第10話 ふりだし【下】
「『もうムリ』か……」
玄関に足を踏み入れるなり、はあっと重いため息が漏れた。
リビングのほうからは、焼きそばだろうか、食欲をそそる芳ばしい香りと、両親の話し声が流れてくる。幸い、兄貴はまだ起きてきていないのか、のんびりとしたあの声は聞こえてこない――が、それでも、今はリビングに顔を出す気にはならなかった。
兄貴はもちろん、両親とも普段通りに話せる気がしない。
よくもまあ、あんなくさいセリフを次から次へと吐けたもんだ、と思い返して、恥ずかしさに悶絶しそうになる。
トランス状態――てやつだったんだろうか。
とにかく、必死で。緊張も照れも、そんなものを感じている余裕もなかった。興奮とも焦りとも違う、使命感にも似た……不思議な高揚感がこみ上げてきて、身体中の神経が研ぎ澄まされていくような感覚があった。体の奥で昂ぶるものを感じながらも、頭は冷静……というか、未だかつて無いほどに集中していて。ただ、帆波が欲しいって……その声だけが頭の中に響いていて、それに突き動かされるように口が動いていた。まるで、何かに乗り移られたみたいに――。
身勝手でデリカシーも無い……本当に『最低の告白』だったと思う。それでも、今の俺にあれ以上の告白は無い。『最善の告白』だった。そう言えるくらい、全部伝えられたという実感はある。
だからこそ……堪える。
これでダメならもうムリだ、と思うから。あまりの手応えの無さに打ちのめされている自分がいる。
何が『俺はいくらでも待つ』だ。
まだ十分も経ってないのに、もう参ってるわ。
靴を脱ぐ気にもならなくて、その場にしゃがみこんで項垂れた。
期待していたわけじゃない。帆波が兄貴を好きなのは知っていたし、俺のことを男として見ていないのも分かっていた。告ったところで、ようやく土俵に立てるようなもの。マイナスからのスタートだってことは重々承知の上だった。
それでも……だ。
困る。ムリ。顔、見れない。――ってのは、どうなんだ? 脈無し……どころじゃなくね? もはや、拒絶されているような……。
まだ、罵られていた方がマシだった……なんて思う日が来るとは。
じっと足元のタイルを見下ろし、もし――と考える。
もし、これでフラれたら……どうなる? 男としてはどうしても見れない、て言われたら……? ナシだ、と言われたら……? 諦めたくない――とは思うけど、可能性はゼロだと言われてもしつこく迫るのは、ストーカーと変わりないよな。
俺は帆波を幸せにしたいのであって、困らせたいわけじゃない。帆波が厭がることはしたくない。
帆波の答えが完全に『ノー』なら、そのときは、身を引くつもり――だが、そのあとは……?
前みたいに……『幼馴染』に戻れるんだろうか? 何事もなかったように、元通りになるのか? いや……んなわけないよな。きっと、もう『ただのお隣さん』も危うい。兄貴に失恋して、俺のことをフッた、となったら……さすがに、帆波だってウチに来るのは気まずいだろう。来たとしても、居心地悪くてたまらないはずだ。家に帰ったら、帆波がソファで寝こけている――なんて光景は、まず、間違いなく見ることはなくなる。
今まで、当然だったものが……当たり前のように帆波が傍にいた『日常』が、消えて無くなるのか。帆波の答え次第で――。
って、いや……なんで、ちょっと、後悔し始めてるんだ、俺は!? 早すぎだろ。惚れさせる、とかど恥ずかしいこと宣言しといて、なんだ、この体たらくは?
気を取り直すように深呼吸し、すっくと立ち上がる。
とりあえず……ここに蹲ってたら、いつ母さんに見つかって、『暇そうね!』とどこの掃除を押し付けられるか分かったもんじゃ無い。
忍び足で二階に上がり、隣の部屋の兄貴にも気付かれないよう、自分の部屋にそうっと入った。
とにかく、今は待つしかない。
鍵も渡したんだし、あとは帆波の答えを待つだけだ――と、ベッドに腰を下ろし、
「ん――?」
妙な……違和感を覚えた。
あれ……?
