第5話 告白【上】

 こんなに簡単だったんだ。幸祈の胸の中に、こんなに簡単に入り込めたんだ。

 初めて……のはずなのに、不思議なほどしっくりくる。懐かしくすら感じる。あまりに居心地よくて、ずっとここにいたくなる。

 幸祈の胸に顔を埋めたまま、微睡むように目を閉じた。

 これが幸祈の感触なんだ――。思ってたより、ずっと固くて……熱い。逞しいその胸の奥からは、ドクンドクン、て低い鼓動が響いてくる。いつも平然としてぶっきらぼうで、どこか一歩引いたように澄ましてるくせに。その音は力強く、私以上に激しく波打っていて。実は結構、情熱的……だったりするのかな――なんて、幸祈の秘密を覗いたような気分になって、こっそり微笑んだ。

 ちょっとだけ……ほんの数歩、いつもより近づいただけなのに。全く知らない幸祈の一面を身体中に感じるようで。もっと近づきたい、て思った。もっと知りたい、て欲が湧いてくる。髪を撫でるその手も、焦れったいほどに優しくて……もっと触ってほしい、て思ってしまう。こんなふうに優しく、身体にも触れてくれるのかな――なんて想像しただけで、鳩尾の奥がきゅうって締め付けられて、全身がじんわりと熱を帯びていく。

 やっぱり、厭だ。

 離したくない。を譲りたくない。このぬくもりも、匂いも、感触も、誰にも知られたくない。幸祈を佐田さんに渡したくない。


 だから……言おう。

 だって、まだ、間に合うはずなんだ。幸祈はまだ、バスローブを着ていない――じゃなくて……まだ、佐田さんのものになったわけじゃない。まだ、片思い。私と同じ。それなら、手遅れじゃないはず。


 すうっと息を吸い、「幸祈――」て顔を上げようとした、そのときだった。


「帆波」と静かに……でも、しっかりとした口調で言う声が降ってきて、「話がある」


 ぎくりとした。――不穏な気配を一瞬にして感じ取った。

 髪を撫でていた手がぴたりと止まって、その身体は心なしか強張って……何か、違う。幸祈の雰囲気が変わった。

 なに? 急に、なに? 話って……なに?


「今日、会いに来たのは……鍵を返そうと思ったからなんだ」


 鍵――!?

 ハッとして、思わず、身を離して顔を上げていた。


「その反応……鍵を失くしたこと、気づいてはいたみたいだな」責めるように言いながらも、その顔にはいつも通り、穏やかな苦笑が浮かんでいた。「お前な、失くしたんならちゃんと言えよ。俺ん家の鍵なんだぞ。ウチに落ちてたから良かったけど……もし、外で落としてて、変な奴に拾われてたらどうするんだ」

「あ……そう、だね。ごめん」

 

 そう謝りながらも、つい、頰が緩みそうになる。

 改まって何を言い出すのかと思ったら……そっか。鍵、渡しに来てくれたんだ。話って、お説教か。

 ホッとして……嬉しくなった。

 当然、幸祈に他意はないんだろうけど。ただ、鍵を家で見つけたから届けに来てくれた――それだけなんだろうけど。まだ、幸祈が私に鍵を渡してくれる、てことに望みを感じてしまう。少なくとも、『もうウチには来ないでほしい』とは思われていない、てことだから……。

 良かった、なんてひっそりため息吐いたのもつかの間、


「ただ……渡す前に、言わなきゃいけないことがある」


 急に表情を険しくして、幸祈はそんなことを言ってきたのだ。

 嫌な予感が全身を駆け抜ける。緩みかけてた緊張感が戻ってきて、全身を縛り付けてくるようだった。


「な……なに?」


 締まっていく喉をこじ開けるようにして、おずおずと訊ねると、幸祈は躊躇うような間を空けてから、ゆっくりと口を開き、


「俺、お前の気持ち……分かってる」

「え……」


 時が止まったようだった。

 ぽかんとして、私は何も考えられずに固まった。幸祈の言った言葉の意味が、分からなかった。いや……それを理解するのを頭が拒んでいた。私の気持ちって、だって、それは……つまり……。

 心臓が焼けるように熱くなっていく。わずかに手が震えていた。

 そんな私をどこか申し訳なさそうに見つめて、幸祈は容赦無く続けた。


「好き……なんだよな? 俺の――」


 その瞬間、かあっと喉の奥から熱がこみ上げてきて、


「やめてよ! はっきり言わないで、バカ!」

「あ……悪い」

「フツー、直接言う!? 信じらんない! デリカシー無さすぎ! 何考えてんの!? ありえない!!」


 もう顔を合わせていられなくて、私は逃げるようにふいっとそっぽを向いていた。

 ――嘘でしょ!? 最悪。最低。バレてた、てこと? ずっと? 私が幸祈のこと好きだ、て!?

