訊きに来たんです!」
「じゃあ、付き合わない方がいい」
静かに、あっけなく……グサリと胸を貫かれたようだった。
え――て、口から漏れた声は吐息にしかならなかった。
愕然とする私に、広幸さんは憫笑のようなものを向け、
「何考えてるの、て素直に面と向かって訊けないような相手とは、付き合うべきじゃない。どうせ、すぐ別れることになるよ」
やんわりとした口調で放たれたそれは、思ってもいない『答え』だった。
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