なんだ? この感じ……? 何か……変だ。なんなんだ、この座り心地の悪さは? ケツに何か固いものが……って、ちょっと待て!?
ハッとして慌てて立ち上がり、ズボンの後ろポケットに手を突っ込む。そして、「あ……」と惚けた声が漏れた。
がつん、と頭を思いっきり殴られたようだった。いや……もはや、思いっきり壁にぶつけてしまいたい。
そこにあったのは――ポケットに入ったままになっていたのは、帆波に渡しに行ったはずのウチの合鍵だった。
「鍵……渡してねぇじゃん!」
* * *
いったい、どの面下げて舞い戻って、「ごめん、これ忘れてた」とか言えばいいんだよ? いくらでも待つから、落ち着いたら考えてくれ――とか偉そうに言っといて。その舌の根も乾かぬうちに、のこのこ戻って、「また来ちゃった」とか言えねぇよ!?
しかし……そうと言えど……このまま、この鍵を持っているわけにもいかない。
俺に会いに来て欲しい――てのも、もちろん、あるが。それとは別に……いや、それ以前に、この鍵は『何かあったときのため』のものだ。帆波の両親は共働きで、帰りは夜遅く、出張も多い。たとえば、具合が悪くなったり、怪我をしたり、何か困ったことがあったら、いつでもウチにおいで――もともとはそう言って、まだ幼稚園児だった帆波にウチの親が渡した鍵だった。
それから十年以上も経って、最近じゃ、帆波がこの鍵を使うのは専ら『兄貴に会うため』で、(課題を押し付けに来る以外では)助けを求めに来ることなんてない。もう帆波も子供じゃないんだし、困ったことがあっても自分でなんとかできる。ウチがお節介を焼く歳でもないんだろう……が、そうは言っても、やっぱ、女だし。隣の家で一人でいるのか、と思うと不安になる。万が一、泥棒でも入ったら……なんて考え出したら、気が気じゃない。
『男として』だけじゃない。『幼馴染』としても、鍵は持っていてほしいと思う。
だから――、
「ちょっとコンビニ行ってくる」
そう大声で嘘を吐き、「あんた、帰ってきてたの? ただいま、くらい言いなさい! お昼、どうするの!?」とリビングから響いてくる母の声も無視して、玄関から飛び出した。
逸る気持ちを胸に、鍵を携えて帆波の家へ――ほんの十分前と全く同じ状況に、苦笑が漏れる。
鍵を渡しに行って、そのまま持ち帰ってくるなんて。バカか……と我ながら呆れるが。忘れてしまったものはしょうがない。背に腹は変えられない、というか……。どれだけ格好悪かろうと、渡しに行くしかない。
ついさっき、顔も見れない、と言われたばかりだ。会ってくれるかどうか、分からないが――と苦いものを胸の内に感じながら、門を開けて路地に出た。
そのときだった。
「あ……」
弱々しい声がすぐ傍から聞こえ、ハッとして振り返ると――。
「帆波……」
あまりに突然で。不意打ちすぎて。間の抜けた声が漏れていた。
――妙な感じだった。
家からほんの数メートル出ただけ……だけど。そういえば、こうやって外で会うのは、いつぶりだろう。
中学を卒業してから、いつも会うのはウチのリビングで。味気ない照明の下、だらしない格好でぐうたらとソファに寝転ぶ姿ばかり見てきたから……。
もうすぐ正午。南中に差し掛かり、不躾なほどに燦々と注ぎ込む太陽の光の中に佇む帆波の姿は、やたら新鮮に見えた。
こんなに、小柄だったっけ――そんなことにすら、今さら思い出したように驚く。
ふわりとした白いブラウスは、陽の光を受けて輝くようで、ひらりとなびく膝丈の薄水色のスカートは青空のように清々しく。さっきまで寝癖をつけていた長い黒髪は、きっちりとポニーテールに結われ、その小さく愛らしい顔が輪郭まで惜しみなく顕になっている。