 それで……? それで、何を言いに来たの? 私の気持ちを分かってて、鍵を渡す前に言わなきゃいけないこと、て……。

 ちゃんと報告してなかったな。俺、万由子と付き合うことになったんだ――そんな言葉が脳裏に響いて、ぞくりと背筋が凍りついた。


「ごめん、帆波。やっぱ、それをちゃんと言っておかないとフェアじゃないか、と思って……」


 フェアってなによ。なんで謝るのよ。まで、優しくしないでよ。


「お前が……なんで、ウチに来るのか、その理由はちゃんと分かってる。分かってたから、ずっと言わなかった。言っちゃいけないと思ってた。でも……」

「――もう諦めろ、て言いに来たんでしょ!」

「へ……」


 もうまどろっこしくなってしまった。幸祈の優しさが……今は、むごいだけで。そうっとそうっと、生皮を剥がされていくようで。いっそのこと、一思いにフッてよ、て思ってしまった。


「これ以上、ウチに来ても無駄だ、て……伝えに来たんでしょ。他に、好きな人……いるから」

「え!? いや……好きな人って……なんで、知って……!?」


 図星――と言わんばかりに、途端にその声は冷静さを失って、動揺もあらわにあたふたと慌てだした。

 呆れるくらい、分かりやすいよね。

 見なくても目に浮かぶ。どうせ、真っ赤な顔でニヤけてるんでしょ。鼻の下まで伸ばしちゃって、デレデレしてる? ほんっと、厭。そんな幸祈、絶対、見たくない。


「兄貴に……聞いたのか?」


 しばらく口ごもってから、ぽつりと……諦めたように幸祈が訊いてきた。

 ハッとして、咄嗟に「別に……ただの勘、だったけど」とごまかしていた。

 さすがに……広幸さんとの会話を盗み聞きした――なんて言いたくない。そんなの、惨めすぎる。


「そう……か」


 ぎこちなく相槌打って、「ごめん」と幸祈は追い討ちかけるように謝ってくる。


「謝るのやめて」吐き捨てるように言って、身を翻していた。「もう鍵もいらない。持って帰って」


 また、涙が零れ落ちてきそうで。今度はもう……幸祈に抱きついたりしたくなくて。逃げるように部屋に戻ろうと歩きだした、そのとき――、


「帆波!」と焦ったような声を張り上げ、幸祈が腕を掴んできた。「俺じゃダメか!?」


 は……?

 ぎょっとして振り返れば、やっぱり、そこには、顔を真っ赤にした幸祈がいた。ただ、その表情はニヤケてなんかいなくて。切羽詰まって、真剣そのもので。気迫、というか……鬼気迫るものがあって、怖いくらいだった。


「な……何……?」


 たじろぎながらも訊ねると、幸祈はひときわ顔を強張らせて言い放った。


「俺は、帆波のことが好きだ。ずっと好きだった。これからは……俺に会いに来て欲しい」

 

 な……なに……? なんて……言ったの? 何を……言ってるの?


「は……はあ?」と弱々しい声が漏れていた。「私のことが好きって……どういう……」

「すぐに、どうなりたい、とか……そういうんじゃない。ただ、これからは、幼馴染じゃなくて、男として見て欲しいんだ」

「男として……?」


 ぶわっと顔が赤らむのが分かった。

 待って……ちょっと、待って……!? それって、つまり、……? これって、告白? でも、おかしいでしょ。ダメでしょ!?


「何、言ってんの!?」と幸祈の腕を振り払って、声を荒らげていた。「他に好きな人いるのに、そんな――」

「分かってる!」


 分かって……るの!?


「分かってないでしょ、絶対! 言ってること、めちゃくちゃ……」

「ずっと我慢してた。他に好きな人がいたら、諦めなきゃいけないんだと思ってた。でも……それは、逃げてるだけだったんだ。他に好きな奴がいようが関係ない。そんなの、どうでもいい。

 俺は帆波が好きだ。必ず、幸せにしてみせる! だから……俺とのこと、考えてみて欲しいんだ」


 あまりのことに、言葉も出てこなかった。頭の中が疑問符でいっぱいになっていた。


 他に好きな人がいるのに、私のことが好き? 他に好きな人がいても関係ない? そんなの、どうでもいい……て言った? それって、つまり……堂々と二股する、てことじゃないの?

 他に好きな人がいるなら……諦めなきゃダメでしょ。どっちか選ばなきゃダメでしょ。


 なに、これ? ワケ分かんない。頭がクラクラしてきた。

 まだ、悪夢の中? ううん、悪夢よりひどい。幸祈が男として、最低なこと言ってる――。

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