第9話 ふりだし【上】

 背後から玄関の扉が閉まる音がして、ようやく、ふうっと深く息を吐き出し、全身の力を抜いた。

 それでも……心臓はまだ狂ったように激しく波打って、今にも燃え上がりそう。その熱に全身が冒されていくようで。逆上せたみたいに頭はぼうっとして、顔も身体も火照って仕方なくて――どうしたらいいかも、分からない。

 しゃがみ込んだまま、ぎゅっと自分を抱きしめるように両腕を掴む。

 幸祈の奴、なんなのよ? 突然、何? 全然、違うじゃん。いつも、一歩引いた感じがあって。腹立たしいほどに落ち着いて、冷静で。老熟しちゃってるみたいに理性的。私が隣にいても平気そう……どころか、だいたい、いつも呆れ顔を浮かべてた。それが……何? ずっと下心があった、てどういうこと? お前、また、来てんのかよ――て、鬱陶しそうに言ってたくせに。抱きしめたい、てそう思いながら、ずっと隣にいたの? しかも、『それ以上も』って……? この前は――私がリビングで寝たふりしてたときは――『キスなんて考えるわけない』ってきっぱり否定してきたのに。

 まるで、別人みたいだ。

 全部、知らなかった。全然、気づかなかった。これからは本気で惚れさせる――なんて……そんなこと言う奴だったの?


 ああ、もうムリ。ほんと、ムリ。

 思い出しただけで……悶え死にしそう――。


 胸がきゅうっと締め付けられて、「はうう……」て出したことないような弱々しい声が漏れる。

 つまり――どういうこと?

 これって、両思い……てこと?


「りょ……りょうおもい……」


 ぽつりと呟いただけで、ぼっと顔に火がついたみたいに熱くなる。咄嗟に、顔を両手で押さえた。


 どうしよう――。


 胸がいっぱいだ。身体の中で何かが今にも爆発しそう。だって……両思いなんだ。私と幸祈、両思いなんだ。あとは、私が幸祈に『答え』を伝えればいいだけ。そしたら、幸祈のお嫁さんに――じゃない。それは気が早すぎ。幸祈も私も十五で、結婚できない……じゃなくて!

 だ……ダメだ。全然、頭が回らない。思考が暴走する。いっそのこと、頭から冷水でも被りたい。そしたら、少しは冷静になれるかも。

 そうだ、と顔を上げる。

 お風呂……お風呂に入ろう! それで、一度、落ち着いて……幸祈に伝えに行こう。

 私もずっと、幸祈のこと好きだったんだ――て……伝えよう。

 口許がむずっとする。

 その瞬間を想像するだけで、思い出したように緊張が身体を縛り付けてくる。


 ちゃんと……言えるかな。どんな顔して……言えばいいんだろう。


 やっぱり、笑顔の方がいい? それとも、真剣に言ったほうがいいの? また、泣いちゃったら……どうしよう。

 そしたら、でも……幸祈、抱きしめてくれたりするのかな? だって、もう『彼氏』になるんだし――。


「か……かれし……」


 自然に出てきたその単語に、自分でハッとして、すとんと腰が抜けたみたいにその場に座り込んでいた。

 カレシ――て言葉が、脳裏で煌めく。

 幸祈が……カレシ? 私の彼氏? 私だけの――。

 ふふ、て勝手に唇が綻ぶ。

 なに、これ。子供みたいにウキウキしちゃって……バカみたい。さっきまで、あんなにどん底まで落ち込んでたくせに。


 ぜーんぶ、ハンペンマンのせいよ。


 ハンペンマンがあんなおかしな悪夢を見せるから。だから、私、幸祈が佐田さんのこと好きだ、なんて思い込んで、幸祈の告白も勘違いして――。


「って……あれ……」


 ふと、違和感が鋭く胸を突く。


 待って……。何か、おかしい。

 それって、違う……。そうじゃ……ないよね。


 ハンペンマンの呪いなんて、そんなもの本当は無い……よね。ハンペンマンはただのぬいぐるみ。あの悪夢は私が創り出したもの。潜在意識にある不安が形になって、脳裏に映し出されただけ。

 そうだ――私、すっかり浮かれて……大事なこと忘れてた。

 悪夢はじゃない。

 幸祈が佐田さんのことを好きだ、て私が思ったのは、幸祈の口からそう聞いたから。幸祈が広幸さんに、学校に好きな子がいて……それが佐田さんだ、てはっきり言うのを盗み聞きしたから。だから、悪夢を見始めたんだ。


 まさに、冷や水ぶっかけられたようだった。


 一瞬にして興奮は冷め、さあっと全身から血の気が引く。

 なんで――て、冷静さを取り戻した頭の中を今度は疑問が埋め尽くす。

 なんで、幸祈は『佐田さんがどんな子かもよく知らない』なんて言ったの? ほんの十日前に、広幸さんに『好きだ』って言ってた子だよ? どんな子かも知らない子を『好きだ』なんてお兄さんに言う?

 ――それだけじゃない。

 まるで、芋づる式に疑念がずるずると引き出されるように、「そういえば……」とふと、思い出していた。

 広幸さんのことも、幸祈はずっとチグハグなことを言ってた。私が広幸さんのことを好きだ、て分かってるけど、下心は消せなかった、とか。私を幸せにして、広幸さんのことを忘れさせてみせる、て……。

 確かに、私は広幸さんのこと好きだけど。だから、なに? 幸祈の下心となんの関係があるの? 兄弟だから恥ずかしい、とか? でも、広幸さんを忘れさせるって……どういう――?

 

 その瞬間、ばちりと脳裏に閃光が弾けたようだった。


 あ――て、目を見開いて、リビングで一人、私は愕然とした。

 まさか……幸祈って、私が広幸さんのこと、好きだと思ってる!? もしかして……いや、もしかしなくても……だから、広幸さんに好きな人がいる、て話をしてきたの?

 そういうこと……? それなら、確かに、いろいろと繋がることもある。

 冷静に思い返してみれば、幸祈の告白は妙だ。だって、最初に幸祈は、私の気持ちを分かってる、て言ってきたはず。それで、私はパニクっちゃって……そこから、すっかり取り乱して、幸祈の話をまともに聞くこともできなくなった。それなのに――さっき……幸祈は『待つ』って言ったんだ。私の答えを待つ、て……。私の気持ちを本当に知っているなら、待つ必要なんてないことも分かるはずなのに。


 確信した。

 間違いない。幸祈は私が広幸さんに片想いしてるって……それが私の『気持ち』だ、て勘違いしてるんだ。

 でも……なんで? なんで、そんな勘違いしてるの? 私……ずっと、広幸さんを避けてたくらいだったのに。ここ最近は、幸祈の前で広幸さんとまともな会話だってしたこともなかったはずなのに。


「う〜ん……」


 床に座り込んだまま、頭を抱えた。

 どう……なってんの?

 あと一歩のはずなのに。あと一言で、幸祈のカノジョになれるはずなのに。

 ここにきて、疑問が邪魔をする。好き――てたったその一言の前に、なんで、て言葉が山積みになって立ちはだかる。

 佐田さんのこと。広幸さんのこと。どうしても、しっくりこなくて。気になってしまう。躊躇いが生まれる。このままじゃ、笑顔……どころか、『答え』さえ幸祈に伝えることもできそうにない。

 だから――。

 瞼を閉じ、覚悟を決めるようにすうっと息を吸う。


 訊こう、と思った。広幸さんに……。あの日のことも全部、きっと広幸お兄ちゃんが全部、答えを知っているはずだから……。

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