中学んときのセーラー服姿とも、ダボっとしたTシャツショーパン姿とも違う。いつもよりずっと清廉で甘い印象が漂い、『女の子』――というものを見せつけられているような気がした。
ぐっと思いっきり胸が掴まれるような感覚があって、息を呑む。
そういえば、ここずっと、私服姿もろくに見たこともなかった。年頃というやつになってから、休日に遊ぶようなこともなくなったし、たまに帆波がウチに来るときは部屋着全開の格好で。それが当たり前になっていたから……。
鍵のことも……告白のことも……一瞬、忘れて、見惚れた。
もう何年も片思いしてきたはずなのに。『一目惚れ』でもしたかのような……そんな衝撃の中に落とされた。
そうして見つめていると、茫然としていた帆波は声も無くハッとして、顔を逸らした。
その顔はじんわりと赤らみ、睫毛の下で伏せた瞳は心許無く揺れ、潤んでいるようにさえ見えた。
いつもなら、「なに、ジロジロ見てんのよ?」と毒を吐き、睨んできそうなものなのに。そんな刺々しさはどこにも見当たらない。毒気も棘も無く、そこにいるのは、何かを必死に耐えているかのような――愛くるしい顔を切なげに歪ませる、健気な美少女で。
見たこともない帆波のその姿に、正直、たまらなく唆られた。
庇護欲と支配欲が混ざり合ったような……倒錯的な衝動を覚えながら――いや、誰だよ!? と心の中で叫んでいた
なに? なんだ、これ? なに、この状況? 誰だ、これは!?
まるで、別人みたいだ。
帆波か? 本当に……この子は、帆波なのか? このいじらしい子が……!? 狐でも化けているんじゃないか――なんて、馬鹿げたことさえ考えてしまった。
いったい、どうしたんだ? その反応はなんなんだ? どう受け止めたらいい? てか、どうすればいいんだ!?
今から会いに行くところではあったけど……まさか、こんなところで出くわすとは。あまりに想定外すぎて、「ちょうど良かった」なんて鍵を手渡す機転も回らなかった。なんでウチの前に――と、ふと、そんな疑問がよぎって、全身に電流でも駆け抜けたような衝撃が走った。
もしかして……『答え』を言いに来た、とか? こんなに早く……!? いや、しかし、それ以外に何が……?
一気に緊張で身体が強張る。心臓がゆっくりと、重々しい鼓動を打ち鳴らし始めていた。
ごくりと生唾を飲み込み、必死に気を落ち着かせながら「帆波……」と静かに呼びかける。
すると、帆波はあからさまにびくんと体を震わせ、
「違うから!」と弾かれたように、真っ赤な顔で叫んだ。「私……まだ、ムリ……で。頭、いっぱい……だから、その……返事しに来たわけじゃなくて……ただ、広幸さんに会いに来ただけなの!」
震えた声を詰まらせながらも早口でそう捲し立て、帆波は俺の横を走って通り過ぎていった。
え――と訊き返す暇もなかった。そのまま、インターホンも押さず、ウチの門をくぐって玄関へと向かっていく。その後ろ姿を俺は茫然と見つめて立ち尽くした。立ち尽くす……しかなかった。
まさに、狐につままれたような……そんな感じだった。でも、呆気にとられながらも、同時に、本物だと確信してしまった。
そのセリフも、十日ぶり、か。それを帆波らしい――と思うなんて、情けないやら、虚しいやら。ため息混じりに自嘲のようなものが溢れていた。
結局、顔も逸らされたまま、まともに会話もできなかった。
やっぱ、脈無し……どころじゃないか。
兄貴に会いに来た、なんてもう何度言われたかも分からないのに。聞き慣れたもん……のはずなのに。今のが一番堪えた。
とりあえず、今はもう家に戻りたくもなくて、母親に宣言した通り、コンビニに向かった。
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