第4話 初めて【下】
確かに、いつもTシャツにジーンズ姿で、兄貴と違って服装にこだわりも興味もないし、ファッションセンスがあるとも思っていない。今日も例に漏れず、濃紺のTシャツに黒ジーンズ。なんの代わり映えもない。たまには違う格好をしろ、と思われていても仕方ないとは思う。それでも――だ。バスローブはないだろ!?
なんなんだ? なんでバスローブ? なんで泣く!?
俺がバスローブを着ていないから、泣いてるのか? 何か……バスローブを期待させるようなことを言ったか? 覚えていない……けど、どっちにしろ、意味が分からない。ここまで、泣くようなことか? 苦しげに嗚咽を漏らして……俺に抱きついてまで――。
初めて……だぞ。帆波に抱きつかれるなんて。
背中に感じるその手が、ぎゅっとしがみつくようにTシャツを握りしめているのが分かった。力一杯、俺の体を抱きしめ、これでもかというほどに密着してきて……帆波の感触をはっきりと感じた。柔らかくて暖かくて……そして、鳩尾のあたりに、やたらとふにっとしたものが当たっていた。見なくても、それが何か分かる。脳裏に勝手に浮かんできてしまう。だらしなく緩んだTシャツの胸元からチラリと覗く谷間――見ないようにしていたつもりでも、はっきりとその画は脳裏に焼きついている。
何度も、その感触を想像しては、高揚感と背徳感の間で悶えた。
今も……そうだ。
いっそのこと、これが夢だったらいいのに、なんて思ってる。そしたら、この続きだってできる。このまま、思いっきり抱き締めて、すっかり俺の胸に収まるようになったその身体を、衝動のままに求めたっていい。いつも毒ばかり吐く、苛立たしくも愛らしいその唇に触れて、無防備に預けてくるその身にずっと溜め込んできた欲望をぶつけてもいい。これが夢なら……今まで想像することしかできなかったもの全てを――帆波を、奪える。
でも、腹の奥底からこみ上げてくる熱は、虚しいほどに生々しくて。確かに昂ぶるそれが、これは現実だと思い知らせてくるようで。興奮と罪悪感の荒波にもまれるようだった。
そんなとき、
「怖い夢……見た」
俺の胸に顔を埋めるようにして、くぐもった声で帆波がぽつりとそう言うのが聞こえた。
「は……?」と惚けた声が漏れる。「怖い夢……?」
「幸祈が……バスローブ着て……どっか行っちゃう夢……」
「え……」
きょとんとしてしまった。
なんだ、それ? 俺がバスローブ着て、どっか行く夢? どんな夢だよ……!? こいつの頭ん中で、俺はそこまで危機的なファッションセンスなのか? そんなことで、泣きついてきたのか?
荒れ狂う海から、ぽんといきなり無人島にでも打ち上げられたような。そんな、なんとも侘しいあっけなさがあった。
ふっと苦笑が漏れる。
体から熱が引いて、一気に冷静さを取り戻していた。
なんて奴だ、と呆れる。呆れながらも……愛おしい、と思ってしまう。
「バスローブなんて着ねぇよ」
言って、そっと頭を撫でた。
たぶん――少なくとも、物心ついてからは――初めて触れたその髪は、想像していたよりもずっと滑らかで、ふわりと柔らかな感触がして。それだけで、身体の芯がぞくりと痺れた。
ああ、やっぱりダメだな、と思い知る。
抱き締めたら、終わりだ。きっと止められなくなる。箍が吹っ飛ぶ。
「ほんと……?」と胸の中で帆波がもぞっと動いて、「もらっても……?」
「『もらっても』!? いや……もらいもののバスローブとか、もっと着にくくね? 分かんねぇけど……」
「どこにも……行かない?」
帆波のものとは思えない、まるで覇気も生気すらもないような弱々しい声だった。
ぐっと胸に迫るものがあった。
「俺は……どこにも行かねぇよ」と熱い吐息とともに、苦しげな声が漏れていた。「バスローブ着て、出かけたりしない。約束する。――だから、大丈夫だ」
ほっと帆波が安堵して、その身から力が抜けていくのを、文字通り、肌で感じた。
いったい、夢の中で俺がどんなバスローブを着て、何をしでかしたのかは分からないが……泣き止む帆波に、よかった、と安堵しながらも、同時に、不安がこみ上げてきていた。
こんな帆波の姿は――ここまで弱さを曝け出す姿を見たのは、初めてだったから。
もし、兄貴にカノジョがいる、て知ったら、帆波はどうなってしまうんだろう……なんて、考えずにはいられなかった。
きっと、こんなもんじゃないよな。失恋……だもんな。しかも、相手は俺の兄貴だし。俺に泣きついてもこれない。どこかで一人で泣くんだろうか……。
想像しただけで、身が引き裂かれそうになる。悔しさがこみ上げてくる。
俺なら……と思わずにはいられない。
俺なら、泣かせたりしないのに。帆波を悲しませるようなことはしない。バスローブだろうがなんだろうが一生着なくていい。どこにも行かない。ずっと帆波の傍にいる。失恋だって、させない――と、ふいに思って、ハッとした。
その瞬間、それまで頭の中を暗雲のように覆っていたものが、一気に吹き飛んだようだった。
すっきりと晴れ渡ったような頭の中で、兄貴の言葉が響いていた。帆波をかわいそうだと思うなら自分でなんとかしろ、て言ったその言葉の意味が……ようやく分かった気がした。
そうだ。俺が帆波を『失恋』させなきゃいい。
――俺が、帆波を幸せにすればいいだけだ。
いつも葛藤に荒れ狂っていた胸の中が、凪のように落ち着いていた。
ずっと喉につっかえていた何かが取れたようで。今まで感じていた息苦しさも消え、「帆波」と呼ぶ声が気持ちの良いほどすんなりと出てきた。
「話がある」
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